過去のヒトその2
コール音が鳴っている間に、窓ガラスの枠に手をかける。外に広がる景色には、いつも通りちゃんと色がある。小さく頷いて、静かに窓を閉める。
コール音が発する振動に合わせて、鼓動がドクンドクンと響く。
「もしもし」
彼の穏やかな声が、耳の入り口から体の中へと入ってくる。まるで酸素を取り込むように、自然な流れで身体中を巡っていく。
「あのっ、さっきは出れずにすみません」
「大丈夫だよ、折り返しありがとう」
「いえ……それで、何かお話があったんじゃ」
「ん? 特に用事があるわけじゃないんだけど。……そうだな、敢えて言うなら」
彼が、一拍おいて続ける。
「エネルギーチャージ。僕が頑張る為の」
「……」
「今のは、ちょっと恥ずかしいね」
「はい……」
どうして、あなたは。いつも。
私には真似できない方法で……
「奈月ちゃん?」
「はいっ! あ、あの……」
今、他のことまで考えてしまったら。
せっかく掴みかけた道筋を、見失ってしまう。
「私は、お話があります……」
「なぁに?」
ズボンの太ももの辺りを、グッと握りしめる。クシャッと、一気にシワができる。
「私……今、就活で。三社、最終面接まで進んでます」
「うん」
「全部、県内の会社で」
「……うん」
「だからっ、その……」
言わなくちゃ、その続きを。
強く思うほどに、息が。言葉が。つかえてしまう。
「……僕が、言おうか」
「……え?」
「その続き」
どうして。……優しすぎるよ。
でも、今回は。他になんにもできない私に。
もう少し、頑張らせて。
「……私がっ、言います」
「分かった」
彼がそう言って、落ち着いた静けさが訪れる。
「……だから」
声が、震えないように。最後まで言えるように。深く、息を吸う。
「卒業しても、私はこっちにいます。私たち、どうしたらいいと思いますか?」
声は大丈夫だったのに。
携帯を握る手が、小刻みに震えている。
「どうしてもっ、答えが出ないんです! 私一人じゃ!」
叩きつけるような声が、部屋中に響き渡る。
……こんなつもりじゃ、なかったのに。
こんなの、ただの八つ当たりじゃん。最低だ。
本当に、最低だよ……
「……僕も」
彼の声で、ハッとなる。
「僕も、考えてるから。これは、君一人で答えを出すことじゃないから」
「ほんと、に……?」
「うん。ほんと」
彼の声が、いつものように心地よく耳に響く。
「だから、もう少し待ってもらえる? 答え決めるの」
「……はいっ」
頭の中はぐちゃぐちゃになっているけれど。
彼の言葉は、一文字一文字、鮮明に心に届いた。
「でも……僕は今、どうすればいいのかな」
「え?」
「今、君の涙を拭えないから。その代わりに」
「なっ、んで……」
「分かるよ。ずっと、君を見てきたから」
その言葉で、涙を堰き止めていた壁は、呆気なく崩れた。
「うっ……ううっ」
「ごめ……」
「謝らなくてっ、いいですっ」
涙が頬を伝って、携帯を濡らしていく。
「してっ、くれるなら……っ、声を、聞かせてっ。何か、話を……っ」
嗚咽がひどすぎて、自分でも聞き取れない。
「分かった」
それでも、彼はしっかりと受け取ってくれた。
「僕は、君を」
私を落ち着か出るように、普段よりもずっとゆったりとした口調で。
「愛してる。君が思ってるより、何十倍も。どうしようもなく」
想像していたよりもずっと、深い言葉が。
「……っ。余計っ、泣いちゃいますよっ」
「そう?」
「そう、ですっ」
「……じゃあ」
彼が穏やかな口調で続ける。
「今住んでる家の近くにさ」
「……はい」
「新しいカフェができてね」
「……そう、なんですね」
「うん。で、抹茶ラテとほうじ茶ラテが人気らしいんだ」
「へぇ……」
「飲んでみたいんだけど、男一人で入れる雰囲気じゃないんだ」
「そうなんですか」
「そう。だからさ」
「はい」
「いつか、二人で飲み比べしない?」
「えっ」
「ん? 駄目かな?」
「……駄目じゃ、ないです」
「よかった」
電話の向こうに、彼の笑顔がある。
「それと」
「はい?」
「来週、そっちに行っていい?」
「はいっ」
「よし」
今度は、彼が大きく頷いている。
「もう、大丈夫だね」
「はい!」
「じゃあ、またね」
「はい」
ゆっくりと、携帯を耳から離す。
刺激が強いと思っていた部屋の景色は、すっかり目に馴染んでいる。
開きっぱなしになっていた本を手に取って、そっと閉じた。




