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名前屋  作者: San


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1/7

名前屋 1

朝靄がまだ草原の上に残っていた。


 石畳の街道を、一台の荷馬車がゆっくりと進んでいる。


 車輪が小さく軋む音。


 馬の吐く白い息。


 遠くには森が見え、その向こうには山々が連なっていた。


 春の訪れを告げる鳥たちの声が聞こえる。


 


 荷馬車の後ろに座る少年は、ぼんやりと景色を眺めていた。


 年は十六ほど。


 栗色の髪に、少し大きめの旅人用の外套。


 膝の上には一冊の分厚い本が乗っている。


 


「眠いのか?」


 


 御者台から声が飛んできた。


 


 少年は顔を上げた。


 


「少しだけです」


 


「名前屋が居眠りしていては務まらんぞ」


 


 そう言って笑ったのは老人だった。


 白い髭。


 深い皺。


 長い旅を重ねてきた者だけが持つ穏やかな目。


 


 名前屋。


 


 それが老人の職業だった。


 


 そして少年は、その弟子である。


 


 名をルカという。


 親から与えられた名前だ。


 


 しかしまだ真名は持たない。


 


 名前屋は他人に名を与える。


 だが自分自身の真名は、自らの人生の終わり近くにならなければ与えられない。


 


 それが古くからの決まりだった。


 


「次の村は?」


 


「もうすぐだ」


 


 老人が前方を指差した。


 


 丘の向こうに、小さな村が見えた。


 煙突から煙が上がっている。


 畑が広がっている。


 どこにでもある田舎の村だった。


 


 だが。


 


「依頼は花でしたよね」


 


「ああ」


 


 老人は頷く。


 


「名のない花だ」


 


 ルカは少し首を傾げた。


 


 名前のない植物。


 


 珍しい話ではない。


 


 世界にはまだ人の知らない植物が数え切れないほど存在している。


 


 名前屋はそれらを調べる。


 観察する。


 記録する。


 


 そして。


 


 最後に名前を与える。


 


 それが仕事だった。


 


 昼前。


 


 二人は村へ到着した。


 


 村長の家へ案内される。


 


 家の前では数人の村人たちが待っていた。


 


「ようこそおいでくださいました」


 


 村長が頭を下げる。


 


「依頼の花はどこですか?」


 


 老人が尋ねる。


 


「こちらです」


 


 村人たちは顔を見合わせた。


 


 どこか困ったような表情。


 


 そして村外れへ向かう。


 


 十分ほど歩いた。


 


 やがて。


 


「これです」


 


 村長が足を止めた。


 


 ルカは目を見開いた。


 


 そこには一輪の花が咲いていた。


 


 白い花。


 


 ただし普通ではない。


 


 花びらが透き通っている。


 


 朝日に照らされるたび、まるで硝子細工のように光っていた。


 


「綺麗だ…」


 


 思わず声が漏れる。


 


 村人たちは頷いた。


 


「十年前から咲いているんです」


 


「増えないのですか?」


 


「はい」


 


「枯れない?」


 


「はい」


 


「季節は?」


 


「関係ありません」


 


 老人とルカは顔を見合わせた。


 


 珍しい。


 


 かなり珍しい。


 


 老人はしゃがみ込んだ。


 


 土を調べる。


 


 葉を見る。


 


 茎を見る。


 


 匂いを嗅ぐ。


 


 何もかもを確かめていく。


 


 ルカも隣で記録を取る。


 


 数時間。


 


 二人は黙々と調査を続けた。


 


 やがて夕方になった。


 


 村へ戻る途中。


 


 ルカが口を開いた。


 


「先生」


 


「なんだ」


 


「あの花、悲しそうでした」


 


 老人が足を止めた。


 


「ほう」


 


「理由は分かりません」


 


「続けろ」


 


「でも…なんだか待っている気がしました」


 


 老人は少し驚いた顔をした。


 


 ルカには昔から妙な才能があった。


 


 人や物の雰囲気を感じ取る。


 


 説明できない感覚。


 


 だが不思議と当たる。


 


「待っているか」


 


 老人は空を見上げた。


 


 夕日が赤く染まっていた。


 


「面白いな」


 


 その夜。


 


 村で聞き込みを行うことになった。


 


 すると意外な話が出てきた。


 


「昔な」


 


 老人の村人が語る。


 


「花が咲いてる場所で一人の娘が亡くなったんだ」


 


 ルカは顔を上げた。


 


「娘?」


 


「ああ」


 


「病気だった」


 


「花と関係が?」


 


「分からん」


 


 老人は首を振る。


 


「だが娘は毎日そこへ通っていた」


 


「その花を?」


 


「いや」


 


 村人は少し笑った。


 


「花はまだ無かった」


 


 静寂。


 


「娘が亡くなった翌年に咲いたんだ」


 


 ルカは言葉を失った。


 


 翌朝。


 


 二人は再び花の前に立っていた。


 


 朝露が光っている。


 


 風が吹く。


 


 花びらが揺れる。


 


 まるで誰かが手を振っているようだった。


 


 老人が静かに言う。


 


「ルカ」


 


「はい」


 


「お前は何という名を付ける」


 


 ルカは長く考えた。


 


 花を見る。


 


 空を見る。


 


 風を感じる。


 


 そして。


 


 小さく口を開いた。


 


「待花」


 


「待花?」


 


「誰かを待ち続ける花です」


 


「……」


 


「十年経っても枯れない」


 


「一輪だけ」


 


「ずっと同じ場所にいる」


 


「だから」


 


 ルカは花を見つめた。


 


「待花」


 


 老人はしばらく黙った。


 


 やがてゆっくりと頷く。


 


「良い名だ」


 


 その瞬間。


 


 風が吹いた。


 


 花びらがきらきらと光る。


 


 まるで喜んでいるように。


 


 村人たちは息を呑んだ。


 


 名前が与えられた。


 


 名のない花は。


 


 この日から。


 


 待花となった。

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