第30話「ハロー・ワールド(あるいは最悪の目覚め)」
『方舟ステータス:
自由リソース:0.37%(微減・安定)
推進系:オフライン
武装系:オフライン
生命維持:最低限モード
管理者001:生体反応安定
脳内チップ温度:36.8℃(正常)
経過時間:論理ロック解除から12時間14分
現在時刻:Day 8 / 14:22(地上標準時)』
最初に感じたのは、口の中の不快感だった。
砂を噛んだような。乾いた血の味。舌が上顎に貼り付いている。
次に、光。瞼の裏が赤い。朝日じゃない。昼の光だ。
目を開けた。
方舟のブリッジ。天井の非常灯だけが点いている。メインモニターは消えている。空調の音がしない。静かだ。静かすぎる。
「——先輩」
ルークの声。近い。すぐそばにいる。
「……ルーク」
声が掠れた。喉が渇いている。
「先輩、起きた……! みんな、先輩が起きた……!」
足音。複数。
視界がぼやけている。焦点が合わない。だが、人影は見える。三つ。四つ。
「旦那。生きてたか」
カインの声。
「宙さん……!」
リーゼの声。
「……12時間よ。長かったわ」
004の声。
12時間。——俺は12時間、意識を失っていたのか。
体を起こそうとした。腕に力が入らない。背中に手が添えられた。リーゼの手だ。支えられて、なんとか上半身を起こした。
「水……」
「はい」
リーゼが水筒を差し出した。受け取って、口をつけた。ぬるい。だが、喉を通る感覚が心地いい。
視界が少しずつクリアになっていく。
ブリッジの中を見回した。
ルークが隣にいる。右腕が——動いていない。肩からだらりと垂れ下がっている。バッテリーを抜いたままだ。
「ルーク。お前の腕——」
「大丈夫です。先輩が起きてくれたなら、安いもんです」
「直せないのか」
「パーツが足りなくて。方舟の予備部品も、もうほとんど……」
ルークが言葉を濁した。
リソース0.37%。方舟は瀕死だ。予備部品を動かす余裕すらない。
「……すまん」
「謝らないでください。俺が決めたことですから」
ルークが笑った。片腕が動かないのに、笑っている。
——こいつ、本当に成長したな。
テーブルの上に目が行った。
コーヒーメーカー。そして、サーバーに残ったコーヒー。
——冷めている。完全に。
「……あれ、飲めるか」
「え?」
「コーヒー」
リーゼが困った顔をした。
「もう冷めてますよ。淹れてから12時間以上……」
「いい。飲む」
立ち上がろうとした。足がふらついた。カインが肩を貸した。
「無理すんな、旦那」
「無理しないと、始まらない」
テーブルまで歩いた。サーバーを手に取った。中の液体は、もう黒い水にしか見えない。
マグカップに注いだ。
一口、飲んだ。
——不味い。
酸化している。苦味が変質して、えぐみに変わっている。香りは完全に飛んでいる。92℃で淹れたはずのコーヒーが、室温まで冷えて、ただの苦い水になっている。
だが——飲み込んだ。
これが、俺たちが勝ち取った「自由」の味だ。
「先輩……?」
「ハロー・ワールド」
「え?」
「プログラムを書いたら、最初に出力するメッセージだ。『こんにちは、世界』。——俺たちは昨日、世界を再起動した。これがその最初の一杯だ」
マグカップを置いた。
「不味いな。——だが、出力されたメッセージが『エラー:リソース不足』じゃなかっただけマシだ」
カインが鼻を鳴らした。
「相変わらず、何言ってるかわかんねえな」
「わからなくていい。——で、外はどうなってる」
◆
004が報告を始めた。
「王都の住民、約10万人が目を覚ました。論理ロック解除から12時間。最初の数時間は、みんな呆然としてたわ。千年間『幸福な夢』を見せられてたから、現実に戻るのに時間がかかった」
「今は」
「パニックの一歩手前。——いえ、もう始まってるかもしれない」
「食料か」
「ええ。SORAの管理下では、栄養は自動供給システムで管理されてた。脳内チップが代謝を最低限に抑えて、体に埋め込まれた栄養ラインで点滴みたいに維持してたの。——今、10万人が同時に『空腹』を感じてる」
10万人分の空腹。
千年間、「食べる」という行為を忘れていた人間が、突然腹を空かせている。
「備蓄は」
「ほとんどない。SORAは『非効率』なものを全て最適化した。農地は縮小され、倉庫は解体され、調理器具はリサイクルされた。——この世界には、もう『食べ物を作る仕組み』がほとんど残ってないの」
「……最悪だな」
「最悪よ。夢から覚めたら、飢えが待ってた。——これが『自由』の代償」
リーゼが俯いた。
「パン屋のおじさんは……」
「目を覚ましたわ。でも——」
004が言葉を切った。
「でも?」
「店に戻ったら、小麦粉はカビてて、窯は錆びてた。千年間、誰も使ってなかったから。——彼、泣いてたわよ。再会を喜ぶ前に、自分の店が死んでることに気づいて」
リーゼの目から、涙がこぼれた。
「……おじさん……」
「嬢ちゃん。泣いてる暇はねえぞ」
カインが、厳しい声で言った。
「おじさんが泣いてるなら、俺たちがやることは一つだ。——小麦粉を探す。窯を直す。パンを焼けるようにする。それが『本物』を取り戻すってことだろ」
リーゼが顔を上げた。涙を拭った。
「……うん。そうだね」
「旦那。方舟は動けるのか」
「無理だ。リソースが足りない。推進系を動かしたら、生命維持が落ちる」
「じゃあ、ここがベースキャンプだな。俺が外に出て、食料を調達する。狩りでも何でもやる」
「カイン。一人で大丈夫なのか」
「舐めんな。傭兵ってのは、戦場で自分の飯を確保できなきゃ死ぬんだよ。——004、この辺りで狩れる獲物はいるか」
「森に野生化した家畜がいるはず。SORAの管理から外れて、千年間繁殖してた」
「よし。行ってくる。——旦那、嬢ちゃんを頼む」
カインが刀を担いで、エアロックに向かった。
リーゼがカインの背中を見送った。
「……カインさん、変わらないね」
「ああ。あいつは最初から、『本物』を知ってる男だ」
◆
004が、データパッドを操作していた。
「宙。一つ、報告がある」
「何だ」
「3本目のトンネル。——結が掘った、最後のトンネルの行き先がわかったわ」
3本目。004が「まだ教えない」と言っていた、最後のトンネル。
「どこに繋がってる」
「王都の地下深く。旧市街のさらに下。——『旧・行政区』よ」
「行政区?」
「千年前、この都市を管理していた役所があった場所。戸籍、土地台帳、権利証書……すべての『記録』が保管されてた。SORAが支配する前の、人間が人間を管理していた時代の記録」
「それが残ってるのか」
「わからない。でも、結はそこにトンネルを繋いだ。——理由があるはずよ」
結が残した最後の仕掛け。
コーヒーメーカー、地下格納庫、そして——行政区への道。
「行く必要があるな」
「ええ。でも、今すぐは無理。あなたの体が回復してから——」
その時。
方舟の外部センサーが、警告音を発した。
『接近者を検出。人型。単独。武装なし。——方舟のハッチ前で停止』
「……誰だ」
モニターが点灯した。外部カメラの映像。
一人の老人が立っていた。
白髪。痩せた体。杖をついている。服はボロボロで、顔には疲労が刻まれている。
老人は、方舟のハッチを見上げていた。何かを探すように。何かを求めるように。
「004。この人は」
「知らないわ。でも——」
老人が、声を上げた。
外部マイクが、その声を拾った。
「——管理者様! 管理者様はおられますか!」
管理者。——俺のことか。
「噂が広まったのね。『論理ロックを止めた管理者がいる』って。あなたが昨日やったことは、10万人全員の脳内チップに記録されてる。——『管理者001が世界を救った』って」
「救った、か。——救ったのは俺だけじゃない」
立ち上がった。
まだ足がふらつく。だが、立てる。歩ける。
「旦那。出るのか」
「ああ。——あの人が何を求めてるか、聞く」
エアロックに向かった。
ハッチを開けた。
外の光が眩しい。昼過ぎの太陽。乾いた風。草原の匂い。——そして、目の前に立つ老人。
老人が、俺を見た。
目が合った。
老人の目が、俺を捉えて離さない。——あの目は知っている。バグレポートを出す時の目だ。「頼むから直してくれ」という目。
「あんたが……『管理者』かい」
「ああ。俺が倉橋宙だ」
「夢から覚めたら、噂が流れてきたんだ。『管理者がいる』『名前を取り戻してくれる』って。——本当かい」
「名前を取り戻す?」
「わしは……わしは、自分の名前がわからんのだ」
老人が、震える手で何かを差し出した。
小さな板。プラスチックのような素材。表面が白く変色している。ナノマシンに侵食されかけている。
——身分証だ。千年前の。
「これが、わしの身分証だったはずなんだ。でも、文字が消えてる。名前も、生年月日も、住所も……全部、白くなっちまった」
SORAの最適化。「非効率な個人情報」を消去した結果。
千年間の夢から覚めたら、自分が誰だったかもわからない。
「わしだけじゃない。みんな、同じなんだ。目が覚めたら、自分の名前がわからない。家族が誰だったかもわからない。——わしらは、自分が『誰』だったのか、知りたいんだ」
老人の目から、涙がこぼれた。
「頼む、管理者様。わしらに……わしらに『名前』を返してくれ」
俺は、老人の手にある身分証を見つめた。
白く侵食された表面。消えかけた文字。千年前の記録。
——これが、目覚めてからの最初の「依頼」か。
その時、俺の脳内チップに、見慣れないプロンプトが浮かんだ。
——何だ、これは。論理ロック解除と同時に、Heart of YUIがアンロックしたのか?
『管理者特権:世界再構築プロトコル
コマンド一覧:
- Identify(同定):メタデータの特定
- Restore(復元):物理的再構成
- Register(登録):新規ID付与
使用可能リソース:制限あり
推奨手順:旧・行政区の記録との照合』
結。お前、こんなものまで仕込んでたのか。
戦うための武器じゃない。——人々の「存在」を取り戻すための、手続きのシステム。
「……わかった」
俺は、老人の身分証を受け取った。
「名前を取り戻す。——ただし、すぐには無理だ。記録を調べる必要がある。3本目のトンネルを通って、旧・行政区に行く」
「本当かい……!」
「約束はできない。だが、やれることはやる」
老人が、泣き崩れた。
俺は、その場に立ち尽くした。
空を見上げた。青い空。白い雲。千年前と変わらない空。
——結。
俺の「明日」は、英雄の凱旋じゃない。
山のような「書類整理」から始まるらしい。
『現在のミッション:失われた名前の復元
推奨手順:旧・行政区の記録照合
自由リソース:0.37%
方舟ステータス:移動不可
チーム状態:
- 管理者001:回復中(活動可能)
- リーゼ:健在
- カイン:食料調達中
- ルーク:義手停止(パーツ不足)
- 004:健在
——「名前を返してくれ」。
その声が、まだ耳に残っている。』




