名前屋 2
それから十年が過ぎた。
待花の名を与えた少年は、もう少年ではなかった。
春も。
夏も。
秋も。
冬も。
数え切れないほど繰り返された。
ルカは二十六歳になっていた。
長かった旅の中で背は伸び、顔立ちも大人になった。
外套は何度も繕われ、革靴には旅路の傷が刻まれている。
腰には短剣。
背には大きな鞄。
中には紙束や羽ペンや地図。
植物の標本。
古い記録。
名前屋としての道具が詰まっていた。
そして今。
彼は一人だった。
師匠は三年前に引退した。
「そろそろわしは本を読む側になりたい」
そう笑いながら故郷へ帰っていった。
それ以来。
ルカは一人で旅を続けている。
ある町で名前を失った老人に新しい真名を与えた。
ある村では名のない果実に名前を付けた。
ある山では新種の鳥を見つけた。
そして今日も。
彼は知らない土地を歩いていた。
風が吹く。
草原が波のように揺れる。
遠くには巨大な風車。
空には白い雲。
旅人たちが行き交う街道。
ルカは立ち止まった。
「……いい風だな」
独り言を呟く。
返事はない。
昔は師匠がいた。
今は一人だ。
それももう慣れた。
風の音を聞きながら再び歩き出そうとした時だった。
「失礼」
後ろから声がした。
振り返る。
一台の馬車が街道脇に止まっていた。
二十代ほどの女性が御者台から身を乗り出している。
「もしかして名前屋の方ですか?」
ルカは少し驚いた。
「そうですが」
「やっぱり」
女性はどこか安心したように笑った。
「町長が探していたんです」
「私を?」
「はい」
「この先のフレルという町なんですが」
「少し変わった依頼がありまして」
ルカは興味を持った。
変わった依頼。
名前屋を続けていると時々そういうものが来る。
新種の花。
誰も名を知らない鳥。
忘れられた古い道具。
ルカは町長の前に座っていた。
「つまり」
「はい」
「風に名前を付けてほしいと」
「その通りです」
町長は深く頷いた。
ルカは少し困った顔になった。
風。
名前屋は何にでも名前を付ける。
だが風は珍しい。
普通は地域の人間が勝手に呼び名を付ける。
わざわざ名前屋を呼ぶほどではない。
「理由を聞いても?」
すると町長は窓を見た。
風が吹く。
窓が鳴る。
「百年前から吹いている風なのです」
「百年?」
「ええ」
「毎年同じ季節になると現れます」
「それだけなら珍しくない」
「ですが」
町長の声が少し小さくなる。
「この風は迷った旅人を町へ連れてくるのです」
ルカは黙った。
「毎年」
「必ず」
「遭難しかけた旅人が助かる」
「吹雪の日でも」
「嵐の日でも」
「不思議とこの町へ辿り着く」
窓の外で風車が回る。
ギィ。
ギィ。
ギィ。
まるで昔話を語る老人のように。
「だから人々は感謝しています」
「でも名前がない」
「はい」
「ずっと名前がないままなのです」
ルカは考えた。
そして立ち上がる。
「見てきます」
夕方。
彼は丘の上にいた。
風が吹いている。
長い草が揺れる。
雲が流れる。
鳥が飛ぶ。
目を閉じる。
風を感じる。
冷たい。
だが優しい。
強い。
だが乱暴ではない。
まるで。
誰かが背中を押しているようだった。
「……」
ルカは昔を思い出した。
師匠。
初めての旅。
待花。
何も知らなかった頃。
あの頃も風が吹いていた。
人は旅をする。
迷う。
立ち止まる。
進めなくなる。
それでも。
誰かが背中を押してくれることがある。
家族。
友人。
恩人。
あるいは。
ただの風。
ルカは微笑んだ。
翌日。
町の広場に人々が集まっていた。
風車が回る。
青空が広がる。
ルカは風を見上げた。
そして言った。
「この風に与える名は――」
静寂。
人々が見守る。
「導風」
風が吹いた。
広場を駆け抜ける。
子供たちの髪が揺れる。
旗がはためく。
「迷う者を導く風」
「帰る場所を示す風」
「だから導風です」
人々は静かに聞いていた。
やがて拍手が起こる。
小さな拍手。
それが大きくなる。
歓声へ変わる。
町長は涙ぐんでいた。
「ようやく呼べる」
「百年待っていました」
ルカは笑った。
名前とは不思議なものだ。
昨日まで名前のなかった風。
今日からは導風。
何も変わらない。
同じ風だ。
だが人々の中で確かに存在するものになる。
それが名前だった。
その夜。
ルカは宿の窓から風車を眺めていた。
すると机の上に一通の手紙が置かれていることに気付く。
差出人は書かれていない。
封蝋だけが押されていた。
それは見たことのない紋章だった。
中央に描かれたのは。
一冊の本。
そして。
消されるように一本線が引かれた名前。
ルカの表情が変わる。
封を開く。
中には短い文章。
たった一行。
――「世界から消された名前を探しているか?」
ルカは固まった。
窓の外で導風が吹く。
夜空を雲が流れていく。




