362.二人で乾杯したい気分だったんだよ
クロエはうっすらと、ブラジェイへの気持ちを自覚してはいた。
それを態度に出さないよう努めてはいるものの、彼の何気ない言葉や仕草に、心がふっと舞い上がってしまいそうになる。その感覚は、かつてミカヴェルに抱いたものとまったく同じだった。
しかし今、ミカヴェルのことを考えると、胸の奥に残るのは温もりではなく、ただただ息苦しい痛みだった。
もう会えないわけではない。いつかきっと、また会えるはずだと信じている。
けれど、その〝いつか〟があまりにも遠く思えて、夜風のように心の隙間をすり抜けていくたび、どうしようもなく寂しさが押し寄せた。
もし、向こうで彼が新しい誰かと巡り会っていたら。
そんな想像をした瞬間、息が詰まるほど胸が痛んだ。
それでも、彼への想いを手放すことだけはできない。どれほど時間が経っても、ミカヴェルはクロエの中で色褪せることがなかった。
だからこそ、今、ブラジェイと過ごす穏やかな時間が、嬉しくもあり、怖くもある。
ミカヴェルとは違う優しさ、違う温度に、少しずつ惹かれていく自分を感じてしまうからだ。
気づかないふりをしても、胸の鼓動は嘘をつかない。
それでも、深みに落ちてはいけないとクロエは自らを戒めていた。
ブラジェイと結ばれるわけにはいかない。
なぜなら、クロエはミカヴェルの駒。
いつ、どんな指令が下るかもわからない立場にある。
ミカヴェルが命令を下しやすいように。そして、その時にブラジェイを傷つけないように。
彼と恋人になることは、最初から許されない関係なのだ。
それでなくとも、ブラジェイはすでに恋人を失っている。
その悲しみが完全に癒えることなどない。
彼の心に新しい傷を刻むような真似は、決してできなかった。
しかも、その恋人が亡くなったのは──直接ではないにせよ、クロエにも一端の責任があるのだから。
そして最大の理由は、ティナの存在だった。
クロエは自分でも、ブラジェイと気が合うと思っていた。
少なくとも嫌われてはいないし、彼が自分を気にかけてくれていることも感じ取っている。
けれど、ティナと一緒にいる時のブラジェイの顔を見れば、その違いは明白だった。
彼がティナに向ける笑顔は、あまりに柔らかく、あまりに楽しげで、クロエの胸をほんの少しだけ痛ませた。
確かめたわけではない。けれど、二人が互いに心を寄せていることくらい、長年の勘でわかってしまう。
ならば、邪魔などできるはずもない。
ほんの少し、心が揺れただけ。
大切な人──ブラジェイ。
そして、妹のように可愛がってきたティナ。
この二人が結ばれることこそ、最も美しい結末だと、クロエはこの時、静かに信じていた。
***
グリレル村襲撃の事件から二年。
クロエは二十七歳になっていた。
五聖の任期は四年ごとに改選されるが、この年はちょうどその節目にあたる。
現五聖ベリオンは、四期十六年にわたってカジナル領を治めてきたが、ついにその任を降りる意向を示した。
後任に推挙されたのは、彼が最も信頼を置く副官──クロエ・アグライア。
その提案に対し、評議会も異を唱える者はなく、満場一致で承認された。
そして数日後。
厳かな空気が満ちる五聖の円卓の間において、正式にその任が下された。
──とうとう、念願の五聖執務官となった瞬間だった。
外へ出ると、円卓の地ディアモントの澄んだ風が頬を撫でた。
護衛として同行していたブラジェイが、会議室を出た瞬間、クロエの隣で軽く笑う。
「やったじゃねぇか」
その言葉が、胸の奥を温かく溶かしていく。
これまでの努力が、ほんの一瞬で報われた気がした。
「ああ……ようやくだよ」
言葉に滲む息は、少し震えていた。
その隣で、ブラジェイがいつになく穏やかな笑みを浮かべる。
「ま、当然だな。おめぇならやると思ってたぜ」
ブラジェイの声には、冗談めかした軽さの奥に、確かな尊敬と信頼が滲んでいた。
その響きが、クロエの胸に優しく沁みていく。
ミカヴェルから『五聖になれ』と命じられたのは、十六年前。
遠い記憶が一瞬にして蘇る。
今ようやく、その命を果たしたのだという達成感が、クロエの全身を包み込んでいた。
(あたし、ようやく五聖になれたよ……ミカヴェル)
心の中でそう呟くと、遠い日の彼の微笑みが一瞬、脳裏を掠めた。
これでようやく、ミカヴェルもクロエを駒として重宝できるはずだ。
心の中に喜びが渦巻いていく。
「クロエ。今日は二人で食うか?」
不意にかけられた声に、クロエはふっと目を細めた。
「いいね。二人で乾杯したい気分だったんだよ」
「ああ、俺もだ」
いつもなら、食事さえも仕事の延長。
重鎮たちとの会談、報告、駆け引き。話題は政ばかり。
けれど、この時ばかりは違った。
ブラジェイと二人きりで食事をしても、きっと罰は当たらない──そう思えた。
「俺ぁ、格式高ぇとこは苦手だがな」
「どこでもいいさ。小さなレストランでも、どこだって」
「そういうわけにゃいかねぇだろうが、おめぇは五聖なんだからよ。あー、これからはクロエ様って言った方がいいのかぁ?」
ブラジェイの冗談に、クロエは思わず肩を震わせて笑った。
「……そう呼ばれるのも悪くないかもね」
「本当にそう思ってんのかよ、クロエ」
至近距離で、真面目な顔のまま名前を呼ばれて──どくん、と胸が鳴る。
「……あんた、あたしがなにを言っても敬称をつけて呼ぶ気なんか、ないじゃないのさ」
「まぁな」
「いいさ、好きにしなよ。今さらあんたに〝クロエ様〟なんて呼ばれたら、気持ちが悪いしね」
「じゃあ好きにさせてもらう、ぜっ」
その瞬間。
ブラジェイは言葉の勢いのままに、クロエの手をぐいっと引いた。
反射的に息を呑む間もなく、彼の腕の中へと吸い込まれる。
どんっとその厚い胸板にぶつかった瞬間、クロエの心臓は激しく音を立てた。




