飴と鞭
シエナがクリストフに背を向けて、急いでパーティー会場に戻ろうとしていると、ぞっとするような、背筋の冷える感覚があった。
(これは……!?)
彼女の両手両足に、背後から氷の鎖が絡みついてくる。精緻なその魔法の扱いは、彼女がよく知っているものだった。
氷の鎖で縛られて動けなくなり、青い顔で振り返ったシエナに、クリストフが近付いてくる。
「クリストフ、様……? どうしてこんなことを……」
「君があんなことを言うからだよ」
「放してください!!」
逃げようともがけばもがくほど、氷の鎖はシエナの手足に食い込んでくる。悲鳴を上げれば誰かに気付いてもらえるかもしれないと思ったけれど、シエナが悲鳴を上げる前に、彼女の唇はクリストフの唇によって塞がれた。
「……!!」
驚きでシエナの身体から力が抜けると、ようやくクリストフは氷の鎖を解いて消滅させた。
足元をふらつかせたシエナを、クリストフが抱き留める。
「君にはずっと、僕の隣にいてほしいんだ」
呆然として言葉を失っているシエナを、彼は優しく抱き締めた。
「怖がらせてごめん。でも、僕は君を誰より大切に想っているんだ。君を手放すつもりはない。どうか考え直してほしい」
切なげな表情を浮かべる彼を、シエナは見知らぬ他人を眺めるような瞳で見つめた。クリストフという人が、わからなくなる。
(今、何が起きたの……?)
少し前の自分なら、彼の口付けに頬を染めて喜んだのかもしれないと、シエナはどこか他人事のように思った。
けれど、揺らぎ始めた気持ちは止められなかった。これ以上、彼の顔色を窺って過ごしたくはない。
クリストフの視線を避けたシエナの手足には、氷の鎖が食い込んだ痕が赤く残っていた。彼がシエナに向かって回復魔法を唱えると、柔らかな光が舞い、何事もなかったかのように赤い痕は消えた。
「ほら、これで元通りだ」
(何が元通りなのかしら)
手足の怪我が治っても、シエナの心は傷付き、すっかり冷え切っていた。目の前にいるクリストフに憧れていた日々が、遠く感じられる。飴と鞭のように、脅したかと思えば甘く宥めてコントロールしようとする彼のやり方は、思い返せば、彼と婚約して以降、程度の差こそあれ続いていたような気がする。
もしクリストフと結婚したなら、ずっと鳥籠の中にいるような、決して逆らえない生活が待っているのだろうと思うと、彼女の背筋は粟立った。
恐怖に足を竦ませ、青ざめて微かに震えるシエナの顎を指先で持ち上げると、彼は囁いた。
「シエナ、いい子だから、早く僕のものになって。そうしたら、君が望むものは何でも与えてあげるから」
やっとクリストフがシエナから手を離す。ふらふらと立ち上がったシエナは、口を噤んだままバルコニーを後にした。
そんな彼女の後ろ姿を、クリストフはずっと見つめていた。
***
ダンスパーティーの会場からは、卒業生たちがちらほらと帰り始めていた。シエナが会場の出口に向かって歩いていると、明るい声がかけられた。
「あら、シエナ?」
「リズ……!」
ほっとしたようにシエナの表情が和らぐ。リズは最終学年時のシエナのクラスメイトで、仲の良い友人の一人だった。
「クリストフ様は一緒じゃないの?」
「……ちょっと、気分が悪くて。先に帰ることにしたの」
青白いシエナの顔を見て、リズの眉尻が下がる。
「やだ、本当ね、顔色が悪いわ。よかったら、私の家の馬車に乗っていかない?」
「ありがとう、リズ。助かるわ」
リズと一緒に馬車に乗り込んで、シエナは全身の緊張が緩むのと同時に、どっと疲れが出たのを感じた。
そんなシエナの内心には気付かないままに、リズはシエナに笑いかけた。
「いいなあ、あんなに素敵な婚約者がいるなんて。愛されているシエナが羨ましいわ」
「そんなことはないわ」
間髪入れずに返したシエナを、リズが不思議そうに見つめる。
「いつも仲が良さそうなのに、珍しいわね。クリストフ様と喧嘩でもしたの?」
「そんなところかしら。……私、クリストフ様には婚約を解消していただこうと思っているの」
「ええっ!?」
リズが目を丸くする。
「あなたたちは結婚間近だと思っていたのに……! あんな好条件の揃った人、なかなかいないわよ。婚約解消なんて、気の迷いじゃない? そんなことをしたら、すぐに誰か他の令嬢に取られてしまうんじゃないかしら、大丈夫?」
心配そうなリズだったけれど、彼女の言葉に、シエナは逆に安堵していた。
(そうよね。クリストフ様は、さっきはあんなことを言っていらしたけれど、婚約さえ解消してしまえば、他の令嬢との縁談だって早々に来るでしょうし、そのうち私のことなんて忘れてしまうわ)
クリストフと魔力の相性が良いのは確かだし、彼の側にシエナがいれば、彼にとっては便利なのだろうと思う。けれど、魔力回復のための一般的なアイテムなら市販されているし、まったく金に苦労していない侯爵令息の彼なら、魔力の回復に苦労はしないはずだった。
(それよりも、魔術師団への入団がどうなっているか、帰ったらすぐにお父様に確認しないと)
クリストフが、もしシエナの父に入団を取りやめるように伝えていたとしても、父はそんな意見に首を縦には振らないはずだと、彼女は祈るような気持ちでいた。




