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あれから 満開の桜のそばで 〜目が見えにくいあなたとの物語〜  作者: 綾瀬 桜


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願いごと その2

 脱衣所の扉を静かに開けてみる。リビングの方から、お母さんの高い笑い声が聞こえてくる。

 少しずつ近づいてみると、彼の笑い声も微かに混じっている。


「奈月。早くしないと、お菓子全部食べちゃうわよ」

 お母さんがくるりとこちらに振り向く。

「う、うん……」

 席に座って、とりあえずケーキに口をつける。

「……美味しい」

 チョコは少し溶けてしまっているけれど、ほんのり甘くて。体が喜んでいるのを感じる。

「チーズケーキも美味しかったよ」

 隣の彼が、にっこりと笑う。

「奈月。この抹茶のも食べてみて! すっごく美味しいんだから」

「うん……」

「あんまり美味しいから、また買ってきて、って河野さんに頼んでたところよ。ねー?」

「え!?」

「今度は、他の種類も買ってきますね」

「楽しみだわー」

「お母さん……」

 思わず、溜め息をついてしまう。


「河野さん」

 お母さんが、お菓子を食べる手を止める。

「はい」

 彼が、まっすぐにお母さんを見つめる。

 二人の真剣な眼差しに、呼吸を忘れてしまう。


「これからも、奈月と仲良くしてやってね」

「はい」

「今度から、圭太郎くん、って呼んでもいいかしら?」

「はい、嬉しいです」

 二人が微笑み合っている。

 それを見て、肩の辺りが楽になる。

「奈月」

「はいっ!」

 背中が、ビクッと跳ねる。

「あんまり、迷惑かけちゃ駄目よ」

「はい!」

「迷惑なんてそんな」

「もう、圭太郎くんったら優しいー」

 お母さんがウインクをしてから、お菓子に手を伸ばす。

「そういえば、今日は見たい歌番組があったのよね」

 そう言って、テレビをつける。

「どなたか、好きな歌手がいらっしゃるんですか?」

「そうなのよ……」

 また、流れるように二人の会話が始まる。

 私は一人、遠くの空にかかる真っ白な雲を眺めた。


「今日は来てくれて、ありがとね」

「僕の方こそ、楽しかったです」

「また来てね」

「はい、是非」

 彼が頭を下げてから、靴を履き始める。

「お母さん。私、駅まで送ってくるね」

「え、いいよ。ここで」

「いいのよ、遠慮しなくて。奈月、ついでに牛乳買ってきてちょうだい」

「うん、分かった」

「……では、失礼します」

「気をつけてね」

 ゆっくりと、扉を閉める。彼と二人で、そっと歩き出す。


「……今日は、ありがとうございました」

「こっちこそ、ありがとう」

 夕日で染まった空が、どこまでも続いていて。木々も、ほんのりと赤く照らし出されている。


「お母さん、楽しい人だね」

 彼が思い出したようにクスッと笑う。

「というより、図々しすぎます」

「そんなことないよ」

 彼が、優しく笑う。

「奈月ちゃんが、あったかい家庭で育ったんだなあ、って。よく分かった」

「……っ」

 体が、少し。ムズムズしてしまう。

「……河野さん、全然緊張してなかったですね」

「そんなことないよ?」

「嘘っ! ……あっ」

 慌てて、手で口を押さえる。

「すみません……」

「いや。……でも」

 彼が足を止めて、振り向く。

「君を、なんとかしてあげたいって思ってたから」

「え?」

「手、震えてたから」

「……」

「緊張しっぱなしで、疲れてない?」

 繋いでいる手から、彼の優しさが流れてくる。

「大丈夫です」

 キュッと彼の手を握る。

「よかった」

 再び、ゆっくりと歩き出す。


「そういえば、一回も僕の名前呼ばなかったね」

「えっ」

「せっかく練習したのに。お母さんに先越されちゃったし」

「っ! それはっ、呼ぶ場面がなかったから……っ」

「そう? でも、さっきも河野さんって呼ばれた気がするけど?」

「……っ」

「ゆっくり、そのうちでいいよ。でも、いつかは、ね」

「……はい」

 日中の暑さを残した風が、二人の背中を撫でていく。


「あ! 七夕飾りがありますよ!」

 商店街にさしかかった所で立ち止まる。

「行きにもあったよ」

 彼がクスッと笑う。

「そう、でしたっけ?」

 全然気付いていなかったことに、顔がバッと赤くなる。

 そんな私に、気付いていないはず、ないのに。彼はまるで何もなかったかのように、飾られた短冊へ目を向ける。


「みんな、どんな願い事してるかな」

「こっ、子どもとか、可愛いお願いしますよねっ」

「そうそう。ヒーローになりたいとか」

「人魚姫になりたいとか」

「君も、そういうお願いしてたの?」

「どうでしょう。よく覚えてないですね……」

「僕も」

 二人でクスッと笑い合う。


「あ! 短冊とペン置いてありますよ、いっぱい」

「ん? あ、ほんとだ」

 二人で設置された台に近づく。

「せっかくなので、書いていきますか?」

「そうだね」

「あ、私、代わりに書きましょうか?」

「え?」

「前に、文字書く時は道具使ってるって言ってましたよね。だから……」

「……」

「いえっ、余計なことならっ」

「いや、助かる。でも、こういうのって、自分で書かなくてもいいのかな?」

 彼が、高く伸びた笹を見上げる。

「きっと大丈夫ですよ、名前も書きますから」

「じゃあ、お願いしちゃおうかな」

「はい!」

 前のめりになって、ペンを構える。

「お願い、何にしますか?」

 言いながら、ペンを短冊に近づける。


「奈月ちゃんと」

 彼が、小声で続ける。

「ずっと、一緒にいられますように」

「……」

 ペンを、動かせない。

「奈月ちゃん?」

 心が、熱いものでいっぱいになる。

「……本当に」

「ん?」

「本当に、それで……いい、ですか?」

「勿論」

 彼が、穏やかに笑っている。

「じゃあ……」

 私だって。だから……


 二人でずっと一緒にいられますように

 圭太郎・奈月


 そっと、ペンを置く。


「これでも……」

「……」

「いい、で……」

「奈月ちゃん」

「はい?」

「……泣きそう」

「えっ!?」

 振り向くと、本当に彼の瞳が潤んでいて。

「すみませんっ! 書き直」

「なんで、そうなるの?」

 彼が目元を拭ってから、微笑む。

「嬉しいんだよ、僕。……だから、飾らせて」

 そう言って、手を差し出す。

「……」

 彼の、手のひらに。そっと。短冊を乗せる。

 彼が丁寧に、笹の葉にくくり付ける。

「できた」

「はい……」

 二人でじっと、短冊を見つめる。笹の葉が、風に優しく揺られている。


「もしかして。これ、初めての共同作業?」

「え? それは、ケーキ入刀の時にとっておいた方が……」

「え?」

「……え?」

 彼と、顔を見合わせる。

「あのっ」

「今のは、ちょっと」

「いえっ! ええっと、今のはっ!」

 身体中が、どんでもないスピードで沸騰する。

 結婚式、だとか何とか。美幸が変なこと言うから……


「……聞き流したく、ない」

「え?」

 彼が、私をまっすぐ見つめる。

「それって。そういうこと……想像してくれてる、ってこと?」

「……」

 はい、と言えたらいいのに。

 彼の熱すぎる視線が。空気が。私の声を封じ込める。


「いっ」

 ごめんなさい。

 彼から、視線を逸らす。

「いいっ、一般的なっ、話、です……」

「……」

 勇気が……足りないんです。今の、私には……

 顔が、俯いてしまう。


「そっか」

 彼が穏やかに呟く。

「……」

 ゆっくりと、顔を上げる。

「だったら。もう一つ、願い事書いちゃおうかな」

「え?」

「さっきのは合同だし、個人であと一つくらい、許してくれるかな?」

「ど……どうでしょう?」

「なんてね」

 彼がそっと手を差し出す。

「そろそろ行こう。遅くなっちゃうと、お母さん心配するよ」

「……はい」

 彼の手を握るけれど、彼のぬくもりよりも先に。心は、後悔の波に呑み込まれて、苦しい。

 

 どうして、素直に言えなかったの?

 どうして、いつも肝心な言葉ほど言えなくなるの?

 あなたは、いつも優しくて。

 あなたは、どんな時も私のことを見てくれていて。

 それなのに。私は……


 彼に気付かれないように、そっと。頬に流れる涙を拭った。


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