344.強引すぎるんだよ、あんたは
アリシア討伐後、ミカヴェルは約束通り、スヴェンをサエスエル国へと送り返した。
表向きは工作員として返す形を取っているものの、ミカヴェルは完全に彼を手放すつもりなど、毛頭なかった。スヴェンを工作員にさせることで、サエスエル国に恩を売る形にもなり、同時にグランディオル家とサエスエル国の縁を利用して、ある程度の自由を確保することができる。ミカヴェルは自らの手元に情報の糸を残す形に仕向けたのだ。
以前ほど頻繁には無理でも、ストレイア王国の情勢を知る手段として、彼を利用することは十分に可能だった。
サエスエル国がスヴェンの動きを黙認している理由は明白だ。彼らは、フィデル国の内情を探る好機と見ている。彼の国は常に他国を狙っており、フィデル国もそのひとつに見られているのは間違いない。油断ならない存在だ。
もっとも、ミカヴェルはその思惑を許すつもりはないが。
フィデル国を狙わせないためにも、ストレイア王国を手中に収め、サエスエル国と対等の国家に押し上げることは不可欠だった。
サエスエル国にストレイア王国を狙わせつつ、だが決してその領土を渡すつもりはない——その計算は冷徹に、静かに巡らされていた。
ミカヴェルのやるべきことは山積している。
敵は、ストレイア王国だけではない。逆に位置するワルテア皇国や、北のサエスエル国、他にも隣接している国はいくつもある。
一つでも狂えば、フィデル国はたちまちサエスエルやストレイアに飲み込まれてしまうだろう。
グランディオルの一員として、参謀軍師として、それだけはなんとしても避けねばならない。
「ザイレン……君を死なせておいて、私は立ち止まるわけにいかない」
ミカヴェルは静かに畑の中に立ち、夜空を仰いだ。星々が薄く霞む夜、冷たい空気が肺を満たす。過去の自分が選んだ道と、その重さが胸に迫る。
ここまで積み上げてきた準備を放棄することは、死をもって任務を果たしたザイレンへの背信になる。攻防戦で散った仲間たちを冒涜することにも、他ならなかった。
「だけど私は……どうしても、決心がつかない……っ」
ここまで来て、もう引き下がれないことは自覚していた。
大事な親友を駒として扱い、死なせてしまった自分がいるのに、もう一人を駒として見る決断が──どうしてもできない。
こんな身勝手が許されるはずもないのに、思考だけがぐるぐると迷路に入り込む。
決断を下さなければ、今まで積み上げてきた努力は水泡に帰す。それをわかっていながら、なお先延ばしにしてしまう自分。怒り、苛立ち、焦燥、そしてわずかな自己嫌悪が、胸をぐっと締め上げる。
(だがもう、決断しなければ……私はミカヴェル・グランディオルなのだから)
胸を貫くような痛みと葛藤を抱えながら、ミカヴェルはゆっくりと地下へと足を運ぶ。冷たい石の壁に囲まれた通路は、心の暗闇を映すかのように重苦しい。
重厚な扉が、その決意を静かに見守るかのように閉じた。
地下のランプの炎が、かすかに揺れている。
その揺れに合わせるかのように、ミカヴェルの胸の奥も小さく揺れた。
決断はまだ、固まっていない。だが、進まねばならないことだけは──確かだった。
***
その頃、庁舎の五聖の執務室では、クロエが一人、机に向かって座っていた。
「はぁ……いい加減、寝ないとね」
クロエの吐息は重く、身体の芯まで疲れが染み込んでいるのを示していた。
意識はあるが、動く気力はわずか。家へ戻ることすら面倒で、ただその場に沈み込んだまま、夜の空気に溶け込むように座していた。
「おい、いるんだろ。クロエ」
唐突に鳴る荒いノックとともに扉が開かれる。そこに立っていたのは、ブラジェイだった。
夜の庁舎の空気が微かに揺れ、灯りの影が床に長く伸びる。クロエは半ば呆れ顔で、ブラジェイを見上げる。
「ちょっとブラジェイ。ちゃんと許可を得てから開けてほしいね」
「部屋から灯りが漏れてたからよ。寝てんならまだしも、倒れてたら困るだろうが」
ぶっきらぼうな言葉の奥に確かな心配の色が見え、クロエは思わず喉の奥で微かに笑った。疲れの中に、少しだけ温もりが差し込む。
「心配してくれたのかい? 嬉しいね」
「夜中まで仕事してんじゃねぇよ。さっさと家に帰って寝ろ。送ってやるからよ」
「いいよ。どうせ明日も朝から仕事だ。帰る時間も惜しい」
「じゃあせめて、ベッドで寝ろや」
「ああ、そうするよ」
クロエが微笑みを見せるも、ブラジェイは簡単には引き下がらず、むしろ距離を詰めるようにクロエの傍に立った。
「おめぇはそう言って、動こうとしねぇだろうが。ほら立て。仮眠室まで連れてってやる」
「あんたはほんと、お節介だねぇ」
「うるせぇ。素直に礼が言えねぇのかよ」
「一番素直じゃないのは、ブラジェイじゃないか」
「そっかぁ? 俺ぁ結構素直だぜ」
「あはは! 面白い冗談言うじゃないか」
豪快な笑い声に、ブラジェイは嫌な顔ひとつせず、目を細めてクロエを見つめた。
たまに見せるそんな彼の表情に、クロエはいつも心をかき乱され、どう反応していいかわからなくなる。
「本当に……ずるいんだよ、ブラジェイは……」
「そうかもな。いい加減行くぞ。子どもは寝る時間だぜ」
「あたしはあんたより、六つも年上だよ」
「知らねぇな。関係ねぇ」
言い終えるや否や、ブラジェイはまるで軽々と子どもを抱き上げるように、左腕一本でクロエを抱き上げた。唐突な浮遊感にクロエは思わず慌てる。
「えっ、ちょ……っ」
「おとなしくしてろ。仮眠室に行くだけだ」
「……強引すぎるんだよ、あんたは」
「お前には、俺くらい強引な奴の方がちょうどいいと思うがな」
ブラジェイの言葉に、クロエの胸はぎゅっと疼く。
庁舎の冷たい廊下に、二人の存在だけが確かな温度を放ちながら、静かに歩を進めていく。彼の足音だけが反響し、孤独な夜を満たすように響く。
そうして二人は、静寂に包まれた仮眠室へと入っていった。




