婚約解消の条件
団員たちの魔法の練習が始まってしばらく経ってから、練習試合が始まった。
若手団員が多いように見えるものの、さすがは魔術師団員による練習試合で、シエナから見るとレベルが高く、手に汗を握って眺めていた。一対一の真剣勝負で、本気で攻撃魔法をぶつけ合っているのを感じる。どうやら、攻撃魔法を中心とした実践的な練習らしい。
(あっ、クリストフ様だわ)
前の練習試合が終わり、クリストフが前に進み出てきた。余裕の滲む彼の顔を眺めて、シエナの喉がこくりと動く。
(クリストフ様は、同期入団の団員たちの中でも、一人だけ先に昇進が決まったのよね……)
これほど早い昇進は過去にもほとんど例を見ないようで、その噂は、シエナの在学中に魔法学校にまで伝わってきた。将来有望な婚約者を羨まれたシエナだったけれど、今は逆に、彼がなかなか放してくれないことがもどかしい。
クリストフの試合はすぐに始まった。
対戦相手が放った炎魔法を華麗に弾くと、クリストフは同じ炎魔法を、より激しい勢いで放った。後退った相手に、容赦なくさらに炎魔法を叩きこんでいく。
逃れようと慌てる相手に、クリストフは風魔法で炎を激しく舞い上がらせた。必死の表情を浮かべた相手が水魔法で防御をすれば、今度は氷魔法で作り出した鋭い刃を放ち、攻撃の手を緩めない。
一方的な練習試合を眺めて、シエナの額には冷や汗が流れる。
(やっぱり、クリストフ様の魔法は凄いわ……)
多様な魔法を軽々と扱うクリストフの姿を眺めながら、シエナの顔からは少しずつ血の気が引いていった。
ぼろぼろになった対戦相手が白旗を上げるまで、試合は続いた。クリストフが攻撃の手を緩めなかったせいで、相手には白旗を上げる余裕さえなかったのではないかと感じるほど、圧倒的な力の差を感じる勝利だった。
卒業式後のダンスパーティーの後、手足に絡みついてきた彼の氷魔法による鎖の感触を思い出し、思わずシエナがふるりと震える。
相手を執拗に追い詰めて、完膚なきまでに叩きのめす、容赦のないその試合ぶりに、シエナはクリストフから、暗に彼女に向けたメッセージを受け取ったような気がした。
――『僕には逆らえない』
ぞくりと背筋が冷えて、シエナは思わず両腕で自分の身体を抱き締めた。その後も、クリストフが別の相手と対戦する練習試合は何度かあったけれど、勝ち方はいずれも一緒だった。突出した力で相手をねじ伏せ、徹底的に倒す。その過程を、彼はどこか楽しんでいるようにも見えた。
勝ち続けるクリストフの姿からは、婚約者に良いところを見せたいとか、魔術師団の厳しさを感じてほしいとか、そういった類の印象を受けてもおかしくないはずだったのに、シエナにはなぜか、そうしたことは感じられなかった。
クリストフにとって最後の練習試合が終わると、彼は試合を眺めていたシエナを振り返って、にっこりと笑った。一見すると綺麗な笑みの裏側にある思惑を感じて、シエナの肩がびくんと跳ねる。
(私が、穿った見方をしているだけかもしれないけれど……)
これでもまだ、婚約解消なんて言い続けるつもりなのかと、彼は笑顔の裏で言っているようだった。
シエナの直感は、彼女の感覚は正しいと告げている。
身体の震えが抑えられなくなり、しばらくその場に立ち尽くしていた彼女の肩が、背後から叩かれた。
「お待たせ、シエナ」
聞き慣れた声に、シエナが青い顔をしたまま振り返る。
クリストフは爽やかな笑顔で額の汗を拭うと、彼女に言った。
「練習試合、どうだった?」
「……素晴らしい魔法の腕前でした、クリストフ様」
「ははっ、惚れ直した?」
悪戯っぽく笑った彼だったけれど、その青い瞳の奥は笑ってはいない。
「シエナの魔力を分けてもらってもいいかな? この後にも別の練習があるんだけど、さすがにちょっと疲れたよ」
シエナは硬い顔でクリストフを見つめた。
「貴重な練習風景を見せてくださったお礼に、今回はクリストフ様に魔力をお分けしますが。……これで最後にしていただけませんか?」
「どういうことだい?」
クリストフが表情に苛立ちを滲ませたのを見て、シエナが固まる。周囲の気温が、一気に数度下がったように感じた。
「魔術師団の厳しさは、さっきの練習で伝わらなかった? 君が僕との婚約解消を望んだのは、僕が君の入団に反対したせいかと思ったんだけど、違うかい?」
クリストフがシエナの顔を覗き込む。
「魔物討伐はもちろん、普段の練習だって、怪我をする可能性なんていくらでもある。可愛い君に、痛い思いなんてさせたくないんだ。そろそろわかってくれないかな?」
「……っ」
今となっては、魔術師団への入団を反対されたことだけでなく、クリストフその人に対して、シエナのすべてが拒否反応を示しているようだった。
竦んだ足を一歩引いて、シエナは答えた。
「私の気持ちは変わりません」
「こんなに君は強情だったかな……」
呆れたように肩を竦めたクリストフが、口元に微かな笑みを浮かべる。
「じゃあ、こういうのはどうだい? 君が僕と魔法の対決をして勝てたなら、この婚約は解消する。でも、僕が勝ったなら、予定通りに結婚する」
「そ、そんな! クリストフ様に、私が敵うはずありません……!」
目の前で彼の魔法の威力を見せつけられた直後だったシエナは、その提案に、さらに顔色を失っていた。
「まあ、慌てないで。もちろん、ハンデは付けるよ」
クリストフが笑みを深める。
「対戦といっても、僕は君に攻撃魔法は使わない。五分間の対戦で、君の攻撃魔法が一度でも僕に掠ったなら、君の勝ちだ」
はっとしてクリストフを見つめてから、シエナは口を噤んで俯いた。
さっき見たばかりの、クリストフの突出した魔法と、華麗な身のこなしが頭に浮かぶ。いくら彼が攻撃魔法を使わないといっても、勝ち目があるようには思えない。
(……でも、この機会を逃してしまえば、クリストフ様との婚約はきっと解消できないわ)
婚約は貴族家同士の約束だ。もし、侯爵家令息のクリストフが、婚約解消の慰謝料をフレミング伯爵家に請求したなら、払うことは厳しい状況だとシエナも理解している。
しばらく黙り込んでから、シエナは顔を上げてクリストフを見つめた。
「わかりました、お受けします」
「そうか」
クリストフの瞳が、ふっと鋭く細められる。
「対戦は十日後、結婚式の半月前だ。それでいいかい?」
(十日後……。あとほんの少ししか時間がないわ)
短い準備期間しかなかったけれど、結婚式よりも前に決着をつけなければならないと思うと、シエナは彼の提案に頷くほかなかった。
焦りを滲ませるシエナに向かって、クリストフが続ける。
「君との対戦を楽しみにしているよ」
余裕の笑みを浮かべるクリストフを、シエナは真っ直ぐに見つめ返した。
「……対戦までの十日間、私が何をしても文句は言わないでくださいね?」
「ああ、君のすることに口は出さない。だが、君が負けたら約束は守ってもらうよ? ……そして、妻となる君の魔力は、これまでと同じように僕に分けてもらう」
「はい。でも、もし私が勝ったなら、クリストフ様も婚約解消を認めてくださいね?」
「ああ。約束は守る」
クリストフは頷くと、一歩シエナに近付いた。
「じゃあ、君の魔力を分けてもらおうかな。これで最後になるかもしれないけど、ね」
(……絶対に、そんなことを思ってはいらっしゃらないでしょうに)
クリストフからは、間違いなく勝てるという確信が滲み出ている。シエナがクリストフに触れると、あっという間に彼は満足げな表情を浮かべた。
「やっぱり、君の魔力は素晴らしいね。……おや?」
シエナの左手首に嵌っている腕輪に気付いて、彼は続けた。
「へえ、魔物と主従契約を結んだのかい? ……まあ、ペットくらいはいたほうが、きっと君も退屈しないだろうしね」
クリストフは、もう結婚後の彼女のことを思い浮かべているようだった。シエナが悔しそうに口を引き結ぶ。
「では、私はこれで失礼します」
「ああ。じゃあ、また十日後に」
頭を下げたシエナが早足で立ち去っていくのを、クリストフは口元に笑みを湛えて見つめていた。
***
逃げるようにクリストフから遠ざかりながら、シエナは今になって不安に駆られていた。
(どうしよう。やっぱり無謀だったかしら……?)
そんな自分の重い気持ちを振り払うように、首を横に振る。
(でも、もう約束してしまったのだもの。やるしかないわ。……あっ)
ちょうど廊下の先にエリオスの姿が見えて、シエナの顔に安堵が滲む。今になって、クリストフの前では、緊張のあまり全身が固くなって、嫌な汗をかいていたことに気がついた。
「エリオス様!」
「シエナ嬢」
エリオスの穏やかな笑みを見て、シエナは嬉しそうに彼に駆け寄った。




