特別という幸せ その2
彼の温かい手に引かれながら。あの、見覚えのある路地を歩いていく。ひんやりとした空気。高鳴る鼓動。それでも、ちょっぴりだけ。自分の気持ちに気付けた私には、初夏の日差しを心地よいと感じられるゆとりがあった。
部屋に入ると、やっぱり最初に目に映るのは大きなベッドで。それだけで、胸がドキドキし始める。
静かに息を吐いて、そっとソファーに座る。
「あのっ」
「ん?」
「飲み物、頼んでもいいですか?」
「うん、いいよ」
隣に、彼も座る。
「河野さんは、何にしますか? あ、メニュー読んだ方がいいですか?」
「……すごい」
「え?」
「ちゃんと、してくれたんだね。心の準備」
「……っ」
「ありがとう」
彼が目を細めて、柔らかく笑う。
「……」
返す言葉が分からなくて、メニューに目を落とす。
「……メロンソーダ、とかっ、ありますよ」
「ほんと? それにしようかな」
「……あ」
フードメニューの所に、「モーニング」という文字を見つける。
「ここって、泊まれるんですね」
「うん……泊まってく?」
バサッ。
メニューが勢いよく床に落ちる。
「いえっ! そんなつもりじゃ、なくって!」
「大丈夫。分かってるよ」
彼が立ち上がって、メニューを拾い上げる。
「……本当に、いいのかな」
彼が、メニューをテーブルに置きながら、小さく呟く。
「え?」
「僕で」
「何、が……」
「それ、今、ここで聞く?」
彼が少し困ったような表情を浮かべる。
「……」
本当に。なんてことを聞くんだ、私。
「いい、んだよね?」
彼の瞳が、私をくっきりと映している。
「はい」
私の瞳にも、彼だけが映る。
彼の手が、そっと伸びてくる。
「……あの」
私の弱々しい声で、その手がピタリと止まる。
「河野さんは……初めてじゃ、ないんですよね」
「……うん」
彼の手が、そっと下ろされる。
「……」
また、何を。思わず、俯く。
「奈月ちゃん」
彼が、優しく名前を呼ぶ。
「初めて、じゃないけど」
彼の手が、私の手をそっと包み込む。
「君に。僕にとっての最後の人に」
なってほしい。その言葉は、私の頬に添えられた手のひらから、体の中へと流れてくる。
「もう、君しか考えられないから」
「……っ」
「好きだよ」
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。私は、そっと目を閉じる。
「……」
あれ。
「……」
そっと目を開けてみると、切なそうな顔をした彼が、動きを止めていた。
「あの……」
「……泣いてる、から」
「え……」
頬から離された彼の指先に、涙の粒がついていて。鈍い光を放っている。
「すみま、せんっ」
涙の理由は、謝ることではないはずなのに。涙が溢れれば、溢れるほど。彼を、困らせてしまうから。
「ごめん。今の言葉、重すぎ……」
「違うっ!」
二種類の涙が入り混じって、ボタボタと流れ落ちる。
「……嬉しかった、のに。泣き虫でっ、ごっ、ごめん、なさっ」
涙は、止まってくれない。
「ひとまず、落ち着こう」
「うっ……」
「そうだ。飲み物、まだだったね」
「……いら、ないっ」
「え?」
「キス、してっ」
「でも……」
「続けてっ、ください……お願い」
それしか。涙を止められる方法は。
「分かった」
彼が、再び手を伸ばす。
「ありがとう、ございます」
唇が、そっと重なる。
彼のぬくもりと、私の抑えられない熱が。ゆっくりと、溶け合っていく。




