特別な日 その2
彼に手を引かれて、知らない道を歩いていく。大通りから一本奥まった道に入ると、なぜか空気がひんやりと感じられた。
「……あともう少し、かな」
彼がポツリと呟く。その言葉に、体がビクッと跳ねる。体の熱を空気に溶かして、なんとか歩いている状態なのに。……この後、どうしよう。
「大丈夫?」
彼が一度、立ち止まる。
「え?」
「……手、震えてるから」
言われて初めて、そのことに気付く。
「やめようか?」
「え……?」
「僕はいいよ、今日じゃなくても」
「……」
どうしてだろう。心の熱が、一気に冷えていく。
「河野。さんは……」
涙の波が押し寄せる。不安と期待が入り混じった波を、打ち消すように。
「どうしたいっ、ですか……」
「……」
一筋落ちた涙を、彼の指が優しくすくう。
「僕は」
彼がまっすぐ、私を見つめる。
「行きたいよ。だから、頑張って言った。でも、何よりも、君の気持ちを優先したい。僕の気持ちよりも、だよ」
「……そんなのっ」
握った拳にグッと力を入れる。
「優し、すぎますっ」
「……」
「嬉しい、けどっ……たまに、分からなくなりますっ。あなたの、気持ちが……っ」
「……」
こぼれる涙の勢いに負けないように、深く息を吸ってから続ける。
「手が震えたのはっ! 緊張してるからでっ。……行きたくないとか、嫌だとかっ、そんなふうに思わないで……」
静まり返った裏通りに、震える自分の声だけが響く。
「……」
「あのっ、すみま」
「ごめん」
彼が、私の頬に手を伸ばす。
「不安にさせてごめん。大丈夫。君のこと、誰にも負けないくらい、好きだから」
「……っ」
「大好き、だから」
彼の手が、涙を優しく拭う。
「愛し……」
「あのっ!」
思わず、彼の腕を掴んで、頬から離す。
「もう大丈夫ですっ! ……恥ずかしい、です」
「そっか……難しいね」
彼が小さく微笑んで、手を繋ぎ直す。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
彼が絡めてくれた指が、私の心に再び熱を与え始めた。
綺麗な建物だとか。他の人と鉢合わせたりしないのかな、とか。そんなことを考えていられたのは、部屋の前までで。部屋に一歩入った途端、心臓が暴れ始める。
真っ先に目に入った大きなベッドは、明るい光に照らし出されて、存在感を思う存分発揮している。
「ソファー、座ろうか」
「ははっ、はいっ」
緑色の落ち着いた雰囲気のソファーに腰掛けて、フーッと大きく息を吐く。
えっ。
落ち着ける時間もなく、今度はお風呂へ続くピカピカに磨き上げられた扉が目に飛び込んでくる。
……一体、どこに目を向ければいいの!?
「何か飲む?」
「えっ!?」
隣から聞こえてくる声に、飛び上がる。
「……サービスで、頼めるらしいよ」
「そう、なんですか」
駄目だ。あんな大口叩いておいて。体がガチガチだ。
「そういえばさ」
ドリンクが届いてから、彼が呟く。
「僕、次の誕生日で三十二歳なんだ」
「そうなんですね。あっ、おめでとうございます」
ホットココアのおかげで、ようやく落ち着けた。
「ありがとう……ではなくて」
「え?」
「いいの? 君より結構年上だよ?」
「何か、問題が……?」
変な形で、口が開きっぱなしになる。
「……いや。もっと歳が近い人の方が、気が合うんじゃないか、とか。時々、思うんだ。……大学にもたくさん男の子、いるだろうし」
「それ、本気で言ってますか」
「……わりと」
あぁ、そうか。私だけじゃ、ないんですね。
「私は」
いつも、伝えてもらってばっかりで。ごめんなさい。
「河野さんが、いいんです。河野、さんっ、が……す、好きっ、なんです……」
最後まで届いたか自信がなくて、恐る恐る彼を見上げる。
「……奈月ちゃん」
「はいっ」
彼が私の頬に手を添えて、顔の角度をそっと変える。
「……キス、したい」
「……っ!」
優しく、唇が触れる。熱が心に辿り着く前に、フッと唇が離れる。
「奈月ちゃん」
耳元で、囁かれる。
「……どこまで、いい?」
「えっ」
彼の甘い熱を帯びた声が、続ける。
「嫌、って示してくれなきゃ……止めない」
「……っ」
「突き飛ばしてくれても、いいから」
「え!? ……えっ……っ」
唇が、再び重ねられる。さっきよりも、強く。
「……んっ」
キスが、繰り返されて。熱すぎる波が、何度も押し寄せる。
「……っ! ……んっ」
キスが、深くなっていく。与えられる刺激に、体がビクビク飛び跳ねる。
「あっ……んんっ……」
甘い波が、少しも引くことなく、押し寄せる。
「……っ」
体よりも先に、心が。彼の熱で満たされていく。
「……やっぱり、今日はここまでにしとく」
「はぁっ……はぁ……」
どうして。そう言いたいのに。呼吸が、ちっとも整わない。
「これ以上は」
彼が、ゆっくりと体を離す。
「はっきり言ってくれないと……止めれる自信、ない」
「……」
体の芯は、まだまだ、熱を帯びたままで。
「この手は……どっち?」
いつの間にか掴んでいた彼のシャツは、しわくちゃになっている。
「教えてほしい……続ける?」
彼の苦しそうな表情が。視線が。私の速すぎる鼓動が。私の声を、奪っていく。
「……っ」
彼のシャツを、離せない。
「……」
彼がじっと、待っている。
「……」
どっち、なの……。自分しか知らないはずの答えを、はりつめた空気に問いかける。
「……続きは、今度ね」
彼が自分の手をそっと重ねて、私の手をシャツから離す。
「すみっ」
「ありがとう」
「え……」
「君の気持ちは、十分伝わったから」
そう言って、触れるだけのキスをする。
「……ということで」
彼が咳払いをする。
「直してくれる?」
「え?」
「ブラウス。……ボタン、外しちゃったから」
「えっ!? わっ!!」
慌ててブラウスを押さえる。全然気付いていなかったことに、身体中が沸騰する。
「やっぱり待って」
「ええっ!?」
驚いて、声が裏返る。
「自分でしといてあれだけど……直すところ、見てるの恥ずかしいから」
彼がソファーから立ち上がって、壁の方に体を向ける。
「どうぞ」
言われて、ボタンを留め始める。……でも。
自分の手が、彼の手に見えてきて。ボタンを留めているはずなのに、外しているような感覚に陥って。彼がしていたことを想像するだけで、指先がしびれて。なかなか、留められない。
「おっ、終わりましたっ!」
随分と時間がかかってしまったけれど、なんとか終わった。ブラウスにできたシワも、少し整えた。
「……あのさ」
「はい?」
振り向いた彼の頬が、ほんのり赤い。
「これはこれで……恥ずかしかった」
「えーーーっ!!」
彼が、あははっと笑い出す。
「その声聞くと、落ち着く」
「どうしてですかっ!?」
「内緒」
彼がにっこり笑う。
使われなかったベッドが、カーテンの隙間から差し込む優しい光にそっと照らされていた。




