名前屋 4
その町へ着いた時。
ルカはまず空を見上げた。
曇っていた。
いや。
いつも曇っているのだろう。
町の人々の顔を見れば分かった。
誰も空を見ない。
雨が降ることが当たり前だからだ。
石畳は濡れている。
屋根も濡れている。
壁も濡れている。
町の隅々まで湿っていた。
「変わった町ですね」
ルカが言うと、近くの商人が笑った。
「旅人さんかい?」
「ええ」
「なら驚くだろうな」
商人は町の中央を指差した。
「あれを見な」
ルカは視線を向けた。
そして足を止めた。
大きな塔だった。
鐘楼のようにも見える。
だが鐘はない。
窓もない。
入口も小さい。
ただ高く。
ただ静かに。
町の中央に立っていた。
「古い塔ですか?」
「古いなんてもんじゃない」
商人は笑う。
「誰が建てたかも知らない」
「記録もない」
「ずっと昔からある」
「名前は?」
すると商人は首を傾げた。
「名前?」
「はい」
「そんなものあったか?」
周囲の人々も顔を見合わせる。
「そういや聞いたことねえな」
「塔は塔だろ」
「呼び方なんか必要か?」
ルカは塔を見上げた。
妙だった。
とても妙だった。
巨大な建造物なのに。
誰も名前を付けていない。
その日の午後。
ルカは塔を調べ始めた。
中へ入る。
暗い。
石の螺旋階段。
上へ。
上へ。
ひたすら続いている。
息が切れる頃。
ようやく頂上へ辿り着いた。
そして驚いた。
屋上の中央に。
巨大な石の器があった。
雨水が溜まっている。
澄んだ水。
長年雨だけを受け続けたような静かな水。
ルカは覗き込んだ。
空が映っている。
灰色の空。
流れる雲。
ぽつり。
雨粒が落ちる。
波紋が広がる。
それだけだった。
だが。
不思議と目が離せない。
翌日からルカは町中を歩き回った。
古い記録を調べる。
老人たちに話を聞く。
何日も。
何日も。
すると一人の老婆が教えてくれた。
「昔ね」
老婆は暖炉の前で語った。
「大干ばつがあったそうだよ」
「干ばつ?」
「ええ」
「川も枯れた」
「畑も枯れた」
「人も死んだ」
静かな声だった。
「その時だけは不思議だったらしい」
「何がです?」
「塔の上だけ雨が降ったんだよ」
ルカは瞬きをした。
「塔だけ?」
「そう」
「だから人々は塔の水を分け合って生き延びた」
暖炉の火が揺れる。
「でも年月が経って」
「皆忘れた」
「助けられたことも」
「塔がそこにある理由も」
老婆は笑った。
「人間なんてそんなものだよ」
その夜。
ルカは再び塔へ登った。
雨が降っていた。
静かな雨。
冷たい雨。
器の水面に波紋が広がる。
ルカは考える。
塔は雨を集める。
だがそれだけではない。
長い年月。
誰にも気付かれなくなっても。
ずっとそこに立っている。
何かを蓄えるように。
何かを待つように。
まるで。
空から落ちてくる無数の雨粒を。
一つ残らず覚えているようだった。
翌週。
町の広場に人が集まった。
ルカが名前を与える日だった。
皆が塔を見上げる。
灰色の空。
小雨。
静かな午後。
「決まりましたか?」
町長が尋ねる。
ルカは頷いた。
そして少し考えてから言った。
「この塔の名は――」
人々が耳を傾ける。
「アルシア」
聞き慣れない響きだった。
「どういう意味です?」
誰かが尋ねる。
ルカは塔を見上げた。
「昔の古い言葉で」
「集めたものを失わない場所」
もちろん今では誰も使わない言葉だ。
記録の片隅に残っていた古語。
「雨を集め」
「人々の命を繋ぎ」
「その記憶さえ抱え続けている」
ルカは少し笑った。
「だからアルシアです」
静寂。
誰もすぐには喋らなかった。
だが不思議だった。
意味を聞けば納得できる。
けれど。
雨塔や命塔のように説明そのものではない。
塔だけが持つ名前。
昔からそう呼ばれていたかのような名前。
「アルシアか……」
老婆が呟く。
「いいねぇ」
町長も頷く。
「確かにそんな気がする」
子供たちが口にする。
「アルシア!」
「アルシアだ!」
その名は少しずつ町へ広がっていった。
翌日には市場で。
一週間後には酒場で。
一か月後には誰もが。
当然のようにその名前を口にしていた。
そして旅立ちの日。
ルカは町の外から振り返った。
雨の中。
アルシアは静かに立っている。
何百年も前からそうであったように。
何百年先もそうであるように。
空を見上げながら。
静かに雨を受け止め続けていた。




