363. 楽しかったって、思ってさ……
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唐突に抱き寄せられたクロエは、勢いのままブラジェイの胸にぶつかった。
厚い胸板に受け止められ、そのまま強く腕に包み込まれる。
直後にクロエのすぐ背後を、鉄の車輪が石畳を削るような轟音とともに、馬車が猛然と駆け抜けていった。
ブラジェイの腕がぐっと強まる。一拍遅れて、クロエはようやく危機を理解した。
砂埃と風がクロエの髪をかすめ、乱暴な蹄の音が遠ざかっていく。
「ったく、危ねぇな。こんな街中をあんなスピードで走りやがって。カジナルなら、とっ捕まえてるところだ」
ブラジェイの声が低く、腹の底から響く。
クロエは思わず息を飲み、胸に顔をうずめたまま、体を強張らせていた。
彼の腕の中にいるという事実が、恐怖よりも先に心臓を鳴らす。
「大丈夫か? クロエ」
体がゆっくりと離され、二人の間に夜気が流れ込む。
その冷たい空気が、火照った頬をかすめた。
「ああ、悪いね……」
「気にすんな。これが俺の仕事だからな」
「はは、そうだろうさ」
軽口を返しながらも、クロエの胸の奥に小さな痛みが走った。
そう、彼にとってこれは任務の一環。護衛として当然の行動なのだ。
そのはずなのに、どうしてこんなにも寂しさがこみ上げてくるのか──。
ふいっとブラジェイから身を離し、クロエは無理やり歩き出した。
その背に、彼の声が追いかけてくる。
「仕事じゃなくても守ってやる」
その声は、まるで独白のようであり、誓いのようでもあった。
クロエは振り返りたくなる衝動を喉の奥で噛み殺し、ただ歩を進める。
「そいつはありがたいねぇ。けど無用なことさ。あんたが護衛じゃない時は、別のやつがあたしの護衛についてるんだ。ブラジェイは、守るべき人をちゃんと守ってやりな」
もう彼に、二度と〝守れなかった〟という痛みを背負わせてはいけない。
クロエの胸にそんな想いが浮かんだ時、背中越しに荒っぽい声が返る。
「なに遠慮してんだ、てめぇ」
「遠慮なんかじゃないさ。あんたには守りたい人が他にもいるんだろう? あたしにかまけてたら、その子を守れないよ」
「クロエ」
名を呼ぶ声は鋭く、次の瞬間、肩をぐっと掴まれた。
振り向かされるようにして視線がぶつかる。
夕闇が迫る中、二人の影が重なった。
「ブラジェ──」
「守りたいやつは、確かに他にもいるがな。クロエも俺の守りてぇ対象だ。しっかり覚えとけ」
クロエは一瞬、息が詰まった。
ブラジェイの声はいつもより低く、重く、胸の奥に直接響いてくるようだった。
「……そうかい。勝手にしな」
精一杯の強がりを口にしながらも、心臓が熱く脈打っていた。
俯くと頬の内側まで熱くなる。
「行くよ。腹減っちまったからね」
「……おう」
静かな街路を並んで歩く。
黄昏が完全に夜へと変わり、油灯がひとつ、またひとつと人の手によって灯されていく。
やがて、レストランの看板が見えた。中に入ると、木の香りとワインの匂いが迎えてくれる。
ブラジェイは奥の落ち着いた席を指し、クロエはそこに腰を下ろした。
皿が並び、グラスが触れ合う音が響く。
ブラジェイと二人で食事する──ずっと願っていたささやかな夢が、ようやく現実になった瞬間だった。
「今日はゆっくり食べろよ、クロエ。どうせ明日から、また忙しいんだろうからな」
「嬉しいねぇ。あの坊やがそんな気遣いできるようになったのかい?」
「てめ、俺は昔から気遣いできる男だろうが」
「あはは! どうだかね! ティナに聞いてみな、大笑いの的さ!」
クロエは思い切り笑った。
その笑い声に、ブラジェイは眉をひそめるかと思いきや、むしろ嬉しそうに唇の端を上げた。
「ま、飲めや。今日は俺の奢りだ」
「じゃあ遠慮なく飲ませてもらうよ」
「おう。遠慮なんざすんな」
ブラジェイがグラスを掲げ、ぐいと飲み干すのを見て、クロエも負けじとそれに倣った。
二人のグラスが何度も軽くぶつかり、そのたびに澄んだ音が心地よく響いた。
料理は次々と皿から消えていき、いつの間にか店内の灯りが柔らかく落ち着いた色に変わっていた。
グラスの中の酒が心地よく喉を通り、体の奥からじんわりと温かさが広がっていく。
頬が火照っているのが自分でもわかる。笑うたび、胸の奥までふわりと軽くなっていくようだった。
「クロエ……おめぇ、酔うとそんな顔すんのかよ」
「どんな顔さ」
「あー……言えっかよ」
ブラジェイは目を逸らしながら頭を掻き、吐息を漏らす。
会話は尽きず、笑いは絶えない。やがて、彼のグラスが空のままになっているのに気づいた。
護衛の彼は、途中からきっちりと酒を控えていたのだ。
「はぁ、美味しかったねぇ……こんなに美味しいお酒は、久しぶりだよ」
「また息抜きにでも連れ出してやるよ。宿に戻るぜ。立てるか?」
「うん……」
クロエは、どこか地面から足が離れたような浮遊感を覚えながらも立ち上がった。ブラジェイが勘定を済ませる姿を、ぼんやりと見送る。
外に出ると、夜の空気が肌を刺すように冷たく、ほてった頬を一瞬で冷ましていった。
石畳の通りには、ところどころ油灯が揺らめき、風に揺れる炎が二人の影を長く伸ばしている。ふらりと一歩踏み出した瞬間、背後からブラジェイの声が飛んだ。
「どっち行ってんだ。宿はこっちだぜ」
「おや、そうだったかい? 酔いがまわっちまったかねぇ……」
「あんだけ呑んでりゃ当然だ」
クロエが足を止めると、ブラジェイがため息をついて手を伸ばした。
「ったく、しゃーねぇなぁ。ほら」
「ん?」
「掴まっとけ。転んだら面倒だ」
「……優しいねぇ」
「怪我されると面倒なんだよ」
口ではそう言いながらも、彼の掌はしっかりとクロエの腕を支えていた。
その手の温もりに、クロエの胸が静かに波打つ。
二人は寄り添うように歩き、やがて宿の前に辿り着いた。
看板の灯りが微かに揺れ、夜風に花の香りが混じる。
宿の扉をくぐると、受付の女主人が柔らかく微笑む。
クロエが軽く頭を下げて鍵を受け取る間も、ブラジェイは腕を離そうとしなかった。
「……おい、階段気をつけろよ」
「心配性だねぇ、ブラジェイは」
「酔って足踏み外して落ちたら、明日どやされんのは俺だ」
階段を上がるたび、木がかすかに軋んだ。ブラジェイの手が自然にクロエの腰を支える。
ランプの光が二人の影を寄せ、淡く重ね合わせる。
部屋の前に着くと、ブラジェイは鍵を受け取り、カチャリと扉を開けた。
「ほら、着いたぜ」
ベッドまで導かれ、クロエはそのまま腰を下ろす。
まだ頭の奥が柔らかく浮かび、ふわふわとした心地が抜けない。
「ふふ……ふふふふっ」
急に笑い出したクロエに、ブラジェイは訝しげな視線を向けた。
「おい……どうした?」
「楽しかったって、思ってさ……あんたと呑むの……」
「ああ、俺もだ」
その言葉に、心がじんわりとほどけていく。
クロエは彼を見上げ、ふっと笑った。
「本当かい……?」
「まぁな」
そこには照れもなにもない。ただまっすぐな瞳がクロエの姿を映し出している。
(悔しいねぇ……)
なんの揺らぎも見せない彼に向かって、クロエはそっと手を伸ばした。
けれど、立ったままのブラジェイには届かず、空を切って膝の上に落ちる。
「なんだそりゃ」
「あはは……あんたは遠いね。触れやしない」
するとブラジェイは、ためらいもなく屈みこんでその手を取り、自らの頬に押し当てた。
「遠かねぇだろ。俺はクロエの目の前にいんだからよ」
その頬の温もり。
肌の下を流れる血の鼓動が、指先から伝わってくる。
とくん、とくん──
鼓動が少しずつ速くなっていく。
息が熱い。目が離せない。
「……そんな目で見んじゃねぇ」
そう言われても、自分がどんな顔をしているのかわからない。
浮かぶのはただ、ひとつの疑問だけ。
「どうしてだい……?」
「……理性が、もたねぇ」
その言葉が落ちるより早く、ブラジェイの腕がクロエの肩を押した。
ベッドの上。抵抗する間もなく、背中が柔らかな布に沈む。
重みはない。ただ、覆いかぶさるように見下ろす影が、すぐ目の前にあった。
「ブラジェイ……!?」
彼の顔が、こんなにも近い。
呼吸が混ざりあい、鼓動の音が互いの胸の奥で響いている。
その瞳は、いつものように鋭くも荒っぽくもなく、なにかを抑え込むように揺れていた。
「どうしたんだい、急に──」
「おめぇが煽ったんだろうが」
ハァッ、と吐き出された息が首筋を撫でる。
その熱に、クロエの体はびくりと震えた。




