彼の気持ちと私の気持ち その2
彼の手に、自分の手汗がべっとりとついてしまいそうで。手を離したいけれど、彼は気にしていない様子で指をしっかりと絡めている。
店内に入ると、一気に冷やされた空気に包まれる。汗もさっと乾いてしまいそうなくらいだ。
「おっ、久しぶりだね二人とも」
マスターが白い歯をニッと見せて笑う。
「圭太郎くんはともかく、奈月ちゃんはもっと来てくれてもいいのに」
「すっ、すみません。最近ちょっと、忙しかったので」
「そっか。また時間ができた時に、冷たい物でも飲みに来てね」
「はいっ」
「ちょっと」
突然、隣から不機嫌そうな声が聞こえてくる。
「そろそろ、席に行ってもいいかな」
「すみませんっ!」
「いや、君じゃなくて。マスターに言ってる」
「あ、ごめんごめん。いつもの席にどうぞ」
「行こう」
そう言った彼の足取りが、いつもより速く感じられた。
「はい、お水どうぞ」
マスターがにこにこしながらお水を運んでくる。
「ありがとうございます」
「そうそう、この前から冷やし中華始めたんだ。よかったらどうぞ」
「そうなんですね! 夏には食べたくなりますよね」
「うん、うん。……で?」
マスターが、彼の方に体を向ける。
「圭太郎くんは、なんでさっきから不機嫌なんだい?」
私が言えなかった質問を、マスターが堂々と口にする。
「そう、見える?」
「うん。分かりやすすぎ。ね、奈月ちゃん?」
「えっ!? えっと……」
無意識に、テーブルに置かれたグラスに視線を落とす。
「……呼び方」
私が何も言えずにいると、彼が口を開く。
「なんでマスターも、奈月ちゃんって呼んでるの?」
「えっ」
予想もしていなかった言葉に、思わず顔を上げる。マスターはポカンと口を開けていたけれど、すぐに大声で笑い出す。
「まさか、君がそこまでお子ちゃまだったとは」
「……そんなに笑わなくてもいいだろ」
彼が恥ずかしそうに、窓の方へと視線を移す。その仕草が。言葉の温度が。横顔が。全て、愛おしく思えた。
「で? 例の話はもうしてる?」
マスターが何事もなかったかのように、彼に囁く。
「これからだよ」
彼も小声で呟く。
「おっと、いけない。じゃあ、注文は後でいいから。早く話しちゃって」
「うん」
「では、ごゆっくりー」
言いながら、マスターが歩き去る。
「ごめん、いろいろ」
彼が私に向き直る。
「いえっ、大丈夫です。……あの、例の話って?」
「うん。来週なんだけど、お盆の間、こっちにいようと思って」
「そうなんですか!?」
「うん。で、こっちにいる間、マスターの家に泊めてもらうことになった」
「そうなんですね。優しいですね、マスター」
「うん。あんなだけど」
彼が苦笑いを浮かべる。
「あっ、お母さんは大丈夫ですか? 心配してるんじゃ……」
「大丈夫。マスターが一緒なら安心だって。母さんとマスター、付き合い長いから」
「よかったです」
お水を一口飲んで、言葉を続けるか迷う。
彼がこっちに来る予定なら。ついででいいから……
でも。まだ、心の準備ができていない。
「あのっ、そろそろ注文しませんか? 私、冷やし中華にし……」
「待って」
メニューに伸ばしていた手に、彼の手がそっと重ねられる。
「まだ、続きがあるから」
「はっ、はい……」
彼の体温が。真剣な眼差しが。私の鼓動を速くさせる。
「……」
二人の視線が交わって。周囲の音と気配だけが、変わらずに動き続けている。
「……あのっ」
先に視線を逸らしたのは、私だった。
「話の続きを……」
「うん」
重ねられていた手が、ゆっくりと離れていく。
「前にも言ったと思うんだけど、僕がこっちに来る理由は、君に会う為なんだ」
「……」
「それで、先に相談しなくて申し訳ないんだけど、お盆の間に二人で出かけられないかな? 一日だけでもいいから」
「……はい」
「よかった」
彼が頬を緩めて、嬉しそうに笑う。
「奈月ちゃんは、何日が都合いいかな?」
「私はお盆の間は予定ないので」
「そうなんだ。お父さんは帰ってこないの?」
「はい。時期をずらして帰ってくるみたいです」
「そっか。じゃあ、もしよかったら」
彼が一枚の紙を取り出す。
「お祭りに行かない?」
「えっ」
彼がこちらにチラシを見せながら、続ける。
「花火大会もあるから、一緒に行きたいと思って」
「えーーーっ!!」
思わず掴んでしまったチラシが、くしゃっとなる。
「……久しぶりな気がする、その声」
「すみませんっ」
「いや。でも……もしかして、僕の目のこと気にしてる? それとも、お祭りは苦手だった?」
「いえっ、そうではなくて! いや、そうなんですけどっ、違くて!」
手元にあったグラスを握って、心を落ち着かせる。ひんやりとした感触が、少しだけ頭をすっきりさせてくれる。
「……私も、誘おうかなって思ってたので、花火」
「え、そうなの?」
彼が珍しく目を大きく見開いている。
「はい……」
「ありがとう」
「え?」
「嬉しい」
彼が穏やかに笑う。
「……せっかくなら、聞いてみたかったな」
「何を?」
「君の、誘い文句」
「えっ」
「どんなふうに誘ってくれるつもりだった?」
「……どう言うか、迷ってました」
「そっか」
彼がくすりと笑う。
「細かいことはまた決めるとして。君がよければ、ご飯食べようか」
「はい」
「冷やし中華でいいのかな? さっきはごめんね、途中で遮って」
「大丈夫です。冷やし中華にします」
「僕はどうしようかなあ。久しぶりだし」
彼がゆっくりとメニューをめくっていく。
「冷やし中華、一口もらえたりする?」
「はい」
「じゃあ、卵サンドにしようかな」
彼の笑顔は明るくて。グラスが反射している日光よりも、眩しくて。
心が満たされていく感覚に浸りながら、目を細めた。




