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第12話 届いた招待状

嵐のような歓迎夜会から、一夜明けた翌日の午後。

 ダグラス伯爵家の私室で、私は届けられた一通の手紙を前に、完全に硬直していた。


 上質な純白の厚紙。それを留めるのは、我が国の王家、そして隣国ローゼンタール王国の二つの紋章が刻まれた、鮮やかな深紅の封蝋。


「お嬢様……。それは、本当に、ビクトリア王妃殿下からの……?」


 手紙を持ってきた侍女の マリーも、心なしか顔を青くして私を見つめている。


「ええ。間違いないわ。ビクトリア王妃から、私――ロクサーヌ・ダグラスへの、直々の招待状よ。明日の午後、王宮の奥の庭園へ、一人で参るようにと」


 そこには、ニコラス様の名前はどこにもなかった。

 トーラス侯爵家を介さず、私の父であるダグラス伯爵すら通さない、完全な『私個人』への指名。


 それはつまり、王権の威光を背負った、逃亡不可能な呼び出しを意味していた。


(……ついに、この時が来てしまったのね)


 手紙を抱きしめるように胸に当て、私はゆっくりと瞳を閉じた。

 不思議と、昨日までの激しい胸の痛みは消え、凪のような静かな覚悟が、私の心を満たしていくのを感じていた。


 昨夜、夜会の壁際でニコラス様が見せた、あの恐ろしいほどの気迫。


「君を僕だけのものにするためなら、僕はなんだってする」

「本当の婚約の話をしよう」


 いつも爽やかだった彼が、あんなに冷酷で、狂気を孕んだ目で私を追い詰めた理由。私の『お飾り防衛脳』は、一晩かけて一つの切ない結論に達していた。



 ニコラス様はきっと、限界だったのだ。

 本物の恋人だったビクトリア王妃が目の前に現れたことで、彼の中で三年もの間、必死に抑え込んできた愛の炎が再燃してしまったに違いない。けれど、真面目で責任感の強い彼は、国が決めた『私との婚約』という義務に縛られている。


 だからこそ、あんなに余裕をなくし、自分を奮い立たせるように「紳士の真似事は終わりだ」「逃がさない」と、私に対してあえて強硬な態度を取ったのだ。私との婚約という『呪い』に、自分を閉じ込めようとするかのように。


(優しいニコラス様。私を傷つけまいと、そこまで無理をして泥を被ろうとしてくださるなんて……)


 だけど、私は彼を愛してしまった。

 愛しているからこそ、そんな哀しい歪んだ義務感で、彼の人生を縛り付けたくはなかった。


 ビクトリア王妃がわざわざニコラス様を通さずに私を呼び出した理由なんて、一つしか思い当たらない。


「ニコラスを、私に返して」


 大国の王妃となった彼女が、かつての最愛の男を救い出すために、偽物の婚約者である私に、直接引導を渡しにくるのだ。


「お嬢様、やはりトーラス侯爵令息に至急ご連絡を差し上げた方がよろしいのでは……。 ビクトリア王妃殿下がどのようなご用件で、お嬢様を一人で呼び出されたのか、不穏すぎますわ」


 心配のあまり涙目になっているマリーが、私の袖を引く。


 けれど、私は静かに首を振った。


「いいえ、マリー。ニコラス様には絶対に知らせてはダメよ。これは、私と王妃殿下、女同士のお話なのですから」


 今、ニコラス様に知らせてしまえば、彼はまた臣下としての責任感から、私の前に立ってビクトリア王妃殿下を拒絶してしまうだろう。そんなことをすれば、ニコラス様の心は一生、引き裂かれたままになってしまう。


 私が身を引けば、すべては丸く収まるのだ。


 もともと私は、ビクトリア王妃が輿入れした後の傷心期間を埋めるための、ただの『お飾り』。

 三年が経ち、王女殿下がこうして大国の名代として堂々と凱旋されたのだから、役目を終えた身代わりは、微笑んで劇場の幕を引くのが正しい。


「大丈夫よ、マリー。ついに、身を引く時が来たのかもしれないというだけ。私は、ダグラス伯爵家の令嬢ですもの。最後まで、無様な姿は見せないわ」


 私は鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。

 少しだけ顔色は青白いけれど、瞳には、悲壮なまでの決意が宿っている。



 翌日、ニコラス様を愛してしまった私の、最初で最後の『完璧な婚約者』としての任務が始まる。

 王妃殿下に何を言われても、決して取り乱さず、気高く、自ら婚約破棄を申し出よう。


「私は最初から、お飾りだと割り切っておりました。ニコラス様をこれ以上、縛るつもりはございません」と、完璧な微笑みで告げるのだ。


 胸の奥に、ぽつりと冷たい涙が落ちたような気がしたけれど、私はそれを無理やり無視した。



 同じ頃、王宮の執務室。

 ロクサーヌへ招待状が届いた事実を、側近からの報告で知ったニコラスは、手にした万年筆を指の中で真っ二つに叩き折っていた。


「ビクトリア王妃殿下が……ロクサーヌを、一人で呼び出した、だと……?」


 アメジストの瞳が、怒りと焦燥で完全に血走る。


 二週間、彼女に触れられなかっただけで死にそうだった男の前に、ようやく手に入りかけた愛しい小鳥を、過去の幻影が横から奪い去ろうとしているのだ。


「誰の許可を得て、僕の最愛に手を触れようとしているんだ……! エドワード、今すぐ馬車を出せ! 邪魔をするなら、たとえ殿下だろうと僕は容赦しない!」


「おい待てニコラス! 落ち着け、姉上はおそらくロクサーヌ嬢と話がしたいだけだ! 戻れ、机を壊すな!」


 親友の制止など、もはやニコラスの耳には届いていなかった。


 紳士の仮面を粉々に砕いた若き次官の、狂気的な独占欲が、ついに王宮の庭園へと解き放たれようとしていた。




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