345.いてくれって言ったら、いてくれるのかい?
ブラジェイに抱えられたまま仮眠室に入ったクロエは、そっとベッドの上に下ろされた。
いつもはガサツで乱暴な扱いしかしてこない彼が、この瞬間だけ見せる細やかな配慮に、クロエの胸は不意にむず痒くなる。肩にかかる柔らかな体温や、抱え上げる際の腕の力加減の優しさに、心の奥が軽く揺れた。
「……ありがと。一応礼は言っておくよ」
「おう。まぁゆっくり寝ろや」
ブラジェイの声は粗野だが、そこには確かな温かみが宿っている。
去っていこうとする彼の手を、クロエは思わず体を起こして咄嗟に掴んでいた。
「ん? どうした?」
「あ、いや……」
無意識の行動に、クロエは自分で驚きながら手を離した。胸の奥でくすぶるなにかが、かすかに疼く。
「ティナがまた倒れたって聞いたけど……大丈夫だったのかい?」
探し出した話題は、自然とティナのことに行き着いた。ブラジェイは鼻で軽く息を吐きながら答える。
「さぁな。まぁ大丈夫だろ。アスがついてるみてぇだしな」
「心配、だね……」
「あいつぁそんなやわな女じゃねぇよ。おめぇが心配する必要はねぇ」
ブラジェイはそう言って、クロエの頭にポンと手を置き、わしわしと撫でた。
髪の隙間から頭皮に感じる、ブラジェイの手の温もり。その心地よさに、クロエはそっと息を吐く。
「ほら、もう寝ろ。それとも、しばらく傍にいて欲しいか?」
「いてくれって言ったら、いてくれるのかい?」
「まぁな」
ぶっきらぼうな言葉の中に潜む優しさに、クロエは眉を下げる。
「だけど……ティナに申し訳ないね」
「なんであいつの名前が出てきやがんだ? 関係ねぇだろ」
少し怒ったように吐き捨てるブラジェイに、クロエは困ったように笑った。
(本当に気づいてないのかねぇ……この男は)
長く付き合ってきているが、いまだにブラジェイのことを理解できないクロエだ。
悪い男では決してない。粗野で鈍感で──それでいて時折、どうしようもなく優しい。
その落差に、心をかき乱される。
「……ほんと、ずるい男だね」
思わずこぼれた言葉に、ブラジェイが眉をひそめる。
「はぁ? なんだそりゃ」
「その気もないくせに、優しくするから……」
言いかけて、クロエは唇を噛んだ。僅かな戸惑いの瞬間を逃さず、ブラジェイは身を屈める。
「……その気がねぇとでも思ってんのか?」
低く落ちる声が耳に響き、クロエの全身の血が熱を帯びる。次の瞬間、肩をぐっと掴まれると、ベッドに押し倒された。
視界いっぱいに広がる彼の顔と、口から漏れる呼吸の熱が押し寄せる。
「ちょっと、なにしてんだい……!」
「なんだよ、嫌か?」
挑発めいた笑み。だが、瞳の奥は本気だった。
クロエは思わず息を呑み、反射的に腕を突っぱねる。けれど力は抜けていて、本気で拒んでいるわけではなかった。
「……あんた、ほんとに……」
「言えよ。してほしいって。……そしたら、今すぐそうしてやる」
耳元で囁かれる声に、クロエの全身が熱に包まれる。胸の奥からじんわりと熱が広がり、呼吸が乱れる。
ブラジェイのことを嫌ってはいない。むしろ、心の奥ではかなり好意を抱いている自分がいる。
今までも、こうした局面は何度かあった。だが、決して最後の一線を越えたことはなかった。
それは、クロエの胸の中には、どうしても居座って離れてくれない人が存在しているからだ。
そしてそれは、クロエだけではない。
ブラジェイの胸の中にも大切な人がいると、クロエはわかっている。
唇が近づいた。
互いの吐息が混じり合い、熱を帯びた空気が狭い距離を満たしていく。
ブラジェイの瞳は、炎を宿したように真っ直ぐだった。
粗野な男が、まるで壊れ物を扱うように、クロエの頬へと手を伸ばす。
その掌の熱に、クロエの喉が小さく鳴った。
呼吸が、浅い。
心臓の音が、耳の奥で暴れている。
逃げたい──そう思うはずなのに、体は言うことを聞かない。
むしろこの距離のまま、彼の腕に閉じ込められてしまいたい。
今だけでいい。
明日すべてを失ってもいいから、この瞬間だけは彼の温もりに溺れたい。
(だめだって、わかってるのに……)
心の中の声はかすれて消えた。
唇が、震える。
ブラジェイの指先がそこへ触れそうになり、クロエの肩がびくりと震えた。
彼の喉が低く鳴る。
理性を押し殺したような息遣い。
──もし触れてしまえば、もう二人とも戻れない。
それを知っているのに、どうしても止められなかった、
熱いブラジェイの瞳に射抜かれたように動けない。
あとほんのわずか、唇が触れそうになったその瞬間。
不意に現実が押し寄せたクロエは、震える息とともにフッと微笑んだ。
「バカだね、ブラジェイ……あたしなんかに構ってる場合じゃないだろう?」
声を出した途端、ブラジェイは視線を逸らし、クロエの上から身体を引いていく。
「……ったく、おめぇは……変なとこに気ぃ遣うんじゃねぇよ」
「ただの性分さ。あんたと結ばれたら、ティナの目を見られなくなっちゃいそうだからね」
「俺とあいつは、そんな関係じゃねぇ」
「知ってるさ。今はまだ、ね」
クロエの言葉に、ブラジェイは頭を掻き、長い息を漏らした。
「気ぃ削がれちまった。今日はもう寝ちまえ」
「ふふ……そうするよ。おやすみ、ブラジェイ」
「おう、ゆっくり休め」
ブラジェイが部屋を出ていくと、クロエは布団を引き寄せ、その中に体を丸めた。扉の閉まる音とともに、室内は再び静寂に包まれる。
胸の奥で、まだ熱い鼓動が響く。さっき押し倒されたときの腕の重さや、荒い呼吸の余韻が、肌にじんわりと残る。思わず、もう一度声に出して呟いた。
「……ほんと、ずるい男だよ」
誰もいない空間に、同じ言葉をこぼす。
顔は自然と熱を帯びた。
(もし、あのまま唇が触れていたら……あたしは……)
想像して、思わず頭を振る。
いけない、と自分に言い聞かせても、思考は勝手にそちらへ傾いてしまう。心が知らぬ間に彼に寄っていく。
ブラジェイのことは好きだ。
けれど、自分の胸の奥に巣食う誰かが邪魔をして、どうしても一歩を踏み出せない。
そして同時に、ブラジェイにも誰かが心にいることを、クロエは知っていた。
(あたしたちは、同じ穴の狢ってやつだね……)
小さく笑い、枕に顔を埋める。彼の不器用な優しさを振り払えない自分が、どうしようもなく情けなくもあり、同時に救いのようでもあった。
目を閉じれば、今も耳に残るブラジェイの声が心を揺らす。
──言えよ。してほしいって。……そしたら、今すぐそうしてやる。
「……ほんと、バカ」
触れそうになった唇が、熱くなっていた。
どうせ眠れはしないと思いながらも、クロエは生ぬるい息を吐き出しながら布団の中で身を丸めた。
(あたしは、あんたと結ばれるわけにはいないんだよ、ブラジェイ……)
アグライア家の長女として生まれたクロエには、グランディオルに仕え続ける義務がある。そしてその義務は、ある一つの可能性を否応なく示唆していた。
(あんたはティナと結ばれるべきなんだ。だって、あたしは──)
クロエは夜の深みに溶け込みながら、自身の半生と、胸に宿る想いを静かに反芻した。




