360.お似合い、だねぇ
昼の休憩時間、クロエが庁舎の中庭のベンチで本を読んでいると、どこからか楽しげな声が聞こえてきた。
空は柔らかい午後の光に満ちて、石畳や木々に影を落としている。
遠くで葉がそよぐ音と、軍庁舎特有の静けさの中に、ひときわ明るい声が響いた。
「ねぇねぇブラジェイ! たまには私が夕飯作ってあげよっか!」
その声の主は、ティナだ。
軍の施設に住んでいる者は、基本的に夕食も支給されるため、わざわざ自分で作る者は少ない。それでも彼女は元気いっぱいに、自分の気持ちを声にのせていた。
「いらねぇよ、腹壊しちまうだろ」
「ちょ! ひっどーい!」
「わはは!」
大声で笑うブラジェイの背中に、ぽかぽかと手を叩くティナの姿が見えた。
クロエは思わず本から目を離し、そちらに意識を集中させる。二人の声と仕草が、中庭の静けさに楽しげな波紋を広げる。
「あーあ、私の焼く黒パンは美味しいのになー! どっかの誰かさんは食べるチャンスを失って、大バカだよね!」
「てめぇ、先にメニュー言えや。黒パンだと?」
「そうだよ! 私がブラジェイのおばあちゃんに教えてもらった、特製黒パン! あとはやっぱり、キノコたっぷりのスパイシーシチューだよねー? あーでもブラジェイは食べないのかー! お腹壊しちゃうもんねー!!」
ブラジェイがティナを見下ろしながら振り向く。
視線を合わせると、ブラジェイは不敵に笑った。
「しゃーねぇな。他に被害者が出ねぇように、俺が食ってやるぜ」
「被害者って! 素直じゃないなー、もう。本当は食べたいくせに!」
「おめぇが俺に食ってほしいんだろうが」
「そうだけど……むうーー!!」
ティナがぷくっと頬を膨らませる。
どうにかしてブラジェイに「食べたい」と言わせたい気持ちが全面に出ていて、クロエは思わず一人でふふっと笑ってしまった。
日常の些細なやり取りですら、微笑ましい二人だ。
「もうー、じゃあ仕方ないから、作ってあげるとするか!」
ブラジェイが片眉を上げ、にやりと笑う。その表情はいたずらっぽくも嬉しそうで、クロエの心の奥に小さなざわめきを生む。
「おいおい、なんだその言い草はよ。誰が頼んだよ」
「頼まれた気がしたの!」
「いや、頼んでねぇ」
「頼んだでしょ! 心で!」
「心の声なんて聞こえるわきゃねぇだろうが」
「聞こえたもん。私の耳はいいって知ってるでしょ?」
「ったく妄想の激しい奴だぜ」
「くーっ、妄想だったのかぁ」
「わはは! 認めやがった!」
「いいからさっさと素直になりなさいよぉ〜っ」
ティナが今度はブラジェイの胸ぐらをぐいっと掴み、力を込めて揺さぶった。
だがブラジェイは微動だにせず、むしろ笑って楽しんでいる。
「ティナの料理なぁ。昔、生焼けの肉を食わされてとんでもねぇことになったからな」
「それ、子どもの頃の話でしょー!」
「わははは!」
ティナはぷくーっと頬を膨らませ、胸ぐらから手を離し、目だけでブラジェイを見上げる。
「ふんっ。せっかくブラジェイのために焼いてあげようと思ったのに、そういうこと言うんだ」
「俺のために、ねぇ」
ブラジェイのニヤニヤとした表情に、ティナの頬が一瞬で赤く染まる。その反応に、クロエの胸の奥でなにかがカチリとはまった気がした。
「もういい!! 知らないっ!!」
「あーわかったわかった。もういいから焼け! 焼いてくれ!」
「え? やだ」
「てめっ!」
唐突に立場が入れ替わり、クロエは思わず肩を震わせた。
ティナは得意げに腰に手を当て、くるりと踵を返し、わざとらしいため息をつく。
「まったく……男って素直じゃないんだから」
「おめぇが一番素直じゃねぇだろ……」
「違うもん! 私はちゃんと『作ってあげようか?』って優しく言ったでしょ!」
「へーへー、お優しいこって」
ティナはブラジェイの腕を軽く小突く。
ブラジェイは笑いながらそれを避けるふりをして、結局受け止めている。
その瞬間、二人の距離と空気感が、なんとも言えない親密さで染まるのを、クロエは感じ取った。
「じゃあ……作るよ?」
「おう。お前の部屋に行きゃいいのか?」
「うん! えへ、待ってるね!」
ティナの笑顔が輝く。ブラジェイの目が柔らかく細まるのを見た瞬間、クロエの胸がぎゅっと嫌な音を立てる。疼きと少しの切なさが入り混じった、独特な胸の感覚だった。
「じゃ、今日は私昼上がりだから、今から作ってくるね!」
「おう。火傷すんじゃねぇぞ」
「もう、そんなに鈍臭くないってば。でも焦がしても文句言わないこと!」
「最初っから焦がす気満々かよ」
「うるさい!」
ティナは一瞬頬を膨らませるも、すぐに嬉しくてたまらないというような笑みに変え、弾むように駆けていった。
ブラジェイは肩をすくめて笑いながら、その背中を見送っている。
「……ったく、めんどくせぇ女だぜ」
しかしその言葉には、どこか嬉しさを含んだ響きがあった。
クロエはそっと本を閉じ、目元に柔らかな微笑みを浮かべる。
(……お似合い、だねぇ)
胸の奥には小さな痛みが残る。
ほんの少しの寂しさを感じながらも、クロエは静かに笑みを湛えていた。




