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第11話 すれ違う夜、ニコラスの焦り

(早く、早く、彼女を捕まえなければ――!)


 舞踏会の華やかな人混みを乱暴に掻き分け、ニコラスはただ一人の少女の姿を追っていた。


 二週間。死に物狂いの激務のせいで、愛しいロクサーヌの姿をその瞳に映すことすらできなかった、飢餓の二週間。


 ようやくすべての手回しを終え、彼女の元へ駆け寄ろうとした矢先、遠くから目が合った彼女の表情を見て、ニコラスの心臓は恐怖で凍りついた。



 あの日、馬車の中で見せた怯えではない。

 まるで、すべてを諦めて、自分の前から永遠に消え去ろうと決意したかのような、あまりにも美しく、冷たい『完璧なお飾りの微笑み』。


「ロクサーヌ……!」


 人混みを抜け、ようやく辿り着いた会場の柱の陰。可憐な淡い水色のドレスを纏った彼女の細い肩を、ニコラスは衝動的に両手で掴んでいた。周囲の貴族たちが「おや、トーラス侯爵令息が……」と囁きを交わすのが聞こえたが、今の彼にはそんな雑音はどうでもよかった。



「ニコラス、様……?」


 掴まれた肩の痛みに、ロクサーヌは驚いたようにそのアクアマリンの瞳を見開いた。


 間近で見る彼女の婚約者は、いつも社交界で見せる爽やかな貴公子の面影など微塵もなく、まるで大切な宝物を奪われかけた男のような、悲壮で、恐ろしいほどに張り詰めた表情をしていた。


 その必死な姿を見て、ロクサーヌの胸はまた、引き裂かれるように痛む。


(……そんなに、ビクトリア王妃との再会で心が限界を迎えていらっしゃるのね。わざわざ私のところへ来て、自分が『完璧な婚約者』であることを必死に証明しようとしてくださるなんて。本当にお優しいけれど、もう、そんな無理をしなくてもいいのですのに)


 ロクサーヌはそっと、自分の肩に置かれた彼の大きな手を、痛みを堪えるように優しく引き剥がした。そして、一歩後ろへと下がり、完璧な淑女の礼を執る。


「お久しぶりでございます、ニコラス様。歓迎式典の総責任者としての大役、本当にお疲れ様でございました。ビクトリア王妃殿下もお美しく、お元気そうで何よりでしたわね」


 一寸の狂いもない、美しく、よそよそしい挨拶。

 その声を聞いた瞬間、ニコラスの脳裏に、ドクドクと不穏な警鐘が鳴り響いた。


 違う。

 彼女は怒っているのではない。ただ静かに、自分の手の届かない遠い場所へと心を隠してしまっている。


「ロクサーヌ、ごめん、本当にすまない……! この二週間、一通の手紙も送れなかった。君をこんな夜会の壁際に一人にして、寂しい思いをさせてしまったね。すべては僕の不徳の致すところだ。どうか、僕を許してほしい」


 ニコラスは必死に声を絞り出した。自分の不手際のせいで、彼女が「自分は蔑ろにされている」と傷ついたのだと思ったのだ。今すぐ彼女をこの腕に掻き抱き、二週間分の愛を囁き尽くしたかった。


 けれど、ロクサーヌから返ってきたのは、相変わらず穏やかで、冷徹なまでの微笑みだった。


「いいえ、滅相もございませんわ。ニコラス様がお国のために、そして『大切な方』のために奔走されるのは当然のことです。寂しいだなんて、そんなわがままを申し上げるわけがありません。私は貴方の婚約者として、とても誇らしく思っておりますのよ?」


(だから、もうお芝居はやめて、あの方のお側へ行って差し上げてください)


 ロクサーヌは、精一杯の親切心と、彼への愛ゆえの諦念を込めてそう告げた。



 しかし、その言葉はニコラスにとって、最悪の刃となって突き刺さる。


「我が儘を言わない……? 誇らしく思っている……?」


 ニコラスの声が、地を這うように低く沈んだ。

 アメジストの瞳の奥で、一年間必死に抑え込んできたドロドロとした独占欲が、ついにその頭をもたげ始める。


(寂しくない、だと? 僕に二週間も放っておかれて、他の女の影をちらつかせられても、君は嫉妬一つしてくれないのか? 笑顔で僕を、あの人の元へ送り出すというのか……!)


 ニコラスの脳内で、凄まじい被害妄想と焦燥が爆発した。


 彼にとって、ロクサーヌの「物分りの良さ」は、自分への愛が『一滴も存在しない証拠』にしか思えなかったのだ。どれだけ紳士的に振る舞っても、どれだけ尽くしても、彼女の心は自分に向いてくれない。


「ニコラス様……? お顔色が優れませんわ。やはり、お疲れなのですわね。今夜はもう、私への義務的なエスコートなどお気になさらず、王妃殿下のお側へ行かれては――」


「黙ってくれ、ロクサーヌ」


 ピシャリと、冷酷な声がロクサーヌの言葉を遮った。



「ニコラス様……?」


 驚いて見上げるロクサーヌの視線を、ニコラスは逃がさないように強く、強く睨みつけた。いつも彼が浮かべていた爽やかな微笑みは完全に消え去り、そこにあるのは、一人の執着に狂った男の素顔だった。


「君は、僕が誰の隣に立つべきか、そんなに明確に指定したいわけだ。……僕が君以外の女の側へ行くことを、君はそんなにも、どうでもいいと思っているんだね」


「えっ、それは……」


 あまりの気迫に、ロクサーヌは言葉を詰まらせた。どうして彼がこんなに怒っているのか、彼女『自己暗示脳』では全く理解が追いつかない。


「いいかい、ロクサーヌ。僕は君の『完璧な婚約者』なんかじゃない。君が思っているような、物分かりの良い聖人君子でもないんだ」


 ニコラスは一歩、ロクサーヌとの距離を限界まで詰めた。彼の高い体躯が、彼女の視界のすべてを覆い尽くす。


「もう、紳士の真似事は終わりだ。君がどれだけ僕を突き放そうと、僕を他の女の元へ押し戻そうと、絶対に逃がさない。君を僕だけのものにするためなら、僕はなんだってする」


「な、何を……」


「今夜、夜会が終わったら、ダグラス伯爵邸へ正式に伺う。そこで、形式だけではない、本当の意味での婚約の話をしよう」


 低く、有無を言わせぬ独占欲に満ちた声。


 そのアメジストの瞳に宿る本物の狂気を目にした時、ロクサーヌの心の中に、初めて「何かがおかしい」という小さな違和感と、背筋がゾクゾクとするような、恐ろしくも甘い予感が走り抜けるのだった。




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