第2話 不本意な婚約と「悲恋の噂」
あの恐ろしい夜から、時計の針は一年前に巻き戻る。
「ロクサーヌ、お前にトーラス侯爵家の次男、ニコラス様との婚約話が持ち上がった」
ダグラス伯爵家の執務室で、厳格な父からそう告げられた時、私は持っていた扇を床に落としそうになった。
当時、十五歳。憧れの王立学園に入学したばかりで、これからの学園生活に胸を躍らせていた私にとって、それは青天の霹靂というべき通達だった。
「お、お父様? 聞き間違いでしょうか。トーラス侯爵家といえば、我が家などより遥かに上の大貴族。しかもニコラス様といえば……」
「うむ。王太子エドワード殿下の筆頭側近にして、十九歳の若さで王宮次官の座に就いた、我が国きっての麒麟児だ。本来なら、伯爵家の長女であるお前など、到底手の届くお方ではない」
父の言う通りだった。ニコラス・トーラス様の名を知らない者は、この王都にはいない。
夜の帳を溶かしたような漆黒の髪に、神秘的なアメジストの瞳。そのあまりにも美しい容姿と卓越した才覚は、常に社交界の注目の的だった。
けれど、彼が「超有名人」である理由は、それだけではない。
むしろ、彼を語る上で外せない、あまりにも劇的で、あまりにも有名な『恋物語』があった。
――ビクトリア第一王女殿下との、身分違いの悲恋。
王太子エドワード殿下の実姉であり、国一番の美貌を誇ったビクトリア王女。
ニコラス様が学園に在籍していた頃、二人は誰もが認める恋人同士だったと囁かれている。学園の美しい庭園で寄り添うように歩み、親しげに語らう二人の姿は、まるで一幅の絵画のようだったと、今でも上級生たちがうっとりと語るほどだ。
しかし、王女には同盟のため、隣国ローゼンタールへと嫁ぐ運命が決まっていた。
相手は十歳も年上のローゼンタール国王。すでに側妃を迎え、子までなしている男の元へ、彼女は泣く泣く嫁いでいったのだ。
『二人の恋は、学園の卒業をもって終わった』
社交界では、今でも二人の別れを「至高の悲恋」として美化し、同情を寄せている。ニコラス様が十九歳になっても浮いた話一つなく、仕事に没頭していたのも、「今も遠い異国へ行ってしまった王女殿下を想い、心を閉ざしているからだ」と誰もが信じて疑わなかった。
そんな、歴史に残るような大恋愛の当事者である男の元へ、この私が嫁ぐ?
「嫌ですわ、お父様! お断りすることはできないのでしょうか!?」
私は思わず、父の机に詰め寄っていた。
「何を言うか、ロクサーヌ。相手は侯爵家なのだぞ? 我が家に拒否権などない。それに、ニコラス様ほどのハイスペックな男、望んでも手に入るものではないのだぞ」
「スペックの問題ではありません! 心の通わない結婚なんて、私は望みませんわ!」
そう、それが私の本心だった。
どんなに美形で、どんなに優秀で、どんなに家柄が良くても、彼の心の中にはすでに「生涯をかけて愛した、決して手の届かない至高の女性」がいるのだ。
そんな男の妻になるなんて、生き地獄でしかない。
彼が私を見る時、その瞳に映るのは私ではなく、遠い異国にいる王女殿下の面影かもしれない。私がどれだけ彼に寄り添おうとしても、彼の心の最奥にある聖域には、一生触れることすらできないのだ。
「悲恋のヒロインの代わりに、便宜上用意されたお人形になるなんて御免です。私は、お互いに真っ直ぐ向き合える、本当の恋をしてみたいのです」
必死の抗議だった。けれど、父は重いため息をつき、首を振った。
「お前の言い分も分かる。だがな、ロクサーヌ。これはあちら側からの、ニコラス様直々のご指名なのだ」
「え……? ニコラス様からの、ご指名……?」
驚きで声が裏返る。なぜ、一度もまともに話したことすらない私を?
「詳しい理由は分からん。だが、トーラス侯爵家からの打診を断れば、我がダグラス伯爵家は王都で生きてはいけん。……諦めなさい、ロクサーヌ。これが貴族の婚姻だ」
父の言葉は冷酷な現実だった。
家格の差は絶対。私一人の我儘で、家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。
自室に戻った私は、ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。
涙は出なかった。ただ、目の前が真っ暗になるような絶望感だけが、じわじわと胸を満たしていく。
「どうして私が選ばれたのかしら……」
思い当たる節があるとすれば、ニコラス様の妹であるミランダ様が、学園で私の友人であることくらいだ。
もしかしたら、ミランダ様を通じて「扱いやすくて、自己主張の少なそうな地味な令嬢」として、私が推薦されたのかもしれない。王女を忘れられないニコラス様にとって、結婚相手は「邪魔にならない空気のような存在」が都合が良かったのだろう。
(……いいわ。それなら、徹底的に完璧な『お飾り』になってみせる!)
私は涙を拭い、冷めた決意を固めた。
彼に愛を求めるから辛くなるのだ。最初から、これはただのビジネス、義務としての契約結婚なのだと割り切ってしまえばいい。
彼が王女を想って黄昏れているなら、邪魔をせず、そっと見守るだけの空気になろう。
そうして私は、心を殺して、ニコラス様との初めての顔合わせの日を迎えることになる。
まさかその時、ニコラス様が私の想像とは一千光年もかけ離れた「とんでもない情熱」を胸に秘めて私を待っているなど、当時の私は知る由もなかったのだ。
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