願いごと その1
日傘を握る手に、じっとりと汗が溜まっている。暑いのは勿論あるけれど、それだけじゃない。まだ、彼と合流すらしていないのに。鼓動が、速くなっている。
「奈月ちゃん」
私を呼ぶ声は、いつもと全く変わらなくて。一瞬、ホッとする。
「すみません、わざわざ来てもらって……」
「いや。僕が来たかったから」
そう言ってくれる彼の服装が、いつもより大人っぽくて。再び、緊張の波に呑み込まれる。
「いっ、行きっ、ましょう……」
足が思うように動いてくれなくて、ぎこちない。
「……奈月ちゃん」
「はいっ!」
「その日傘、可愛いね」
「え!?」
「新しく買ったの?」
「はい……」
「君に、よく似合ってる」
彼が微笑んでくれて。体が、ほぐれていく。
「ありがとうございます」
それだけで、私も笑顔になれる。
「あ、勿論」
彼が耳元で囁く。
「君自身が、一番可愛いけどね」
「っ!!」
彼の吐息が。言葉が。一気に私の体温を上げる。
「なんでっ、そんなこと言うんですかっ」
「だって、勘違いされたくないし」
「……もうっ、行きますよっ」
「うん」
自分の体が熱すぎて、風の生ぬるさなんか吹き飛んでしまう。……でも。
気付いたら、自然と。普段通りに歩けるようになっていた。
「た、ただいま」
家の扉を開けて、恐る恐る声をかける。
「お邪魔します」
彼も、続けて中に入る。
「おかえり。いらっしゃい」
お母さんが、パタパタと音を立てて、玄関までやってくる。
「初めまして。河野と申します」
彼が、ぺこりと頭を下げる。
「初めまして。さぁ、上がってー」
「ありがとうございます。あの、ここに、杖を立てかけさせて頂いてもいいですか?」
「構わないけど、部屋の中は大丈夫?」
「はい。お家にお邪魔する時は、いつもこうさせて頂いているので」
「そうなのね。奈月」
「はいっ!」
「お母さんは先に行ってるから、案内してあげて」
「う、うん」
お母さんは軽やかな足取りで行ってしまう。
「あの、突き当たりがリビングなので」
「うん」
「何か、お手伝いしましょうか?」
「大丈夫。ありがとう」
彼は普段通りの穏やかさで、歩き出した。
「河野さん、紅茶でもいいかしら?」
「はい。ありがとうございます」
彼がにっこり笑って、お母さんも嬉しそうに紅茶を用意する。
「お母さん、なっ、何か、手伝おうか?」
「いいわよ。あんたは座ってなさい」
「はい……」
言われるまま大人しく座るけれど、ソワソワして仕方がない。
「……っ」
隣の彼を見てみると、彼もこちらを見ていて。目を細めて微笑んでいた。
「お待たせ」
お母さんが紅茶を運んで、彼の向かいに座る。
「ありがとうございます」
彼が軽く頭を下げる。
「あの、改めてご挨拶を」
彼が立ち上がって、お母さんの方へ歩み寄る。
「あら、ご丁寧にどうも」
お母さんがにっこり笑って、彼の方へ向く。
「奈月さんと、半年ほど前からお付き合いさせて頂いています。河野 圭太郎と申します。ご挨拶が遅くなってしまい、申し訳ございません」
「そんな、全然よ。会えて嬉しいわ」
「ありがとうございます」
彼が、深々と頭を下げる。
「あの。よかったら、どうぞ」
彼が、足元に置いていた紙袋から箱を取り出す。
「あら! 抹茶のお菓子ね! 嬉しいー」
「奈月さんから、抹茶がお好きだと聞いていたので」
「そうなの? ありがとう。早速、頂いてもいいかしら?」
「はい」
「ちょっと、お母さん!」
二人の流れるような会話に、ようやく口を挟む。
「何も、今食べなくてもっ。ケーキも買ってあったでしょ」
「そうだったわね。じゃあ、両方食べましょ」
「え!?」
「なぁに? お母さんがもらったんだから、いつ食べたっていいでしょー」
「……」
「じゃあ、ケーキ出すわね」
お母さんが台所へ消えていく。
私が溜め息をついている隣で、彼はクスクスと小さく笑っていた。
「ケーキ、いろんな味買ったんだけど、河野さんはどれがいいかしら?」
お母さんが箱を開けながら尋ねる。
「僕は後で構いませんから、お二人からどうぞ」
「そう? じゃあ、奈月。選んじゃって」
「うん」
言われて、ケーキを見つめる。
……どれに、したらいいの?
彼は、これかな。お母さんは、どっち?
「……チョコ、食べていいよ」
隣から、こっそり囁かれる。
「わっ、私……チョコ、でもいい?」
「いいわよ。じゃあ、お母さんはイチゴにするわね」
「あ。僕、取り分けます」
「いいわよー。私がやるわ」
お母さんが、鼻歌まじりで取り分ける。
「……」
フォークを掴んではみたものの。手が、震えてしまう。
「……奈月」
「はいっ!」
「なんで、あんたが緊張してるの?」
「だって……」
「お母さん、僕がいけないんです。早くご挨拶したいと思って、僕が急に日にちを決めてしまったので」
「あらー。そうだったのね」
言いながら、なぜかウインクが飛んでくる。
「そうそう、聞きたかったんだけど」
お母さんがイチゴをパクリと食べてから、続ける。
「この子の、どこがいいの?」
「なっ!!」
カチャン!
フォークが勢いよくお皿とぶつかって、大きな音を立てる。
「そうですね。たくさんあるんですが」
「あら、是非聞きたいわ」
「まず……」
「ちょっ! 待って!」
思わず、立ち上がる。
「どうしたの、奈月」
「……お手洗いっ、いってきます!」
二人の返事も聞かずに、リビングの外へと駆けていく。
……無理っ、絶対無理っ。
トイレではなく、脱衣所に駆け込む。
鏡を見なくたって、自分の顔が真っ赤になっていることは分かりきっている。
どうして。あの二人はあんなに冷静なの!?
お母さんは元気すぎるし。……まぁ、お母さんはそれでもいいけど。
彼の方は、いくらなんでも普段通りすぎるでしょ!!
どんなふうに心の準備をすれば、あんなふうにいられるの!?
私が緊張しすぎ、だろうけど。……でも。
やっぱり。緊張、しちゃうもん。
はぁ……
一人で大きな溜め息をつく。
今頃、二人で何を話しているのだろう。
気になるけれど……まだ、戻れない。
鏡を見つめながら、頬の火照りが落ち着くのを。じっと、待つことしかできなかった。




