359.相変わらずよく喋るね
それからクロエは、仕事が遅くなるとブラジェイやティナに家まで送ってもらうようになっていた。
その日、仕事を終えて外に出ると、夕暮れの残光が庁舎の石畳を柔らかく照らしていた。建物の影が長く伸びる頃合いだ。
ふと気づくと、前方から軽やかな足音が近づいてくる。
「あ、クロエ! 今帰り? 送ってくよ!」
元気いっぱいのティナの弾けるような声が、黄昏の空気を明るく染めた。
相変わらず可愛くて、誰からも好かれるその性格は、暗くなりかけた日常の灯火のようだ。
「いや、いいよ。今日はまだ明るいから大丈夫さ」
余計な仕事で煩わせたくはない。そんな思いで断るも、ティナはにぱっと笑った。
「私がクロエを送りたいの! ね?」
その笑顔は、いつ見ても不思議な力を持っていた。思わずクロエも釣られて笑ってしまう。
疲れや苛立ちを、まるごと溶かしてしまうような明るさ。
「じゃあお願いしようかねぇ」
「やった!」
ティナが踊るように隣に並び、二人で歩き出す。西日に照らされた石畳は赤く染まり、長く伸びた二つの影が揺れている。
街の向こうで、レイフが女の子に声をかけているのが見えた。それを見つけたティナは、楽しそうに話し始める。
「レイフってば、本当に女の子好きだよねー! あそこまでいったらいっそ清々しいっていうか! あ、私最近、コーデリアと仲がいいんだ! 今度一緒に出かける約束しちゃった。彼女すごいんだよ、いっぱい勉強してるし! そう言えばブラジェイがこの間、黒パン食べたいって言ってたなぁ。軍の黒パンも美味しいんだけど、村で作ってたのとはちょっと違うんだよね。きっと食べたいのは村の黒パンだと思うんだ。今度作ってあげよっかなー。私、ブラジェイのおばあちゃんに教わったことあるんだよ。同じの作れると思うんだよね。あ、見てクロエ! 猫はいる! かっわいー! 猫かわいいよね。でも実は私、犬派なんだー。動物全般好きだけどね! でも知っての通り、花も好きだよー。ラベンダーが一番好き! いい香りの花っていいよね。クロエの部屋にも飾ってみない? っていうかクロエの靴、新しくなってるでしょ。素敵ー! やっぱりセンスいいなぁ、クロエって。私なんか、いつもローグパンツにブーツだもんね。スカート履いたら、みんなに驚かれちゃいそうー! でもそれも楽しいかもね!?」
その声は鈴のように軽やかで、ひとつの話題が終わる前に次の話が生まれる。
絶え間なく、ぽんぽんと飛び続ける話題のリズムが、クロエにはもう心地よくすらあった。
聞いているだけで楽しくなって、自然と笑みがこぼれてしまう。
「ふふ……相変わらずよく喋るね、ティナは」
「あ、ごめん! クロエも言いたいことあった? 言って言ってー、クロエの話も聞きたい!」
ぴょんっと飛び跳ねたティナの腰にある短剣が、カシャンと揺れた。
その音に、クロエの目が自然と吸い寄せられる。
カルティカだ。
あの惨劇の後から、ティナはそのカルティカを装備するようになっていた。
シャノンの形見だからと。
その一言の裏に、どれほどの悲しみと決意が詰まっているか、クロエは想像するだけで胸の奥が疼いた。
「あたしの話ねぇ……特に面白いことも、変わったこともないよ」
「無理して面白いこと言わなくていいんだからね。ただの日常でもいいんだ。ずっと言いたくて言葉に出せなかったこととかでもいいよ? なんでもいいの。クロエの話が聞けたら、私は嬉しいから」
その素直な笑顔に、クロエは少しだけ目を伏せた。
(ティナは、ほんとに……いい子だねぇ)
すぐに答えが出ず、首を傾けながら今度は空を仰ぐ。
「そうだな……最近はブラジェイがうるさくてね。一人で出歩くなって、窮屈で仕方ないよ」
「あ、それ軍内でも言ってるよ。『クロエは一人で出掛けっちまうから、気づいた奴はすぐ護衛についてやれ』って」
「まったく、あいつは余計なことを……おかげで息を吐く暇もなくなっちまったよ」
「それだけ心配なんだよ、クロエのこと」
その言葉に、クロエはふっと息を吐きながら苦笑する。
沈みかけの陽が、ティナの横顔を金色に染める。
その光を見つめながら、クロエの胸の奥で、小さな温もりが膨らんだ。
「心配なんてされるような年じゃないんだけどねぇ。それにすぐ怒るんだよ、あいつは」
「わかるー! すーぐ『うるせぇ』って言うよね! こっちは心配して言ってるのに!」
「あたしには『もうやめとけ』とか『いい加減にしやがれ』とか言ってくるよ。こっちは五聖になるために必死なのに、応援するってことを知らないのかねぇ、あいつは」
クロエは文句じみた口ぶりで笑った。
ぶっきらぼうな優しさが混ざったブラジェイの小言は、本当は心地よくて、どこか楽しみにしている自分がいる。
そのことを意識した瞬間、ふと視線を感じた。
隣を見ると、ティナがじっとクロエを見上げ、きょとんとした表情を浮かべている。
思わずハッとして視線を逸らした。文句を言いながらも、小言に嬉しさを覚える気持ちを見透かされてしまったようで、どきりと胸が鳴る。
「……な、なんだい?」
クロエが誤魔化すように問いかけると、ティナは首を傾げた。
「ううん、なんでもないよ。ただ……クロエ、すっごく楽しそうだなって思って」
「えっ、あ、そうかい……?」
「うん。ブラジェイの話してる時、顔が柔らかくなるんだもん」
その言葉に、クロエの心臓が大きく跳ねた。
思わず胸を押さえたくなるほどの鼓動。
慌てて笑おうとするが、口角はうまく上がらない。
「そんなこと……ないよ。ただ、あいつの話題が多いだけさ。ほら、なにかと関わることが多いだろう? とっつきやすいっていうか……」
「あはっ。そっかぁ」
ティナはそれ以上、なにも言わなかった。
ただ、夕日に照らされた頬に柔らかい笑みを浮かべて、前を向く。
その横顔は、子どもっぽさを残しながらも、どこか大人びて見えた。
クロエは胸の奥が妙にざわついて、足元を見つめる。
(……しまった。完全に、あたしの方が話しすぎた。あいつのことばっかり……)
沈黙が流れた。
だがティナはすぐ、いつものように空を指さして明るく声をあげる。
「ねぇ、あの雲、羊みたい! 見て見て!」
「……ほんとだ。かわいいね」
「でしょでしょ!」
何事もなかったかのように、ティナが笑う。その屈託のない笑顔に、クロエは思わずほっとした。
けれど同時に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(なにも……聞かないでいてくれてるんだな)
風が少し冷たくなってきた。ティナのダークブラウンの髪がふわりと揺れ、そこに夕焼けの残光が差し込む。
クロエはその柔らかな横顔を見つめ、静かに微笑んだ。
「……ティナ」
「ん?」
「ありがとうね。送ってくれて」
「えへへ、いいのいいの! クロエのこと、大好きだもん!」
その声は、どこまでも明るかった。
けれどその明るさの奥に、ほんの少しだけ寂しさの影が揺れる。
クロエはそれを感じ取っても、あえて言葉にはしなかった。
二人の影が長く伸びて、並んで夕日に溶ける。
風が二人の間を抜け、遠くから鐘の音が微かに響く。
それはまるで、今日という日に気付きを与える──そんな合図のようだった。




