名前屋 1
朝靄がまだ草原の上に残っていた。
石畳の街道を、一台の荷馬車がゆっくりと進んでいる。
車輪が小さく軋む音。
馬の吐く白い息。
遠くには森が見え、その向こうには山々が連なっていた。
春の訪れを告げる鳥たちの声が聞こえる。
荷馬車の後ろに座る少年は、ぼんやりと景色を眺めていた。
年は十六ほど。
栗色の髪に、少し大きめの旅人用の外套。
膝の上には一冊の分厚い本が乗っている。
「眠いのか?」
御者台から声が飛んできた。
少年は顔を上げた。
「少しだけです」
「名前屋が居眠りしていては務まらんぞ」
そう言って笑ったのは老人だった。
白い髭。
深い皺。
長い旅を重ねてきた者だけが持つ穏やかな目。
名前屋。
それが老人の職業だった。
そして少年は、その弟子である。
名をルカという。
親から与えられた名前だ。
しかしまだ真名は持たない。
名前屋は他人に名を与える。
だが自分自身の真名は、自らの人生の終わり近くにならなければ与えられない。
それが古くからの決まりだった。
「次の村は?」
「もうすぐだ」
老人が前方を指差した。
丘の向こうに、小さな村が見えた。
煙突から煙が上がっている。
畑が広がっている。
どこにでもある田舎の村だった。
だが。
「依頼は花でしたよね」
「ああ」
老人は頷く。
「名のない花だ」
ルカは少し首を傾げた。
名前のない植物。
珍しい話ではない。
世界にはまだ人の知らない植物が数え切れないほど存在している。
名前屋はそれらを調べる。
観察する。
記録する。
そして。
最後に名前を与える。
それが仕事だった。
昼前。
二人は村へ到着した。
村長の家へ案内される。
家の前では数人の村人たちが待っていた。
「ようこそおいでくださいました」
村長が頭を下げる。
「依頼の花はどこですか?」
老人が尋ねる。
「こちらです」
村人たちは顔を見合わせた。
どこか困ったような表情。
そして村外れへ向かう。
十分ほど歩いた。
やがて。
「これです」
村長が足を止めた。
ルカは目を見開いた。
そこには一輪の花が咲いていた。
白い花。
ただし普通ではない。
花びらが透き通っている。
朝日に照らされるたび、まるで硝子細工のように光っていた。
「綺麗だ…」
思わず声が漏れる。
村人たちは頷いた。
「十年前から咲いているんです」
「増えないのですか?」
「はい」
「枯れない?」
「はい」
「季節は?」
「関係ありません」
老人とルカは顔を見合わせた。
珍しい。
かなり珍しい。
老人はしゃがみ込んだ。
土を調べる。
葉を見る。
茎を見る。
匂いを嗅ぐ。
何もかもを確かめていく。
ルカも隣で記録を取る。
数時間。
二人は黙々と調査を続けた。
やがて夕方になった。
村へ戻る途中。
ルカが口を開いた。
「先生」
「なんだ」
「あの花、悲しそうでした」
老人が足を止めた。
「ほう」
「理由は分かりません」
「続けろ」
「でも…なんだか待っている気がしました」
老人は少し驚いた顔をした。
ルカには昔から妙な才能があった。
人や物の雰囲気を感じ取る。
説明できない感覚。
だが不思議と当たる。
「待っているか」
老人は空を見上げた。
夕日が赤く染まっていた。
「面白いな」
その夜。
村で聞き込みを行うことになった。
すると意外な話が出てきた。
「昔な」
老人の村人が語る。
「花が咲いてる場所で一人の娘が亡くなったんだ」
ルカは顔を上げた。
「娘?」
「ああ」
「病気だった」
「花と関係が?」
「分からん」
老人は首を振る。
「だが娘は毎日そこへ通っていた」
「その花を?」
「いや」
村人は少し笑った。
「花はまだ無かった」
静寂。
「娘が亡くなった翌年に咲いたんだ」
ルカは言葉を失った。
翌朝。
二人は再び花の前に立っていた。
朝露が光っている。
風が吹く。
花びらが揺れる。
まるで誰かが手を振っているようだった。
老人が静かに言う。
「ルカ」
「はい」
「お前は何という名を付ける」
ルカは長く考えた。
花を見る。
空を見る。
風を感じる。
そして。
小さく口を開いた。
「待花」
「待花?」
「誰かを待ち続ける花です」
「……」
「十年経っても枯れない」
「一輪だけ」
「ずっと同じ場所にいる」
「だから」
ルカは花を見つめた。
「待花」
老人はしばらく黙った。
やがてゆっくりと頷く。
「良い名だ」
その瞬間。
風が吹いた。
花びらがきらきらと光る。
まるで喜んでいるように。
村人たちは息を呑んだ。
名前が与えられた。
名のない花は。
この日から。
待花となった。




