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第10話 ビクトリア王妃の孤独

 華やかな第一舞踏の間の喧騒から離れた、王宮のバルコニー。

 夜風が私の金髪を冷たく揺らす中、私は小さくため息をつき、夜空に浮かぶ月を見上げていた。


 三年ぶりに帰ってきた母国は、どこまでも優しく、そして、今の私にとっては少しだけ残酷だった。



 社交界の人々は、私が大国ローゼンタールのルドクリフ王に冷遇され、悲惨な結婚生活を送っているのではないかと噂しているらしい。あるいは、かつての『恋人』であるニコラス・トーラスへの未練に狂い、彼を奪い返しにきたのだと。


(……ふふ、本当に、貴族たちの想像力には恐れ入るわね)


 私は自嘲気味に微笑んだ。



 真実は、全く違っていた。



 夫であるルドクリフ王は、十歳も年下の私をこの上なく正妃として尊重し、彼なりの深い愛情を注いでくれている。国を治める王として、男として、とても立派な人だ。


 噂にあるような陰湿な側妃は存在せず、いるのは身の程を弁えた穏やかな女性だけ。その彼女が産んだ、第一王子も、私を歳の離れた姉のように慕い、今回の婚約にあたって「ぜひビクトリア正妃殿下の母国との絆を深めたい」と私を全権名代に推薦してくれたほどだ。


 恵まれている。私は間違いなく、政略結婚としてはこれ以上ないほどの『アタリ』を引いた幸福な王妃のはずだった。


 それなのに――私の心は、この三年で修復不可能なほどに疲弊していた。


 異国の地での生活は、想像を絶する孤独だった。

 いくら勉強したところで、完全に超えられない言葉の壁。ローゼンタール王妃という、一挙手一投足が国交を左右する、息の詰まるような重圧。誰もが私を「他国から来たお飾り」として値踏みする冷ややかな視線。


 弱音を吐くことは許されない。夫を愛してはいても、彼は守るべき国を持つ『王』だ。甘えることなどできなかった。


 だからこそ、私はいつしか、心の中に逃げ道を作ってしまっていた。

 あの、異国へ発つ前の一年間。母国の学園で、私のためにどこまでも優しく、完璧な恋人を演じてくれた、二歳下の弟の側近。


(ニコラス……。あの一年間だけが、私が『王女』という重荷を下ろして、普通の少女として呼吸できた時間だったわ)


 気づけば私は、孤独に押しつぶされそうになる度に、記憶の中のニコラスにすがっていた。


 彼が私に向けてくれた、あの爽やかで優しい微笑み。私を宝物のように扱ってくれた、温かい手。

 それは、ニコラスにとっては王太子エドワードから命じられた『臣下としての任務《演技》』に過ぎなかったと、今の私なら痛いほどよく分かる。現に、先ほど彼に話しかけた時も、彼は驚くほど冷徹に、ローゼンタールとの次期関税に関する事務手続きの話しかしてこなかった。私の寂しそうな視線など、彼はこれっぽっちも拾ってはくれなかった。


 それでも、私にとってニコラスは、暗闇の異国で自分を支え続けた『理想の象徴』だったのだ。

 だから母国へ戻った安心感から、つい彼に甘えるように、親しげに何度も言葉を交わしてしまった。

 まさかその姿が、彼の現在の婚約者をどれほど深く傷つけているかも知らずに。



「――探してる令嬢ならあそこの柱の陰だ、ニコラス。早く行かないと、お前の大好きな小鳥がどこかへ飛んでいっちまうぞ」


 不意に、バルコニーの入り口から、弟である王太子エドワードの声がした。

 振り返ると、エドワードがひどく呆れたような、そして同情するような目で私と、私の後ろの通路を見つめている。


 その通路の先から、凄まじい足音が響いてきた。

 現れたのは、ニコラスだった。


 夜会服を纏った彼は、先ほど私をアテンドしていた時の『完璧な次官の仮面』を完全に剥ぎ取っていた。アメジストの瞳はギラギラと肉食獣のように飢えており、その視線は、私ではなく、会場の壁際――一人の小柄な令嬢へと、狂気的なまでの執着を伴って固定されている。



「ニコラス、あなた……」


 私が息を呑むと、ニコラスは私に一瞥もくれず、冷酷な声で言い放った。


「僕は今から、僕の婚約者を捕まえに行かなければなりません。……ビクトリア妃殿下、貴方の孤独に同情はしますが、貴方が必要以上に親しげに接するせいで、僕の可愛い小鳥が、今にも逃げ出しそうな顔をして泣いているんだ。これ以上、僕たちの邪魔をしないでいただきたい」


 冷たい、刃のような言葉。

 学園時代、私に優しく微笑んでくれていた男の子は、そこには影も形もなかった。


 彼は最初から、私のことなど一滴も愛していなかったのだ。彼のその狂おしいほどの情熱と、底知れない独占欲は、すべてあそこにいる、ダグラス伯爵令嬢のためだけに用意されていたものだった。



「……そう。ごめんなさいね、ニコラス」


 私は、ふっと胸のつかえが取れたような気がして、小さく微笑んだ。


 本物の怪物の前で、私のちっぽけな『思い出ごっこ』は一瞬で塵となって消え去った。けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。彼がそれほどまでに誰かを激しく愛しているという事実が、私に「私も、私を愛してくれる夫の元へ帰ろう」という、前を向く勇気をくれたから。


「エドワード、私、週明けの朝一番でローゼンタールへ帰るわ。陛下ルドクリフが恋しくなってしまったもの」


「それがいい、姉上。……さあニコラス、早く行け。お前の小鳥が、今、夜会の会場から逃げ出そうとしているぞ」


 エドワードの言葉が終わるより早く、ニコラスは地を蹴って走り出していた。

 愛しい婚約者を、その腕の中に二度と離さないように閉じ込めるために。



 私は、彼の背中を見送りながら、心の中で静かに彼の婚約者へとエールを送った。


(頑張ってね、可愛いお嬢さん。あの男の愛は、相当重くて逃げられないわよ?)


 ビクトリア王妃が胸の奥に抱え続けていた、三年越しの初恋の終わり。それは、最悪のすれ違いを続けてきた二人の、狂気的な『溺愛劇』の本当の始まりを告げる合図だった。


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