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名前屋  作者: San


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2/7

名前屋 2

それから十年が過ぎた。


 


 待花の名を与えた少年は、もう少年ではなかった。


 


 春も。


 夏も。


 秋も。


 冬も。


 


 数え切れないほど繰り返された。


 


 ルカは二十六歳になっていた。


 


 長かった旅の中で背は伸び、顔立ちも大人になった。


 外套は何度も繕われ、革靴には旅路の傷が刻まれている。


 


 腰には短剣。


 


 背には大きな鞄。


 


 中には紙束や羽ペンや地図。


 植物の標本。


 古い記録。


 名前屋としての道具が詰まっていた。


 


 そして今。


 


 彼は一人だった。


 


 師匠は三年前に引退した。


 


「そろそろわしは本を読む側になりたい」


 


 そう笑いながら故郷へ帰っていった。


 


 それ以来。


 


 ルカは一人で旅を続けている。


 


 ある町で名前を失った老人に新しい真名を与えた。


 


 ある村では名のない果実に名前を付けた。


 


 ある山では新種の鳥を見つけた。


 


 そして今日も。


 


 彼は知らない土地を歩いていた。


 


風が吹く。


 


 草原が波のように揺れる。


 


 遠くには巨大な風車。


 


 空には白い雲。


 


 旅人たちが行き交う街道。


 


 ルカは立ち止まった。


 


「……いい風だな」


 


 独り言を呟く。


 


 返事はない。


 


 昔は師匠がいた。


 


 今は一人だ。


 


 それももう慣れた。


 


 風の音を聞きながら再び歩き出そうとした時だった。


 


「失礼」


 


 後ろから声がした。


 


 振り返る。


 


 一台の馬車が街道脇に止まっていた。


 


 二十代ほどの女性が御者台から身を乗り出している。


 


「もしかして名前屋の方ですか?」


 


 ルカは少し驚いた。


 


「そうですが」


 


「やっぱり」


 


 女性はどこか安心したように笑った。


 


「町長が探していたんです」


 


「私を?」


 


「はい」


 


「この先のフレルという町なんですが」


 


「少し変わった依頼がありまして」


 


 ルカは興味を持った。


 


 変わった依頼。


 


 名前屋を続けていると時々そういうものが来る。


 


 新種の花。


 


 誰も名を知らない鳥。


 


 忘れられた古い道具。



 


 ルカは町長の前に座っていた。


 


「つまり」


 


「はい」


 


「風に名前を付けてほしいと」


 


「その通りです」


 


 町長は深く頷いた。


 


 ルカは少し困った顔になった。


 


 風。


 


 名前屋は何にでも名前を付ける。


 


 だが風は珍しい。


 


 普通は地域の人間が勝手に呼び名を付ける。


 


 わざわざ名前屋を呼ぶほどではない。


 


「理由を聞いても?」


 


 すると町長は窓を見た。


 


 風が吹く。


 


 窓が鳴る。


 


「百年前から吹いている風なのです」


 


「百年?」


 


「ええ」


 


「毎年同じ季節になると現れます」


 


「それだけなら珍しくない」


 


「ですが」


 


 町長の声が少し小さくなる。


 


「この風は迷った旅人を町へ連れてくるのです」


 


 ルカは黙った。


 


「毎年」


 


「必ず」


 


「遭難しかけた旅人が助かる」


 


「吹雪の日でも」


 


「嵐の日でも」


 


「不思議とこの町へ辿り着く」


 


 窓の外で風車が回る。


 


 ギィ。


 


 ギィ。


 


 ギィ。


 


 まるで昔話を語る老人のように。


 


「だから人々は感謝しています」


 


「でも名前がない」


 


「はい」


 


「ずっと名前がないままなのです」


 


 ルカは考えた。


 


 そして立ち上がる。


 


「見てきます」


 


 夕方。


 


 彼は丘の上にいた。


 


 風が吹いている。


 


 長い草が揺れる。


 


 雲が流れる。


 


 鳥が飛ぶ。


 


 目を閉じる。


 


 風を感じる。


 


 冷たい。


 


 だが優しい。


 


 強い。


 


 だが乱暴ではない。


 


 まるで。


 


 誰かが背中を押しているようだった。


 


「……」


 


 ルカは昔を思い出した。


 


 師匠。


 


 初めての旅。


 


 待花。


 


 何も知らなかった頃。


 


 あの頃も風が吹いていた。


 


 人は旅をする。


 


 迷う。


 


 立ち止まる。


 


 進めなくなる。


 


 それでも。


 


 誰かが背中を押してくれることがある。


 


 家族。


 


 友人。


 


 恩人。


 


 あるいは。


 


 ただの風。


 


 ルカは微笑んだ。


 


 翌日。


 


 町の広場に人々が集まっていた。


 


 風車が回る。


 


 青空が広がる。


 


 ルカは風を見上げた。


 


 そして言った。


 


「この風に与える名は――」


 


 静寂。


 


 人々が見守る。


 


導風どうふう


 


 風が吹いた。


 


 広場を駆け抜ける。


 


 子供たちの髪が揺れる。


 


 旗がはためく。


 


「迷う者を導く風」


 


「帰る場所を示す風」


 


「だから導風です」


 


 人々は静かに聞いていた。


 


 やがて拍手が起こる。


 


 小さな拍手。


 


 それが大きくなる。


 


 歓声へ変わる。


 


 町長は涙ぐんでいた。


 


「ようやく呼べる」


 


「百年待っていました」


 


 ルカは笑った。


 


 名前とは不思議なものだ。


 


 昨日まで名前のなかった風。


 


 今日からは導風。


 


 何も変わらない。


 


 同じ風だ。


 


 だが人々の中で確かに存在するものになる。


 


 それが名前だった。


 


 その夜。


 


 ルカは宿の窓から風車を眺めていた。


 


 すると机の上に一通の手紙が置かれていることに気付く。


 


 差出人は書かれていない。


 


 封蝋だけが押されていた。


 


 それは見たことのない紋章だった。


 


 中央に描かれたのは。


 


 一冊の本。


 


 そして。


 


 消されるように一本線が引かれた名前。


 


 ルカの表情が変わる。


 


 封を開く。


 


 中には短い文章。


 


 たった一行。


 


 ――「世界から消された名前を探しているか?」


 


 ルカは固まった。


 


 窓の外で導風が吹く。


 


 夜空を雲が流れていく。

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