358.キスのひとつやふたつで、がたがた言うあたしじゃないよ
ブラジェイが泣いているところを、クロエは一度も見たことがなかった。おそらくティナも同じだろう。
彼は怒ることこそあっても、それを長く引きずることはない。楽しいときは笑い、周囲を明るくする。
どんな時でも、泣くことなく、いつも通りを貫いて生きている──クロエの目に映る彼は、そんな男だった。
軍に入ってからのブラジェイは、まさに破竹の勢いだった。元から戦場に身を置くことを恐れぬ性質で、仲間の心を掴む力も長けている。力、剣技、人を惹きつける気迫、そのすべてが他の誰とも違っていた。
職務においては実直で、常に余裕があり、さらには面倒見の良い男だ。それがまた信頼を呼ぶ。
あっという間に軍の上層へと駆け上がっていく姿を、クロエはどこか誇らしく感じていた。
軍の施設と庁舎は隣接しており、渡り廊下ひとつで行き来できる。食堂に至っては共同だ。
おかげで、クロエが軍関係の書類を取り扱うたび、自然とブラジェイと顔を合わせる機会が増えていった。会話のひとつひとつは何気ないものでも、その時間が積み重なっていくのが、クロエには密かな楽しみだった。
グリレルの事件から、一年。
秋の夜気が深まった、ある日のこと。
夕暮れはあっという間に過ぎ、庁舎の窓から見えるのは、昇り始めた月の淡い光だった。
机の上に積まれた書類の山を片づけ、クロエは肩を鳴らしながら大きく伸びをした。
「さて……そろそろ帰ろうかね」
いつもより遅い時間だ。庁舎はすでに静まり返り、灯りの漏れる部屋も少ない。
クロエが外へ出ると、そこにはブラジェイがなにかを待つように立っていた。
「今終わりかよ、クロエ」
「ああ、ブラジェイもかい?」
「まぁな」
軍人の多くは、軍の施設内に部屋を与えられ、暮らしている。
クロエは当然、彼も建物内へ戻ると思った。
「おい、送ってやるよ」
意外な言葉に、クロエは眉をひそめる。
「いらないよ。あんたはここに戻ってこなきゃならないだろ」
「それくらい大したことねぇよ。行くぜ」
拒む間もなく、ブラジェイは歩き出した。歩幅の大きい男だが、クロエが追いつくまで、きちんと速度を合わせてくれる。
薄暗い石畳を、二人は並んで歩いた。
「嬉しいねぇ。あたしを女扱いしてくれるのかい?」
「女だろうがよ」
その言葉に、胸がどくりと鳴った。
たった一言で、仕舞い込んでいた感情が、蓋を跳ね上げる。
(まったく、あたしって奴は……)
ブラジェイの恋人がいると聞いて、一度は封じ込めていた気持ち。
だが、彼女の死後、ふいに優しくされるたびに、胸の奥が疼きだす。
抑えきれないなにかが溢れ出している自分に、思わず自嘲する。
(だめだねぇ……こんな気持ちは。シャノンが亡くなったのは、私のせいでもあるってのに)
どこか浮かれそうになる心を、強く押さえつける。
それがせめてもの償いのような気がした。
「どうした、クロエ。疲れてんのか?」
「……いや、平気さ」
心を落ち着けるように、小さく微笑んで見せた。
ブラジェイはその微妙な笑みを睨むようにして、クロエを見つめる。
「どう見ても、無理してやがるんだよ」
「そんなつもりはないんだけどね」
「自覚がないのはいただけねぇな。たまにはゆっくり休んどけや」
ブラジェイの言葉に、思わずふっと笑いが漏れる。
(その言い方がずるいんだよ)
何気なく出る、彼のぶっきらぼうな気遣い。そこに惹かれているのは、自分だけじゃないだろう。
粗野な物言いのくせに、誰よりも人の心の痛みに敏感なのだ。そのギャップが、この男の一番の魅力なのかもしれない。
しかも、本人はおそらく無自覚。計算して振る舞える男でないことはわかっていた。
「あとな、こんなに遅くなるんだったら呼べ。俺がいないときゃ、ティナでも誰でもかまわねえよ。一人で歩くんじゃねぇ。おめぇは貴族系のお嬢様じゃねぇか」
「お嬢……っぷ! あははははっ!!」
クロエはたまらず笑い出した。
言葉は女海賊のように乱暴で、ドレスなんかもう何年も着ていない。
働き始めてからは煙草を吸い始め、お嬢様とは縁遠い振る舞いしかしていないのだ。
そんなクロエを、誰も貴族系扱いなどしたことがないというのに、まさかブラジェイに〝貴族系のお嬢様〟と言われるとは思いもしていなかった。
「はははは!! そんなことを言ってくれるのは、あんたくらいさ!」
「笑ってんじゃねぇ。副官ってことも含めりゃ、常に護衛がいていいくれぇだ。無防備過ぎなんだよ、おめぇは」
むすっとした顔でそう言うブラジェイに、クロエは腹を押さえて笑いをこらえる。
どこか不器用で、でも真剣で、そんな彼の表情が妙に愛おしかった。
「意外に気遣う男だよねぇ、あんたは」
「もう誰も死なせたくはねぇからな」
その言葉に、笑いがぴたりと止まる。
夜風がそっと吹き抜け、二人の間に沈黙が落ちた。
クロエはその意味を理解していた。
彼の優しさは、過去に流れた血と苦しみの上にある。
その言葉が重い分だけ、胸の奥が締めつけられるようだった。
「……じゃあ、また遅くなった時は送ってくれるかい?」
ドク、ドクンと胸が鳴る。
月明かりの下で交わす視線は、言葉以上に多くを語る。
ブラジェイは肩越しにちらりとクロエを見て、間髪入れず口を開いた。
「ったりめぇだろ」
夜の光に照らされたその横顔は、いつもの鋭さの中に、ほんのわずかな柔らかさを宿していた。
クロエの胸の奥で、どうしようもなく喜びが弾けそうになった。
どれだけダメだと言い聞かせても、想いは制御できない。
だが、その直後に彼はなんでもないように続けた。
「俺がいねぇ時は、ティナに言えや」
あまりにも自然な言葉に、胸の熱がすっと冷めていく。
これはただの気遣い。そう思い直す。
クロエは少し唇を噛み、努めて明るく返した。
「ティナも女の子だよ。帰る時、一人になってしまうじゃないか」
「あいつはかまわねぇよ。その辺の男よか、よっぽど強ぇからな」
「そうかい。じゃあ、頼らせてもらおうかねぇ」
「おう、頼れ頼れ。おめぇは一人でなんでもかんでも背負いすぎなんだよ」
ブラジェイの声は不思議と心に沁みる。粗野な響きの中に、温かさがある。
まるで焚き火のように、熱を持ちながらも優しい──そう思うと、クロエの頬はふっと緩んでしまった。
「あんたもね、ブラジェイ」
「……あ?」
「一人で泣くんじゃないよ」
「なんだそりゃ。泣かねぇよ」
まるで子どものような即答に、クロエは吹き出しそうになる。
気持ちがまったく通じていない。だが、それが彼らしかった。この鈍感さが、彼の強さの一部でもあるのだと思う。
クロエは笑みを浮かべながら、そっと夜空を仰いだ。
月は見事に満ち、白銀の光が街を覆っている。
淡い光が頬を照らし、影を長く落とす。
『月が綺麗だね』と言いかけて、クロエはそっと唇を閉じた。
その言葉の意味を、きっと彼は知らない──理解するはずがないと思っていても、口に出す勇気はなかった。
(なんて言葉を言おうとしたんだい、私は──)
きゅうっと胸が切なさを訴える。
伏せた睫毛の先に、月光が細く差し込む。
その瞬間、隣から強い視線を感じて、クロエはわずかに身を固くした。
「クロエ……そんな顔、見せるんじゃねぇよ」
「え?」
声に振り向くと、思ったよりも近い距離にブラジェイの顔があった。
彼の息が肌を掠め、クロエは小さく体を跳ねさせる。
夜の空気が急に熱を帯び、鼓動が耳に響く。
「……無防備すぎんだよ……おめぇは」
低く落とされた声。
次の瞬間、彼の手がクロエの頬に触れた。
掌から伝わる熱。
クロエの心臓が、バクンと大きな音を立てた。
息を呑み、動けなくなる。
「……ブラジェイ……」
掠れた声が、夜に溶ける。
風がふたりの間を通り抜け、吐息を運んだ。
ブラジェイは目を細め、クロエの唇をじっと見つめる。
その手が動くと、指先が頬を伝い、髪を耳の後ろへとそっと撫でつける。
「……っ……!」
クロエの心臓は暴れ出す。
唇は、もう触れそうな距離。
月光が二人の顔を照らし、赤みを帯びた肌を淡く染めた。
夜は静まり返り、世界に二人だけが取り残されたようだった。
ブラジェイの呼吸が頬にかかる。
その熱に、クロエは思わず目を閉じかけた。
あと数センチ。
頭の中が真っ白になり、なにも考えられなくなる。
その瞬間──
「だから、無防備すぎるって言ってんだろうが」
喉の奥から低く声を出すと同時に、彼は一瞬で距離を取った。
クロエは理由もわからず、胸を押さえ、バクンバクンと鳴る心臓を感じながら彼を見上げる。
目の前には、どこか苦しげな表情をしたブラジェイが立っている。
「クロエ、こういう時はちゃんと声を上げんだよ。拒否もしねぇで受け入れようとしてどうすんだ」
「……っ!」
試されていたのだと悟った瞬間、クロエの顔が熱く染まる。
拒めなかったのは、ブラジェイだからだ。けれど、それを告げる勇気などない。言える資格もない。
クロエは慌てて横を向き、わざと軽口を叩いた。
「っは、あんたもヘタレだねぇ。キスのひとつやふたつで、がたがた言うあたしじゃないよ」
「嘘つけ。おめぇ、したことねぇだろうが」
その一言で、心臓が跳ね上がる。
「な、なんで知って……っ」
「引っかかんじゃねぇよ、カマかけただけだ。まぁそんな気はしてたけどよ」
あっさり引っかかってしまったクロエは、内心ばくばくしながらも、女海賊のように豪快に笑い飛ばす。
「あははは! バレちゃあ仕方ないねぇ。だけど大事にとってるわけでもないさ。あたしにキスしたいだなんていう酔狂なやつがいれば、いつでも誰でもくれてやるよ」
本心ではない言葉でそう笑い飛ばした瞬間。
ブラジェイの手が、クロエの頭へ掴むように降りる。
「バカヤロウ、大事にとっとけ」
それだけ言って、手はすぐに離れていく。
胸は悲鳴を上げるようにきゅうっと鳴り、なぜだか視界までぼやけ始めた。
どうしようもない切なさが込み上げる。
(馬鹿はそっちだよ……あたしのこの気持ち、どうしたらいいんだい)
頭がぐちゃぐちゃになる。溢れる気持ちから、もう目を背けることは難しくなっていた。
しかしそう思えば思うほど、脳裏に浮かぶのは──遠く離れた別の男の存在。
(早く帰ってきておくれよ、ミカヴェル……あたしは五聖にならないといけないってのに……このままじゃ、腑抜けになっちまうよ)
ブラジェイの顔がすぐそばにあるというのに、ミカヴェルを想うと、さらに胸の悲鳴が高くなる。
自分が誰を想っているのかさえわからなくて、ただひたすらに苦しさに襲われた。
そんなクロエの背中が、ブラジェイに優しく押し出された。
「行こうぜ」
まるで何事もなかったかのように言う声に、クロエは少しだけ安堵の息をつく。
そして彼の隣を静かに歩き出した。
月光が二人の影を長く引き、石畳の上でゆっくりと重なっていった。




