シエナの怒り
クリストフと少し距離を取りながら、シエナは裏庭へと移動した。ちょうど魔術師団の拠点の建物の陰になっており、しんと静かで人影はない。
クリストフが足を止めると、シエナは緊張を滲ませて尋ねた。
「……クリストフ様は、何をご存知だというのですか?」
どこか必死さの感じられるシエナの表情を眺めて、クリストフは口を開いた。
「エリオス様に竜公爵の二つ名があるのは、君もよく知っているだろう。彼の家は、代々竜と主従契約を結び、抜群の戦闘力を誇っている。使役可能な最高ランクの生き物と言われる竜を従えることで、彼の戦闘力は二倍にも、三倍にもなる」
黙ったままでいるシエナに、クリストフはひそりと小声で言った。
「これは特別に君にだけ教えるが――エリオス様の竜は、もう戦闘不能だ。瀕死の重傷を負って、いつ死んだって不思議じゃない」
「!!」
(クリストフ様はやっぱり、エリオス様の竜について知っているのだわ)
青い顔をしたシエナを見て、クリストフの唇が弧を描く。
「エリオス様の竜に死が迫っているなんて、君は想像すらしていなかっただろう? 竜公爵から竜を取ったら、いくら魔法の腕が優れていたって、ただの人だ」
(エリオス様は、彼の竜が死にかけていたことだって、最初から私に教えてくださったわ。クリストフ様は、あくまでエリオス様が私を利用しているとしか思っていないようね)
ずっとシエナが沈黙しているのをいいことに、クリストフは饒舌に続けた。
「エリオス様は、あまりに目立ち過ぎたのさ。他にも魔術師団には公爵家の面々がいるのに、あっさりと追い抜いて、若くして第五魔術師団長の座に就いた。出る杭は打たれるというが、出過ぎてしまったせいで、彼のことを面白く思わない公爵家の重鎮を敵に回した」
「……魔術師団は、実力主義の場所のはずです。エリオス様の魔法の腕が秀でていたから、竜と優れた戦果を挙げ、団長の座に就いた。何が間違っているというのですか?」
「そんなことを言ったって、仕方ないんだ。正しい、正しくないという問題じゃない。否応なしに水面下で動くのが政治だからね」
反発するシエナを窘めるように、クリストフは言った。
「結果として、エリオス様はとある公爵家の反感を買った。彼は今、しばらく竜を休ませているという建前をとっているが、このまま竜を失えば、彼は第五魔術師団長の座から引きずり降ろされるだろう。生涯一度きりの主従契約で従えた竜を亡くせば、それは彼の未来が閉ざされることを意味する。……君にもわかるだろう?」
一歩彼女に近付いたクリストフから逃れるように、シエナはじりと後退った。
「……その公爵家というのは?」
「残念だが、これ以上は極秘の情報だ。いくら君にだって話す訳にはいかない」
内心でがっかりしたシエナを、クリストフは鋭い瞳で見つめた。
「今君に話したことは、決して他言してはいけないよ? もし漏らせば、君にだって危害が及ばないとも限らない」
そう言うと、クリストフは指先でシエナの顎を持ち上げた。
「だから、あんな男との婚約なんて解消して、僕の元に戻っておいで。僕もそのうち、ランクの高い選りすぐりの魔物と主従契約を結ぶつもりだ。失脚することがわかっている男と婚約していたって、いいことなんて何もない」
「やめてください!」
すぐにクリストフの手を振り払ったシエナに、彼は言った。
「もうわかっただろう? 君は、竜を失いかけているエリオス様に、魔力をただ利用されているだけなんだ」
シエナは、クリストフの言葉に、なぜかざらりとするような引っ掛かりを覚えていた。それが何なのかと考えるうち、はたと気付く。
(エリオス様の竜が瀕死に陥ったことを、クリストフ様が知っているとしても。竜がまだ生きていることや、竜の命を維持するために魔力が必要になることまで、なぜわかるの?)
竜の状況にクリストフが妙に詳しいような気がして、シエナは背中に冷や汗が流れるのを感じた。竜が生きていることを確実に知っているのは、エリオスを除けば、今でも竜に魔法を掛けたままの術者しかいないように思われる。
(クリストフ様は術者と近い位置にいるか、術者を知っている? どうしたら口を割らせることができるのかしら……?)
良いアイデアが浮かばないまま口を噤んでいるシエナに、クリストフは優しい声で言った。
「僕と婚約解消してから、あんな短期間でエリオス様と婚約するなんて、おかしいと思っていたよ。確かに彼は公爵家の出だが、これから苦しい立場になる彼よりも、未来が明るい僕のほうが、絶対に君を幸せにできる」
クリストフは縋るように彼女を見つめた。
「頼むよ、シエナ。もちろん、君の魔力にはこれまで助けられていたが、それ以上に君が好きなんだ。君のいない人生なんて、僕には考えられない」
「お断りします」
にべのない返事をしたシエナに、彼は畳み掛けるように続けた。
「なぜだい? 急に出てきたあんな男なんかより、余程僕のほうが君のことを想って……」
「いい加減になさってください」
シエナはぎゅっと拳を握り締めた。
「エリオス様は、クリストフ様とは正反対です。いつも私の気持ちを慮って、尊重してくださるエリオス様のことを、私は心からお慕いしています。地位や権力がどうとか、そういう問題ではなく、エリオス様ご自身が素晴らしい方だから、お側にいたいのです」
目の前にあるクリストフの顔から、表情が抜け落ちたことに気付いたシエナだったけれど、構わずに続けた。
「クリストフ様は、ご自分の意見が絶対で、私の考えなんて認めようともしてくださらなかったではありませんか。貴方にエリオス様のことを悪く言われるなんて、我慢できません」
一息にそう言い切ったシエナを見て、クリストフは深い溜息を吐いた。つい先ほどまで浮かべていた優しい表情が嘘のように、冷え冷えとした顔でシエナを見つめる。
「もうちょっと物分かりがよかったら、君は最高なのに。……それでも、君を手放す気はないけどね」
クリストフが言葉を言い終わらないうちに、彼が魔法で作り出した氷の鎖がシエナの腕に絡みつく。
けれど、氷の鎖は不思議な輝きに包まれて、すぐに弾け飛んだ。シエナの左手薬指で指輪の宝珠が輝いたのを見て、クリストフが舌打ちをする。
「くそっ、防御魔法を込めた指輪か」
悔しげにシエナの婚約指輪を見つめたクリストフは、彼女の顔に視線を移した。俯いたままのシエナを見て、その口角が上がる。
これまでは、怯えたように固まったシエナがクリストフに歯向かうのをやめて、それで場は丸く収まっていた。
クリストフが、打って変わって猫なで声を出す。
「僕だって、シエナにこんな無理強いをするようなことはしたくないんだ。さっきの君の言葉は水に流すから。それに、あんな秘密を共有したのは、シエナを信じているからだよ? 君が首を縦に振ってくれさえすれば、それで……」
シエナは俯いたまま口を開いた。
「クリストフ様……私、決して貴方を許しません」
顔を上げたシエナの瞳は、燃えるような怒りを映していた。
氷の鎖が絡みついて、腕に彼の冷たい魔力を感じた時、シエナの中で、これまで胸に引っ掛かりを覚えていたことが、すべて一つに繋がったのだった。
――エリオスの竜に初めて魔力を注いだ時、なぜか睨まれたこと。
――竜の傷に見た魔法に込められた魔力に、どことなく違和感を覚えたこと。
――クリストフが、瀕死のエリオスの竜が生きていると知っていたこと。
(ようやくわかったわ)
魔力の個性を感じられるようになったシエナは、今感じたクリストフの冷たい魔力に覚えがあった。それは、エリオスの竜に掛けられていた、あの魔法に感じた魔力に他ならなかった。
そして、シエナが覚えた違和感の正体は、その魔力に、微かに自分の魔力が混ざっていたことを感じたからなのだと、今になって気付いたのだった。エリオスの竜が、はじめシエナに敵意を示したのも、注がれた魔力に、自らを傷付けたのと同じ力を感じたからだとすれば納得がいく。
(裏切り者は、クリストフ様だったんだわ。私が分けた魔力が、こんな酷いことに使われていたなんて……)
これまでは、クリストフを前にすると、まるで身体に染みついたように恐怖に足が竦んでいたシエナだったけれど、この時の彼女は、身体中の血が逆流するような激しい怒りを覚えていた。
シエナは、エリオスに習った身体強化魔法を唱えると、クリストフを真っ直ぐに見据えた。
「貴方の言いなりだった私は、もういませんので」
驚いた様子で、激怒するシエナを見つめたクリストフは、にやりと笑った。
「……へえ、そんな顔もできたんだね、君は。そういう表情もそそられるな、ゾクゾクするよ」
唇を舌で湿らせたクリストフが、手に魔法を纏わせる。
彼が魔法を放つ前に、シエナは左手首の宝珠に触れた。




