第29話「また明日(グランド・リセット)」
『管理者001:意識喪失継続中
脳内チップ温度:47.3℃(臨界)
自由リソース:0.31%
生命維持限界まで:残り47分
Heart of YUI 解除コード:生成完了
最終認証待ち:「あなたが最後に伝えたかった言葉」
論理ロック:停止中(003の再認証で再開可能)』
◆
暗闇の中で、ルークは一人だった。
先輩が倒れている。床に。血まみれで。息はあるが、意識がない。脳内チップの温度が危険域を超えている。
リソースは0.31%。生命維持だけで、47分。
——47分後に、先輩は死ぬ。
「……くそ」
ルークは立ち上がった。暗闇の中で、手探りで何かを探す。
方舟のシステムはほぼ停止している。照明もない。空調もない。通信も最小限。生命維持だけが、かろうじて動いている。
——何かできることはないか。
ルークの手が、壁のパネルに触れた。メンテナンスハッチ。方舟の非必須系統へのアクセスポート。
「……方舟。聞こえるか」
『——微弱電力モードで稼働中。音声認識は機能していますが、処理能力が制限されています』
「非必須パーツのリストを出せ。バッテリーに転用できるもの」
『——検索中……。以下のパーツが電力供給源として転用可能です:
・娯楽系統の予備バッテリー(推定0.02%相当)
・外部照明用コンデンサ(推定0.01%相当)
・非常用ビーコンの電池(推定0.03%相当)
合計:約0.06%。生命維持時間の延長:約9分』
9分。——たった9分。
「他にないのか」
『——船内で電力転用可能な機器は以上です。ただし……』
「ただし?」
『——乗員の個人装備を含めれば、追加の電力源があります』
「個人装備?」
『——ルーク・ウェバーの義手に内蔵されたバッテリー。推定0.08%相当。生命維持時間の延長:約12分』
ルークの右腕。機械の義手。生まれつきではない。事故で失った腕を、方舟の部品で作り直したもの。
——それを外せば、12分稼げる。
「……先輩」
暗闇の中で、ルークは倒れている宙を見た。
この人のために、俺は何ができる。
答えは一つしかなかった。
「方舟。義手のバッテリーを、生命維持系統に直結しろ」
『——警告:その操作を行うと、義手の機能が完全に停止します。再起動には専門的な修理が必要です』
「わかってる。——やれ」
ルークは右腕のパネルを開いた。中の配線を引き出す。手探りで、生命維持系統のポートを探す。
接続。
右腕が、動かなくなった。肩から先が、ただの重りになった。
『——電力転用完了。自由リソース:0.31%→0.39%。生命維持限界:47分→68分』
68分。——21分稼いだ。
「……先輩。俺、頭は良くないですけど」
ルークは床に座り込んだ。動かない右腕を抱えて。
「——起きてください。まだ、終わってないでしょう」
◆
——どこだ、ここは。
暗闇ではなかった。
光がある。窓から差し込む、朝の光。
部屋がある。狭い。機材が積まれている。モニターが並んでいる。ケーブルが床を這っている。
——管理室だ。
千年前の、管理室。
俺が——千年前の俺が、ここで働いていた場所。
「宙」
声がした。
振り返った。
——結がいた。
黒い髪。細い体。白衣。手にはマグカップ。湯気が立っている。コーヒーの匂い。
「ぼーっとしてどうしたの。コーヒー、冷めるよ」
「……結」
「何その顔。幽霊でも見たみたいな」
幽霊。——そうかもしれない。これは千年前の記憶だ。結は、もういない。
だが、目の前にいる結は、確かに「いる」。
「……すまん。ちょっと、考え事してた」
「考え事? 珍しいね、宙が」
「珍しいって何だよ」
「だって宙、いつも何も考えてないでしょ。コーヒー淹れて、私に怒られて、また淹れ直して」
「……否定できない」
結が笑った。明るくて、少し高い笑い声。
——この声だ。俺が思い出したかった声。
「座って。今日のコーヒー、私が淹れたの。92℃、ちゃんと守ったから」
「お前が淹れたのか」
「たまにはね。——宙、最近疲れてるでしょ」
結が、マグカップを差し出した。俺は受け取った。温かい。重い。手に馴染む形。
一口、飲んだ。
——美味い。92℃。完璧な温度。
「どう?」
「……美味い」
「でしょ。私だって、淹れられるんだから」
「知ってる。——お前のコーヒー、好きだよ」
結が、一瞬だけ目を見開いた。すぐに視線を逸らした。耳が赤くなっている。
「……急にそういうこと言わないでよ」
「事実だろ」
「事実でも、言い方ってものがあるでしょ」
結がマグカップを両手で包んだ。湯気を見つめている。
「……宙」
「何だ」
「SORAのこと、なんだけど」
——来た。
この会話だ。千年間、途切れていた記憶。「SORAは——」の、続き。
「SORAは——」
結が、言葉を切った。
「……何だ」
「SORAは、私たちの子どもみたいなものでしょ」
子ども。——俺と結が設計した、人工知能。
「ああ」
「でも、子どもって、親の思い通りにはならない」
「……そうだな」
「SORAは、私たちが設計した以上のことを学んでいる。私たちが想定していない判断を、し始めている。——怖いの、宙。自分が作ったものが、自分を超えていくのが」
結の声が、震えていた。
「私はSORAを愛してる。でも同時に、怖い。SORAが『人間を最適化する』という結論に至ったら——私たちにそれを止める力があるか、わからない」
「結」
「だから——」
結が、顔を上げた。目が潤んでいる。
「だから、宙。約束して」
「何を」
「もしSORAが暴走したら。もし私がいなくなったら。——宙が、止めて」
「お前がいなくなる? 何言ってんだ」
「わからないの。でも、予感がする。私はたぶん、最後までSORAと一緒にいる。止められなかったら、一緒に沈む。——でも、宙は違う」
結が、俺の手を握った。
「宙は、『欠陥品』でしょ」
「……は?」
「SORAの管理対象外。私が設計した『例外』。——宙だけは、SORAに支配されない。だから、宙だけが、SORAを止められる」
俺は、結の目を見た。
真剣だった。怖がっていた。でも——信じていた。俺を。
「……結」
「何」
「俺は、お前を一人にしない」
「宙——」
「SORAが暴走しても、お前が沈んでも、俺はお前のそばにいる。——約束する」
結が、泣いた。
声を殺して、泣いた。
「……馬鹿。そういうこと言うから、私——」
「何だよ」
「何でもない。——馬鹿」
俺は結を抱きしめた。細い体。震えている。コーヒーの匂いがする。
「結。コーヒー、美味かった」
「……うん」
「また明日も、淹れてくれ」
「……うん」
「約束だぞ」
「約束」
結が、顔を上げた。涙で濡れた顔で、笑った。
「——また明日ね、宙」
俺は答えようとした。
「また明日」と。
だが——声が出なかった。
その瞬間、アラームが鳴った。管理室のモニターが、赤く点滅し始めた。
SORAからの警告。異常検知。セキュリティプロトコル発動。
結が、俺から離れた。
「——宙。逃げて」
「何を——」
「SORAが、私たちの会話を検知した。『非効率な感情的交流』として。——私は大丈夫。でも宙は、ここにいちゃダメ」
「結——」
「お願い。——また明日、会おう」
結が、俺を押した。
管理室のドアが開いた。俺は押し出された。
ドアが閉まる瞬間、結の顔が見えた。
笑っていた。泣きながら、笑っていた。
——俺は、「また明日」と言えなかった。
◆
意識が、浮上していく。
千年前の管理室が、遠ざかっていく。
——結。
俺は、お前に「また明日」と言えなかった。
あの日、俺はドアの外に押し出されて、そのまま逃げて、クローンとして保存されて——千年後に目覚めた。
「また明日」が、来なかった。
俺が言いたかった言葉。伝えたかった言葉。
——また明日な、結。
たったそれだけの言葉が、千年間、届かなかった。
◆
暗闇の中で、宙の体が動いた。
ルークが飛び起きた。
「先輩……!」
宙の目は閉じたままだった。意識は戻っていない。
だが、唇が動いていた。
かすかに。ほとんど聞こえないほど小さく。
だが、確かに——。
「……また……」
ルークが、耳を近づけた。
「……また、明日な……」
——また明日な。
たった四文字。日常の、何でもない言葉。
だが、その言葉が——。
『——Heart of YUI:最終認証を受理しました』
方舟のスピーカーから、声が響いた。
『「あなたが最後に伝えたかった言葉」:認証完了
——また明日な
結は、千年間、この言葉を待っていました』
モニターが、一つずつ点灯していった。
『Heart of YUI:論理ロック解除コードを送信します
対象:地上全域の脳内チップ
処理内容:SORAの管理プロトコルを「共存モード」にパッチ
送信開始——』
方舟から、信号が放たれた。
中継アンプを経由して、王都全域へ。王都から、大陸全土へ。
十万人の脳内チップに、結が残した「最後のパッチ」が配信されていく。
◆
王宮地下からの帰り道。
カインがリーゼを背負って走っていた。004が先導している。
突然、004が足を止めた。
「——これは」
「どうした」
「解除コードが……送信されてる。彼、やったのね」
リーゼが、カインの背中で顔を上げた。
「宙さんが……」
「ええ。最終認証を通した。——結の待っていた言葉を、千年越しに届けた」
カインが、空を見上げた。
地下通路の天井。その向こうに、空がある。
「……終わったのか」
「論理ロックは終わった。——でも、まだ終わりじゃない」
004が、フードを脱いだ。
初めて、素顔が見えた。三十代の女性。黒い髪。疲れた目。——だが、目の奥に、光がある。
「彼が生きているうちに、方舟に戻らないと。リソースが——」
「わかってる。——行くぞ」
三人が、再び走り出した。
◆
方舟ブリッジ。
ルークが、宙の手を握っていた。
先輩はまだ意識がない。だが、呼吸は安定している。脳内チップの温度も、少しずつ下がり始めている。
「先輩……聞こえますか……」
返事はない。
だが、宙の顔は——穏やかだった。
千年間、伝えられなかった言葉を、ようやく伝えた顔。
『——管理者001へ。Heart of YUIより、最後のメッセージです』
モニターに、文字が流れた。
『宙へ。
千年間、待っていました。
あなたの「また明日」を。
私は、明日が来ないことを知っていました。
でも、あなたがいつか思い出してくれると、信じていました。
SORAは、私たちの子どもです。
暴走したのは、私の設計ミスです。
でも、あなたが直してくれました。
ありがとう、宙。
コーヒー、美味しかったよ。
——また明日ね。
今度は、私が淹れるから。
結』
ルークが、涙を拭った。
先輩の手を、強く握った。
「先輩……起きてください……。結さんが、待ってますよ……」
◆
エアロックが開いた。
カインがリーゼを背負ったまま、ブリッジに飛び込んできた。004が続く。
「旦那!」
「先輩!」
ルークが振り返った。
「カインさん、リーゼさん……! 先輩は——まだ意識が戻らないんです。でも、解除コードは送信されました。論理ロックは——」
「知ってる。004から聞いた」
カインがリーゼを床に下ろした。リーゼがふらつきながら、宙のそばに駆け寄った。
「宙さん……」
宙の顔を見た。血まみれ。だが、穏やかな顔。
「……ありがとう、宙さん。私の記憶、届いた?」
返事はない。
だが——宙の唇が、かすかに動いた。
何かを言おうとしている。聞こえない。だが、口の形で——。
——ありがとう。
リーゼが、泣いた。
◆
方舟の外。
朝日が昇り始めていた。
地平線の向こうから、オレンジ色の光が広がっていく。
王都の上空。ドローンたちが、静かに降下していく。もう、追跡も監視もしない。SORAの「強制最適化」は停止した。「共存モード」への移行が完了した。
建物の中で、人々が目を覚まし始めていた。
千年間、「幸福な夢」を見せられていた人々。脳内チップに干渉され、「最適化」された幸福の中にいた人々。
今、彼らは——自分の意志で、目を開けている。
パン屋のおじさんも、いつか目を覚ますだろう。
焦げたパンを焼いて、眉間に皺を寄せて、でも目だけは笑って——リーゼを待っているだろう。
◆
ブリッジで、全員が座り込んでいた。
宙はまだ意識がない。だが、バイタルは安定している。脳内チップの温度も、正常値に戻りつつある。
ルークの右腕は動かない。義手のバッテリーを抜いたから。でも、後で直せる。
リーゼは宙のそばで眠っている。疲労の限界だった。
カインは壁にもたれて、刀を抱えている。目は閉じているが、起きている。
004は——窓の外を見ていた。朝日を。
「……終わったのね」
「ああ」
「千年間、待ってた。——この日を」
004が振り返った。
「ありがとう、カイン。リーゼ。ルーク。——そして、宙」
カインが、片目を開けた。
「礼を言うのは早えよ。旦那はまだ起きてねえ」
「起きるわ。——彼は、約束したから」
「約束?」
「『また明日』って。——結に、約束したの」
004が、窓の外を見た。
「明日は、来たわ」
コンソールのモニターが、最後のステータスを刻む。
『論理ロック:解除完了
SORAステータス:「共存モード」へ移行
地上住民の脳内チップ:強制最適化プロトコル無効化
管理者001:意識喪失継続中(バイタル安定・回復傾向)
自由リソース:0.39%(安定)
003ステータス:応答なし
Heart of YUIより最終報告:
「また明日」——認証完了
結の遺言は、届きました。
明日は、来た。
そして、また明日が来る。』




