◇17 - 呪われた杯
「こんな事、許されるはずがありません!」
アイシャは教区長の背中へ向かって叫んだ。
教区長はアイシャの言葉を無視して、廊下をひたすら歩いていく。
「ここに書かれている内容が嘘ではないと仰るのなら、きちんと説明していただきたい。私はこの様な不正に加担する気は有りません!」
片手に握りしめた朝刊を振りながら、アイシャは再度教区長へ向けて言葉を投げる。
「まあまあ、アイシャ君落ち着いて」
教区長の取り巻きである白装束の大神官たちが、そんなアイシャを鎮めながら間に割り込んだ。
「申し訳ありませんが、私は教区長様にお話がありますので!」
立ち塞がる大神官たちを除けて、アイシャは前に出る。
教区長が足を止めて振り向いた。
「私は君に話す事など何もないのだが? 一体何の権限があって、君は私に物を訊ねるのだ? 聖女と持て囃されていい気になっとるようだが、神官職である事を忘れるなよ」
「私の事を世間に聖女と呼ばせているのも、貴方の仕業でしょうに。
―――これまでは教会に身を置く一人として、プロパガンダに使われる事もやむなしと考えておりましたが、こればかりは許せません。やっていない事をやっただのと、嘘の発表を……これではまるで詐欺ではありませんか!」
アイシャの訴えに、教区長は小馬鹿にした様な笑みを浮かべた。
「詐欺では無いさ。実際、我が教区は先日聖杯の確保に成功した」
「ならば、発見した人たちの功績として記録するべきです。こんな物は公平じゃない!」
「うるさいガキだ。良いじゃないか、お前の手柄にしてやったのだから。
教会に属する者が立てた功績は、教会の功績。それをどの様な形態で発表しようと、教会の実績である以上、何もおかしな事はあるまい。
世間は、お前という成り上がりの英雄もどきが活躍する様を見たいんだ。
それを見せてやることで、教会の好印象にもつながっていく。それで一体誰が不満を言っている?
お前だけだろう?」
教区長の物言いに、アイシャは激怒した。
握りしめられた新聞が、音を立ててひしゃげる。
「貴方はそれでも、神に仕える人間か! そんな欺瞞を、エセナ様がお許しになるとお思いですか?」
「はははっ、青いな。神は何であろうとお許しになるさ。神はとうの昔に、人類を見放したのだからな」
そう言い残して、教区長は取り巻きに守られながらそそくさと去って行った。
その背中へ嫌悪の念を送りながら、アイシャは独り取り残された。
「―――まったく、あれだから無能な子供は嫌いだ。ギフトがほんの少し希少だっただけで、大衆の偶像にまでしてやったというのに、恩知らずめが。
聖女と呼ばれていい気になって、自分に発言力があるなどと思い上がっているんだろう」
教区長は忌々しいとばかりにアイシャを罵りながら、聖杯が安置された儀式の間へと向かっていた。
取り巻き達は迎合しながら同意の言葉を告げて、その後に続いていく。
リエム教区の中心地に建つ大聖堂の最上階、儀式の間。
彼らはそこでこれから、聖杯を使った結界展開の儀式を行う。
あらゆる邪悪を退く結界により、リエムの街は今後一切魔物に怯える事無く、永久的な平穏を得る事ができる。
教会内においては、これ以上に偉大な功績などというものは存在しない。
これで次期教区長の座も安泰だと、教区長サラザール・リビアは内心ほくそ笑んでいた。
しかしあくまでも外面は聖職者らしく威厳を装って、聖杯の前に立つ。
すでに取り巻き達の前では、アイシャとのやり取りで本音を漏らしているというのに、彼は体裁にこだわった。
「諸君、ついに私達は悲願である聖杯の入手に成功しました。この聖なる杯によってもたらされるエセナ神の威光によって、我らがリエム教区は十三番目の聖地として未来永劫、人類に安寧と繁栄をもたらす事でありましょう」
儀式の間の中心に据えられた聖杯の前で、サラザールは取り巻きの大神官たちに演説を始める。
その声を聴きながら、大神官たちは聖杯を取り囲むようにして円形に整列を始めた。
聖杯を囲む大神官たちの手には魔法用の長杖が握られており、サラザールの合図で全員が一斉にそれを掲げる。
「この栄光に浴する名誉を胸に、聖杯の開放を宣言します。では共に―――≪クリア・カース≫!」
サラザールが聖杯へ向けて、解呪の魔法をかける。
それに合わせて、大神官たちも一斉に聖杯へ解呪の魔法を放った。
邪を浄化する聖なる光が、幾重にも重なって眩いきらめきを放ち、聖杯を包み込む。
聖遺物は長い時間地下墳墓の瘴気に触れているため、使う前にこうして清めの儀式を行うのが習わしとなっている。
とは言え、聖遺物は魔を払う力だ。呪いに侵されて機能不全を起こす様な事も無いだろうと、サラザールは高を括る。
しかし、そんなサラザールの思い込みは唐突に裏切られた。
聖杯が突然、赤い光を放ち始めたのだ。
禍々しく揺れる赤光は、≪クリア・カース≫の光を呑み込んで膨張し、大神官たちの魔法をかき消した。
儀式の間全体を紅く照らすほどの輝きを纏った聖杯は、独りでに宙に浮かぶ。
その様子に全員が目を奪われた途端、大神官の一人が急に呻き始めた。
苦しそうに胸を押さえて床を転がりながら、彼は全身の穴という穴から血を垂れ流してもがき苦しみ、そして息絶えた。
「なっ、何が起こっている?」
何の前触れも無く、突然目の前で部下が死に、サラザールは狼狽える。
その間にもまた二人、同じ様に血を吐いて苦しみだす者が現れた。
明らかにこの聖杯によって、何かが起こっている。
それを悟って身の危険を感じた大神官たちは、一斉に一つしかない出入口へと殺到した。
「だっ、駄目だ開かない!」
「何やってんだ、早く逃げるんだよ!」
「やめてっ、押さないで、苦しい!」
大神官たちの怒号が部屋に響き渡る。
ひとり、また一人と唐突に死んでいき、その度に悲鳴が上がる。
厳粛な結界張りの儀式から一転、広間は地獄の様相を呈していた。
サラザールは禍々しく輝く聖杯の下で腰を抜かして、その様子を独り離れたところでどうする事も出来ずに見ていた。
「――――――」
何か妙な音が聞こえ、サラザールは視線を上げる。
途端、彼は悲鳴を呑み込んだ。
彼の目の前には、いつの間にか黒い人影が立っていた。
髪を足元まで伸ばした少女の様な形だが、何もかもが闇の様に黒い輪郭だけの存在だ。
そしてその胸には、赤く輝く聖杯が抱えられている。
「おっ、おおっ、お前は何だ?」
サラザールの問いかけに、人影は振り向いた。
「ヒッ―――」
眼も鼻腔も口も無い人影の姿に、サラザールは慄く。
『命ヲ捧ゲヨ』
無貌の人影は歪な声で、サラザールへ命じる。
実際には人影は何も発していないのだが、サラザールの胸の内に突然浮かんだその言葉を、彼は人影の言葉だと信じて疑わなかった。
「さっ、捧げる。ここに居る連中も、この街の連中も、好きなだけ持っていけ。だっ、だからっ、俺だけは見逃してくれ!」
サラザールは叫ぶ。あまりの恐ろしさに、思考が麻痺していた。
自分の命惜しさに、目の前のモノが何なのかも分からずにそれを宣言してしまう。
『契約ハ結バレタ』
人影はそう答え、再びサラザールに背を向けた。
人影の足元から影が伸びて、扉に群がる群衆の足元へと潜り込んだ。
途端、床を覆った黒い影から漆黒の棘が無数に飛び出し、大神官たちを一斉に串刺しにした。
悲鳴と絶叫の合唱がけたたましく上がり、儀式の間を彩る白亜の壁が夥しい量の体液に濡れる。
「はっ、ハハハッ――――ハハハハハハ」
何もかもが真っ赤に染まった景色を前に、サラザールは壊れた様に笑った。
死体の山を築いた人影は、何も語らず、動く事もせず、唐突に薄れて消滅する。
残された聖杯が床に落下し、重い金属音を響かせた。
自分の息遣いしか聞こえないような静寂の中で、それは残酷にサラザールの耳に届く。
悪臭が立ち込め、光も消えて暗くなった部屋の中で、唯一生き残ったサラザールは硬直していた。
怯えて震えながら、立ち上がる気力も出せずに、ただひたすら笑い続けていた。




