361.あの子といくつ離れてると思ってるのさ!
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その日の仕事を、クロエはいつもより少し早めに片付けた。
ティナとブラジェイの夕食を邪魔したくなかったのだ。
もし自分が遅くなれば、ブラジェイが護衛として付き合わざるを得ず、その間ティナが待たされることになる──それだけは避けたかった。
だから今日は、明るいうちに一人で帰ると心に決めていた。
書類の束を整え、必要な指示を済ませると外に出る。日差しはまだ充分に明るかった。
穏やかな風に街路樹の葉がそよぎ、柔らかい光が通りを照らしている。
「おい、クロエ。今帰りか?」
「……ブラジェイ」
一人でこっそり帰ろうとしていたのに、振り向くとめざとい男がそこに立っていた。
「まぁね。たまには早く帰ろうと思ってさ」
「いい心掛けじゃねぇか。おい、あとは頼むぜレイフ」
一緒にいた少年兵士に声を掛けるブラジェイ。
レイフは口を尖らせてむっとした表情を見せ、頬に小さな膨らみを作った。
「ブラジェイだけずっりぃ! 俺にもクロエさんを送らせてくれたっていいだろ!?」
「おめぇには任せられねぇな」
「俺、剣も魔法も使えるぜ!?」
「そういう意味じゃねぇ。てめぇは送りついでに食っちまうじゃねぇか」
ブラジェイが嫌そうな顔でレイフを見るも、彼はまったく悪気なく笑った。
口元の緩みと瞳の輝きが、まるで太陽の光のように眩しい。
「だって、きれいなお姉さんだぜ!? 食べなきゃ失礼じゃん!」
「レイフ、てめぇはいいから戻ってろ!」
「っちぇ、ずっりぃよなー自分だけー」
クロエはそのやり取りを、少し離れたところで見守っていた。
ぶつぶつと文句を言っていたレイフは、ふと顔を上げるとクロエと目を合わせ、ニッと笑う。
「じゃーなー、クロエさん! 今度は俺と一緒にデートしてくれよ!」
「え? ああ……」
思わず承諾してしまったクロエに、レイフは「よっしゃ」と喜びの声を上げながら去っていく。
その後ろ姿を横目で見送ったブラジェイは、大きく息を吐きながらクロエの横に立った。
「おい、クロエ」
鋭く響く声にクロエは思わず体をピクリと揺らした。目の前のブラジェイの顔は、少し怒りを含んだように見える。
「なんで今の、頷いた?」
低い声に、クロエは思わず目を瞬かせた。
「いや……ただの勢いさ。さすがにちょっとびっくりしちゃってね」
「勢いで、デートの約束すんのかよ」
「若い子の冗談だろ? 本当に誘われやしないよ」
クロエは、ははっと笑って見せる。しかしブラジェイの顔は渋く、険しいままだ。
「おめぇはレイフをわかってねぇよ。あいつはきっちり誘う奴だぜ」
「別に食事くらいは構わないさ」
「あのなぁ」
苛立ちを帯びた低い声が、夕方の静かな空気に溶ける。
クロエは眉をひそめ、なぜブラジェイがこんなに怒っているのか理解できずに立ち尽くした。
「クロエ、おめぇ……さっきのレイフの言葉の意味、わかってるか?」
「『食べなきゃ失礼』ってやつかい? 一緒にご飯を食べるって話だろ?」
ブラジェイが、言葉を失ったように固まる。
そして数秒後、深く長く息を吐いた。
「……お前なぁ」
「なんだい?」
「……いや、なんでもねぇ」
頭をガシガシと掻きむしり、話を終わらせようとする仕草。
しかし、どうしても言わずにいられなかったのだろう。ブラジェイは再びクロエの目をじっと見つめ、重い口を開いた。
「ありゃなぁ、メシの話じゃねぇよ。もっと……別の意味だ」
「別の?」
真顔でクロエを見つめるブラジェイの瞳には、守る意思が入り混じる。
「〝食う〟なんて言葉、笑って聞き流してんじゃねぇぞ。あいつはお前を抱くって意味で言ってんだ」
クロエは、ぽかんと目を瞬かせた。言葉の意味が頭に入るまで、少しの時間を要した。
「……は?」
ようやく絞り出した声は、掠れていた。ブラジェイは無言で腕を組み、わずかにそっぽを向く。
少し傾き始めた陽が、彼の影を伸ばしていく。
「抱くって……あの子が、あたしをかい?」
「他に誰がいんだよ」
肯定の言葉に、クロエは思わず吹き出した。
笑い声とともに、緊張の糸が一瞬だけほぐれる。
「っぷ、あははは! あり得ないよ! あの子といくつ離れてると思ってるのさ! あんな年下が、あたしなんかを相手にするはずないだろう!?」
思わず声を上げて笑ってしまったその瞬間。
ブラジェイの手がパシリとクロエの手首を掴んで迫った。
「あんま年下、舐めてんじゃねぇぞ」
クロエは一瞬、息を呑む。
ブラジェイの手は大きくて、熱くて、逃げようとしてもびくともしない。
その力強さに、笑っていたはずの唇がすっと引きつる。
「な、なにを……」
「言っとくがな、あいつらくらいの年にもなれば、女に興味くらいある。下手すりゃ、俺らより真っすぐだ」
「そういう問題じゃ……」
「お前を冗談抜きで狙う奴だっている」
ブラジェイの低い声が、夕方の澄んだ空気に妙に響く。
怒りと焦りが入り混じった声は、言葉以上にクロエの胸を締めつけた。
「……おめぇは本気で無防備すぎんだよ。危機感持てや」
掴まれた手を、ようやくそっと離される。
それでも手首に残る熱は、しばらく消えずにじんわりとクロエの胸に残った。
クロエは俯き、困ったように笑う。
夕暮れの街路の冷たい空気が、頬を撫でる。
「はは……悪かったね。あんたにそういうことを諭されるなんてさ」
ありがたかった反面、本気で怒られて心が萎んでいく。
しかし、ブラジェイはそれ以上に複雑な顔をしていた。
「……悪ぃ、言い過ぎたな。ちと、むかっ腹が立っちまった」
「むかっ腹?」
「レイフに軽く口説かれて、まんざらでもねぇ顔してんのがよ」
その言葉に、クロエは一瞬言葉を失った。
降りてきた陽の光が、ブラジェイの姿を赤く染めていく。
「おい、行くぞ。俺ぁおめぇを送った後、用事があんだよ」
そう言ってブラジェイは一歩踏み出した。
クロエは現実に引き戻される。彼はこの後、ティナと二人きりで、彼女の手作り夕食を食べるのだ。
「……用事があるなら、そっちを優先しておくれよ。あたしは別に、さっきのレイフって子に送ってもらっても構わないんだからさ」
「クロエ、それ本気で言ってんじゃねぇだろうな」
ブラジェイが振り返りざま、ギロリとクロエを睨む。
気まずさに、クロエは思わず視線を逸らし、唇を噛んだ。
ブラジェイの腹の底から出される声が、耳に響く。
「大事にしろって言っただろうが。あいつなんかに、おめぇを任せたりしねぇよ。食事も行く必要ねぇ」
「……ブラジェイ、あんた、なんでそんなに怒ってんだい」
クロエは眉を寄せて問いかけた。
自分のために言ってくれているのはわかる。だが、感情の強さがあまりに際立ち、心の整理が追いつかない。
「怒っちゃいねぇよ。黙ってられなかっただけだ。どうしてもレイフと食事したいってなら、行きゃあいい。忠告はしたぜ」
ブラジェイはそう言うと、再び前を向いて歩き始める。
夕陽に長く伸びる影が、二人の歩幅を揃えてゆっくり揺れる。
クロエは小走りし、追いついてその隣に立った。
「……行かないよ」
ぽつりと呟くと、隣で歩くブラジェイの肩がふっと緩む。
「おう」
足音とともに心臓がとくん、と弾んだ。クロエは小さく息を整え、思い切って言葉を紡ぐ。
「その代わり……あんたが一緒に食事しておくれよ。いつか、二人でさ」
「……おう」
ブラジェイの短い承諾に、クロエの胸は高鳴る。駆け出したくなるような衝動を必死で抑えた。
ただの食事だ。
ブラジェイは女性と二人で食事など、何度も経験しているだろう。そのうちの一人に過ぎないと頭では理解していても、胸の奥で沸き立つ感情は抑えられなかった。
二人は沈みゆく夕陽の光に染まる街路を、ゆっくりと並んで歩いていった。夕暮れの風が髪を撫で、街の影が伸びていく。
足音が重なり合うたび、確かな存在感を隣に感じながら、二人はゆっくりと歩いていった。




