シエナの思い
シエナは馬車を置いたまま、ぼんやりと大通りを歩いていた。すぐに家に帰っても、気分が塞いでしまいそうだったからだ。
(さっきの方、勢いよくぶつかってしまったというのに、優しい方だったわ)
魔術師団の制服を着ていない部外者の自分にも温かく接してくれたことが、青年の人柄を表しているようだった。失意の底にいたシエナの胸に、そんな彼の優しさが染みる。ちゃんと青年の顔を見た訳ではなかったけれど、彼が纏う雰囲気からは、魔術師団でも立場が上の人のようだった。
手にしていた白いハンカチを、改めて見つめる。
(ああいう方と、できることなら一緒に働いてみたかったわ)
シエナは音もなく溜息を吐くと、ハンカチを鞄にしまった。
大通りの両脇には店が立ち並び、並木の緑がさわさわと風に揺れている。いつも通りの平和な町の光景だったけれど、シエナには目に映る景色が色を失っているように感じた。
(魔術師団にも入れなくなってしまったし、私は、クリストフ様に嫁ぐしかないのかしら)
クリストフのことが大好きだった頃の気持ちを、シエナは思い出そうとした。それは、それほど昔のことではない。彼と初めて言葉を交わしたのも、今から一年半ほど前のことだ。
魔法学校でも人気者で、別世界の存在のように感じていた彼に婚約を申し込まれた時は、シエナは幸福の絶頂にいた。
魔力を分けると、自分に向けてくれた甘い笑み。尊敬する魔法の腕前に、回転の速い頭脳、そして柔らかな物腰。隣に並んでいるだけでも見惚れてしまうような、格好良い横顔。それらは今も変わらず、人を惹き付けてやまない彼の魅力だ。
けれど、と、シエナは思う。クリストフと一緒に過ごすようになってから、彼女の世界は少しずつ、でも確実に狭まっていった。
男子生徒と話しているとあからさまに嫌な顔をされるから、親しかった男友達は一気に減った。女子生徒にやっかまれても、自分の婚約者ならそれくらいは当然という顔で、クリストフには助けてもらえずに孤立したこともある。
彼に何か誘われると、他に約束があっても、彼の提案を優先しないと不機嫌になった。シエナの持ち物には彼を連想させる色合いのものが増え、予定も事細かに報告させられて、行動範囲は彼に把握されるのが常だった。
それでも、ざらりとするような違和感を呑み込んで、それはきっと大切にされている証拠なのだと、シエナは自分に言い聞かせてきた。
ただ、改めて冷静になって思い返してみると、シエナばかりが言いたいことを呑み込んで、我慢を続けてきたような気がする。
シエナが母を亡くした時も、悲しみに号泣するシエナをよそに、当時からしばしば結婚を口にしていたクリストフは、喪が明けるまで結婚できなくなることを憂いていたようだった。そんな彼に、シエナは何かが違うような気がしながらも、その思いを口に出すことはできなかった。
無意識のうちに、クリストフを上位とする序列の概念が植え付けられ、彼の言うことが絶対になっていたようだ。クリストフが本当に自分を愛してくれているのかすら、今もシエナにはわからなかった。
(やっぱり、もう、前のようには彼を好きになれないわ)
シエナが静かに溜息を吐く。一度萎れてしまった気持ちは、元に戻りそうにない。蜘蛛の巣に囚われて、もがけばもがくほど蜘蛛の糸が全身に絡まる昆虫になったような気分で、シエナは重い足取りで歩いていた。
シエナの父もあれほどクリストフを気に入っている以上、彼が承諾してくれない限り、婚約解消は現実的ではないように思える。そして、そのクリストフは、彼女と別れるつもりは欠片もないようだ。
(どうせ結婚するほかないのなら、今、下手に彼に逆らわないほうがいいのかしら……)
クリストフの機嫌を損なって、彼の表情が冷たくなると、シエナはいつも胃がしくしくと痛むような思いがする。ダンスパーティー後、初めて魔法で実力行使をされた時には、恐怖に身体が固まった。ただ、そこで彼に従えば、すぐに甘い笑みでシエナを包んでくれることも、経験上理解している。
クリストフとの結婚からの逃げ道が思い浮かばず、諦めの境地で歩き続けていたシエナは、いつしか細い路地に足を踏み入れていた。
その時、動物の叫び声にも似た、聞き覚えのない響きが彼女の耳に届いた。その声が聞こえてきた方向にシエナが目を向けると、首輪をつけた大小の動物らしきものを連れている商人の男性がいた。
(何かしら?)
シエナが周囲を見回す。細い路地とはいえ、大通りから入ってすぐの場所で、人通りがない訳ではない。
それほど危険がないと判断したシエナは、恐る恐る商人の側に近付いた。




