戻ってきた姿
シエナは、馬車に揺られながら、物憂げに蹲ったまま首だけ上げた竜のことを眺めていた。
(こんなに骨と皮ばかりになって。さっきの商人も言っていたけれど、ずっと餌を食べていないのね……)
竜の金色の瞳には、人間に対する不信感が表れているようだった。安易に手を伸ばして触ろうとしたら噛みつかれてしまいそうな、静かな怒気を滲ませている。
シエナはゆっくりと言った。
「あまり人里近くであなたを放してしまうと、また捕まってしまうかもしれないから、今は森に向かっているの。それまで、もう少しだけ辛抱してね」
竜が静かに目を瞬く。シエナは、竜の首についている首輪をじっくりと観察した。
(さて、この首輪を外すには、どうしたらいいのかしら?)
竜の首輪に刻まれた魔法の文言と宝珠をしばらく見比べてから、シエナが頷く。
「首輪の動力になっているのは、こっちの宝珠ね」
服従の首輪を無効化するには、宝珠を壊せばよいのだろうとシエナは見て取っていた。ふと馬車の窓の外に目をやると、鬱蒼とした緑深い森が近付いてくる様子が見える。
程なくして、馬車は森の入口にがたごとと停まった。シエナが馬車を降りると、小さな竜も馬車から滑り出て彼女の頭上に浮かぶ。
手に乗せた宝珠に、シエナはゆっくりと意識を集中させた。
(しっかり成功させないと)
彼女が宝珠に向かって魔法を唱えると、透き通った青色の宝珠には内側から亀裂が走り、パリンという高い音と共に砕け散った。
同時に、竜の首輪がぼろりと崩れ落ちる。
突然拘束から解かれた竜は、シエナの頭上を浮遊しながら、驚いたように小さく鳴いた。その声が、さっき聞いた悲鳴とはまるで違う、穏やかな声だったことに、シエナはほっと胸を撫で下ろす。
「あんなに手荒な真似をされて、つらかったでしょう。でも、もうあなたは自由の身よ」
今度は嬉しそうな声を上げた竜は、シエナの頭上で数回円を描くように飛んでから、森の奥に飛び去っていった。
自由に羽ばたく竜が次第に遠ざかっていく姿を見ながら、シエナまですっきりとした気持ちになっていた。同時に、自由を得た竜に対する仄かな憧れも感じる。
「元気でね……!」
もう遠く小さく見える竜の背中に向かって手を振ったシエナは、さっきよりも明るい顔で再び馬車へと乗り込んだ。
***
フレミング伯爵家に戻ったシエナを出迎えたのは、彼女の弟のユーグだった。
「姉さん、お帰りなさい」
「ただいま、ユーグ」
今年十八歳になったシエナに対して、ユーグは六歳年下の十二歳だ。彼はちょうど王立学校を卒業したところで、シエナと入れ違いに魔法学校に入学することになっていた。
シエナとそっくりの翡翠色の瞳と栗色の髪をしたユーグは、利発そうな大きな目を気遣わしげに細めた。
「さっき父さんに聞いたんだけど、姉さんの婚約者のクリストフ様が、僕の魔法学校の学費を出してくれるって言ったんだって?」
微かに表情を翳らせつつ、シエナが頷く。
「ええ、そうよ。だから、ユーグは何も心配しないで」
「僕なら、学費の支援なんていらないよ。だから、僕のために我慢してクリストフ様と結婚しようとか、思わないでね?」
「えっ?」
予想していなかったユーグの言葉に、シエナが戸惑ったように目を瞠る。
「僕、天才だから。心配しないで」
からりと笑って胸を張ったユーグが、自信たっぷりに続ける。
「僕が入試でトップの成績を取って、特待生として学費免除で魔法学校に入学すること、姉さんだって知っているでしょう?」
「ええ、もちろん。でも、入学後もその成績を維持するのは、きっと簡単ではないわよ?」
「大丈夫だよ。僕、クリストフ様にだって、魔法で負ける気がしないもの」
「……クリストフ様は、ユーグが思っているより強いわ」
シエナがユーグの言葉に苦笑する。確かに、ユーグの魔法の腕は飛び抜けていて、魔法学校を卒業したシエナだって、彼に敵うかと言えば自信がないほどだった。ユーグは天性の魔法のセンスに加えて、根っから魔法が大好きで、魔法オタクとも言えるほど各種の魔導書を熟読している。努力は好きに敵わないと、シエナは彼を見ていると実感させられる。
「でも、我慢してクリストフ様と結婚する必要はないなんて、どうして急にそんなことを?」
シエナが以前からクリストフと婚約していることは、ユーグも知っている。けれど、目の前にいる彼は、どこか怒っているように見えた。
「姉さん、クリストフ様に、魔術師団への入団を諦めろって言われたんでしょう?」
「それは……」
シエナが目を伏せると、彼は続けた。
「父さんも同調していたようだけど、姉さんは本当にいいの? あんなに魔術師団に入りたがってたじゃない」
「……実は、今日、お父様の承諾がなくても魔術師団への入団が可能かどうか、直接魔術師団まで行って聞いてきたの。でも、それはできないって言われたわ」
「できないって一度聞いたくらいで諦めるの? 絶対にやるって決めなきゃ、道を切り開く方法なんて見付からないよ」
ユーグの言葉に、シエナははっとした。
(確かに、ユーグの言う通りだわ)
彼の口調が熱を帯びる。
「クリストフ様は、侯爵家長男だし美形だし、魔法の腕も良くて、世間一般に言う優良物件だっていうのはわかるけどさ。姉さんは、そこら辺によくいる貴族令嬢とは違って、夫をステイタスや見栄で選ぶタイプじゃないでしょう? 姉さんのやりたいことや気持ちを尊重してくれる相手のほうが、きっと幸せになれると思うよ」
弟の分析があまりに的を射ていることに、シエナは新鮮な驚きを感じてくすりと笑った。
「ふふっ、随分大人びたことを言うのね。でも、ユーグの言う通りだわ」
「母さんだって、よく言っていたじゃない。『あなたの人生は、あなたのものだ』って」
「……そうだったわね」
シエナの脳裏に、懐かしい母の顔と共に、さっき解放した竜の姿がふと浮かぶ。自分らしい人生を自分の足で歩んでいきたいと思うと、急に視界が開けてくるような気がした。
「それに、姉さんの魔力量には、さすがの僕だって全然敵わないし。魔法学校入学時の魔力測定で、魔力測定器が振り切れて壊れたなんて、前代未聞だと思うよ?」
「そういえば、そんなこともあったわ」
入学時には大きな期待を寄せられただけに、その後は思うような成果が残せず、ほろ苦い思いをしたことが、シエナの胸に甦ってくる。
「その魔力量だって、きっと才能だと思うんだ。それをクリストフ様のためだけに使うなんて、もったいないんじゃないかな? もし、結果的に花開かなかったとしても、その才能を活かす機会に、せめて挑戦したいよね」
「ユーグの話を聞いていたら、何だか気持ちが前向きになってきたわ」
明るい顔でシエナが笑う。
「……あら?」
コツコツという不思議な音が部屋に響いて、シエナが辺りを見回す。いち早く音の出所を見付けたのはユーグだった。
「姉さん、窓の外に、何かいる……!!」
目を丸くする弟の視線を追ったシエナが見たのは、小さな竜の姿だった。




