第3話 ニコラスの秘密
(……ああ、なんて愛らしいんだろう)
ダグラス伯爵家の令嬢、ロクサーヌ。
僕の三つ年下で、今年学園に入学したばかりの婚約者の姿を前にして、僕――ニコラス・トーラスは、胸の内で狂おしいほどの歓喜を噛み締めていた。
今日が初めての公式な顔合わせ。
目の前に座るロクサーヌは、まるでお伽話から飛び出してきた妖精のようだった。
艶やかな髪、緊張に小さく震える桃色の唇、そして僕を真っ直ぐに見つめてくる、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳。
実は、彼女と会うのはこれが初めてではない。
一年前、母が主催した邸のお茶会。そこに妹ミランダの友人として招かれていたのが、ロクサーヌだった。
木漏れ日の中でミランダと楽しそうに笑い合う彼女を見た瞬間、僕の心臓は激しく鐘を鳴らしたのだ。一目惚れ、という小恥ずかしい言葉では生ぬるい。雷に打たれたような衝撃だった。
あの日からの一年間、彼女を僕の生涯の伴侶として迎えるため、水面下で執念深く、それこそなりふり構わず奔走し続けた。
十九歳での王宮次官への昇進も、すべてはダグラス伯爵家に文句を言わせず、彼女を妻として迎えるための実績作りに過ぎない。
ようやく、やっとの思いで掴み取った婚約だった。
「初めまして、ロクサーヌ嬢。君を婚約者として迎えられて、心から嬉しく思うよ」
僕は努めて、社交界で作り慣れた『爽やかで完璧な貴公子』の笑みを浮かべて語りかけた。
ここで僕の、彼女を今すぐ抱きしめて閉じ込めてしまいたいというドロドロとした独占欲を露呈させれば、確実に怯えさせてしまう。
だから、完璧な紳士の仮面を被る必要があった。
けれど――。
「……お初にお目にかかります、ニコラス様。ダグラス伯爵家が長女、ロクサーヌにございます。至らぬ身ではございますが、精一杯、貴方様のお役に立てるよう努めますわ」
ロクサーヌは完璧な一礼を返してきた。
だが、その美しい瞳の奥には、明らかな警戒と、諦念のような冷たい光が宿っていた。
まるで、見知らぬ人間に捕らえられた仔猫のようだ。
毛を逆立て、爪を隠し、これ以上自分のテリトリーに入ってくるなと無言で訴えかけている。
(なぜ、そんな目で僕を見るんだ……?)
胸がちくりと痛む。
けれど、すぐに思い当たる節があった。
社交界を騒がせている、あの『悲恋の噂』だ。
僕が、隣国ローゼンタールへと嫁がれたビクトリア第一王女殿下と、学園時代に愛し合っていたという、あの大恋愛の記憶。
終わったはずの過去。けれど、遠い異国へ行ってしまった彼女との日々は、今でも社交界の亡霊のように僕たちに付きまとっている。僕の心に刻まれたあの記憶の重さを、この純真な少女も知っているのだろう。
「……ロクサーヌ嬢。もしかしたら、僕と王女殿下の噂を耳にしているかもしれないけれど」
「いいえ! ニコラス様。私、そのような社交界の噂など、気にしておりませんわ。貴方様がどなたを、その……お心に想っていようとも、私は妻としての義務を果たす所存です」
ロクサーヌは遮るように、武骨なほど物分かりの良い、冷めた微笑みを浮かべた。
『お心に想っていようとも』。
その言葉が、彼女が僕の過去を、僕の胸の奥にある消えない影を完全に意識している証拠だった。僕の心には、今でもあの高貴な女性が残っているのだと、彼女は確信している。
今すぐその小さな肩を掴んで、今の僕の歪んだ本心をぶちまけてしまいたかった。
だが、それはできなかった。
ビクトリア王女殿下との間にあったことは、あまりにも重い。そのすべてを明かすことは、国家の法と『王家への配慮』によって厳重に禁じられている。
王女殿下のプライド、そして王家の威信を守るため、あの恋の結末について、僕の口から軽々しく語ることなど一切許されていないのだ。万が一にもあの複雑な内情が外に漏れれば、トーラス侯爵家だけでなく、僕が手に入れたばかりのロクサーヌの家まで巻き込んで破滅しかねない。
過去を語ることは許されない。だから、僕は黙るししかなかった。
重苦しい沈黙を、僕自身の『爽やかな微笑み』で塗りつぶす。
「そうか。君がそんな風に割り切って……いや、大人の対応をしてくれるなら、僕も助かるよ」
酷く引き攣った声が出そうになるのを、必死で堪えた。
ロクサーヌは「やはり」と言いたげに、一瞬だけ悲しげに睫毛を伏せた。その顔があまりにも痛々しくて、僕の手が、彼女の白い頬に触れようと勝手に動きそうになる。
それを、テーブルの下で拳を血がにじむほど強く握りしめて抑え込んだ。
(今はまだ、これでいい。今はまだ……君が僕だけを見てくれなくても)
僕は自分に言い聞かせる。
過去を語れなくても、これから始まる婚約生活の中で、僕がどれだけ彼女を激しく求めているか、行動で刻み込んでいけばいい。
一年、二年と時を重ね、僕が注ぐ逃げ場のない愛の深さに触れれば、彼女もいつか、過去の亡霊なんてどうでもよくなるはずだ。王女を失った僕の前に現れた、新しく、そして唯一の狂おしい光。
「時間をかけて、お互いを知っていこう。よろしくね、僕の愛らしい婚約者殿」
僕は、極上の紳士の笑みを張り付けたまま、彼女の小さな手をそっと取って、甲に深く口づけをした。
指先が微かに震えていた。怖がらせてしまっただろうか。
焦るな、と自分に念じる。
時間をかけて、ゆっくりと、大切に彼女を僕の色に染めていこう。絶対に僕なしでは生きられないように、優しさという名の檻で逃げ道を塞ぐんだ。
この時の僕は、まだ自惚れていた。
僕の被った『爽やかな仮面』と、僕が墓場まで持っていくべき『王女との秘密』が、ロクサーヌの心をどれほど深く傷つけ、絶望させていくことになるのかを。
そして一年後、彼女の口から最悪の決別を告げられ、僕の理性が粉々に吹き飛ぶことになる未来を、この時の僕はまだ、全く予想していなかった。
__________________
「面白そう!」と思っていただけましたら、
・作品のフォロー
・作品ページ下部の⭐︎にて、ポイントを5回クリックしていただけますと、とても励みになります!
==========================================
「面白そう!」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります!




