第4話 優しすぎる婚約者
「冷えは女性の体にとって大敵だからね。遠慮せずにこれを使ってくれ」
そう言って、私の肩にそっと高級なカシミアのショールを掛け、冷たい風を遮るように位置を変えてくれたのは、私の婚約者であるニコラス様だ。
あの日、ダグラス伯爵家の執務室で父から不本意な婚約を言い渡されてから、数ヶ月。
私達の婚約生活は、社交界の誰もが羨むほど『順調』にスタートしていた。
若き王宮次官であり、侯爵家の次男であるニコラス様のエスコートは、まさに完璧の一言に尽きた。
定期的に贈られてくる、私の瞳の色に合わせた見事なドレスや宝石。デートの度に、私が何気なく「可愛い」と呟いたお菓子や小物を翌日には必ず届けてくれるマメさ。馬車から降りる際の手の添え方一つとっても、まるで本物の姫君のように私を大切に扱ってくれる。
正直に言おう。
十五歳という多感な年齢の私にとって、これほど見目麗しく、かつ紳士的な男性に優しくされて、心が動かないわけがなかった。
むしろ、会う度に彼の端正な横顔に胸がトクンと跳ねて、自分がどんどん彼に惹かれていくのが分かった。
けれど――。
(ロクサーヌ、しっかりして! 恋に溺れたら、後で血を吐くような思いをして苦しむのはあなたなのよ!)
私はドレスの裾を握りしめ、心の中で何度も何度も、自分に冷水を浴びせるように自己暗示をかけた。
優しくされる度に浮き立ちそうになる心を、全力で、冷酷な現実の鎖で縛り付ける。
忘れてはならない。彼の心には、あの隣国へ嫁いだ美貌のビクトリア王女殿下がいるのだ。
彼が今、私に見せているこの甘やかすような優しさは、すべて『高貴な義務感』によるものなのだから。
「どうしたんだい、ロクサーヌ? 少し顔色が悪い。……もしや、僕の贈り物が気に入らなかったかな」
ハッとして顔を上げると、ニコラス様がひどく痛ましそうな、そして焦ったような瞳で私を見つめていた。そのアメジストの瞳には、まるで本当に私を心配して、愛おしんでいるかのような、熱い情熱が宿っているように見える。
一瞬、息が詰まる。その視線があまりにも真に迫っていて、本当に愛されているのではないかと錯覚しそうになる。
(いいえ、騙されちゃダメ。これは、貴族としての完璧な演技。……そう、代償行為だわ)
私はすぐさま、脳内で悲しい変換を行った。
彼はきっと、今でも王女殿下を激しく愛している。けれど、彼女はもう他国の王妃。手に入ることは絶対にない。その行き場をなくした情熱と、婚約者という『義務』が混ざり合った結果、このような過剰なまでの優しさとなって私に注がれているだけなのだ。
私という存在を通して、彼は遠い異国の地へ行ってしまった初恋の女性を重ね、心を慰めているに違いない。
「いいえ、ニコラス様。このような素晴らしいショールをいただき、身に余る光栄ですわ。本当に……お優しいのですね」
私が一歩引いた、完璧な『仮面の微笑み』でそう告げると、ニコラス様はなぜか、目に見えて傷ついたように小さく息を呑んだ。
そして、私の肩に添えられていた彼の大きな手が、微かに震える。
「……光栄、か。僕は、君にそんな風に義務的に感謝されたいわけでは……」
ニコラス様は何かを言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。その表情は、どこか切なく、そして飢えた獣のようにも見えた。
いつも余裕たっぷりで爽やかな彼が、私の前でだけ、時折このように言葉を詰まらせ、狂おしいほどに切実な視線を向けてくる。
けれど、それすらも今の私にとっては「王女を失った孤独を必死に埋めようとしている、可哀想な男性の足掻き」にしか見えなかった。
私の愛が本物になればなるほど、彼の心を開けられない事実が牙を剥く。だから、絶対にこの境界線を越えてはならない。彼に恋をして、本物の愛を求めてしまったら、私はいつか彼の胸の中で「私はビクトリア殿下の代わりですか?」と泣き叫んでしまうだろう。
そんな無様な真似、伯爵令嬢のプライドが許さない。
「ニコラス様、お仕事はお忙しくありませんの? 私のような者のために、無理に時間を割いてくださらなくても、私は一向にかまいませんのよ」
私は彼の負担を減らしてあげようと、親切心からそう提案した。
彼は王宮次官だ。ただでさえ激務なのに、忘れるための代償行為として私に尽くすのは、精神的にも肉体的にも疲弊してしまうだろうから。
しかし、その言葉を聞いた瞬間。
ニコラス様のアメジストの瞳から、すうっと光が消えた。
テーブルの上に置かれた彼の拳が、白くなるほど強く握りしめられる。
「ロクサーヌ……君は、僕と会うのが、そんなに苦痛かい?」
「え? まさか、そんなことは――」
「僕は君に会うために、すべての仕事を死に物狂いで片付けているんだ。無理などしていない。……それとも、僕の存在そのものが、君にとって迷惑なのかな」
低く、地を這うような声。
一瞬だけ、あの未来の夜に見せることになる『執着の暗い瞳』の片鱗が覗いた。
私はその気迫に気圧されながらも、「やはり、王女を忘れられない自分を責められているようで、彼も辛いのね」と、またしても斜め上の解釈をしてしまう。
「滅相もございません。ニコラス様が私を『完璧な婚約者』として扱ってくださること、心から感謝しておりますわ。これからも、良いお飾りでいられるよう努めますね」
私はこれ以上ないほど健気に、そして残酷に、彼に微笑みかけた。
ニコラス様は、まるで鋭利な刃物で胸を突かれたかのように絶句し、ただ悲痛に歪んだ顔で私を見つめることしかできなかった。
お互いに相手を想っているはずなのに、言葉を交わす度に深まっていく、最悪のすれ違い。
私達の冷え切ったと、私が思い込んでいる婚約生活は、社交界を巻き込む大きな嵐の予感を孕んだまま、二人の関係をじわじわと蝕んでいくのだった。
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