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第9話 再会の夜、遠くから見る二人

 王宮の第一舞踏の間は、めくるめく光の海の中にあった。

 天井の巨大なシャンデリアが眩い煌めきを放ち、極上のオーケストラが奏でるワルツが、集まった貴族たちの談笑の声と混ざり合う。


 ローゼンタール王国より全権名代として帰国された、ビクトリア王妃の歓迎夜会。

 社交界の誰もがこの日を待ち望んでいた。そして、誰もが私と、ニコラス様と、ビクトリア王妃殿下の動向を、飢えた獣のような好奇の目で見つめていた。


 私は今、華やかな会場の壁際、目立たない柱の陰にそっと身を潜めている。

 いつもなら、ニコラス様が私の手を引き、完璧な騎士として中央へとエスコートしてくれたはずだ。けれど今宵、彼の隣に私はいない。なぜなら、王宮次官である彼は、主賓であるビクトリア王妃を最優先でアテンドするという、国家的な大役を課せられているからだ。



「――見て、あちらよ。なんて美しいのかしら」


 周囲の令嬢たちの、ため息混じりの囁きが耳に届く。


 その視線の先を追った瞬間、私の心臓は、氷の楔を打ち込まれたように凍りついた。

 会場の中央、ひときわ高い玉座のふもと。

 そこに、三年ぶりに母国へと帰還されたビクトリア王妃が立っていらっしゃった。



 二十一歳になられた殿下は、学園時代の瑞々しい美しさに加え、大国の王妃としての圧倒的な気品と色香をまとっている。流れるような見事な金髪と、夜空を切り取ったような深いサファイアの瞳。社交界のすべての女性を霞ませるほど、彼女は完璧に美しかった。


 そして――その王妃殿下のすぐ斜め後ろに控えているのが、私の婚約者、ニコラス様だった。


 二週間ぶりに見るニコラス様は、仕立ての良い夜会服に身を包み、いつも以上に冷徹で、隙のない完璧な美貌を称えている。



「まぁ……。お二人が並ぶと、まるで絵画のようですわね」


「本当に。三年の歳月なんて、あのお二人の前には無意味だったのね。あのように親しげに視線を交わして……やはり、お互いに忘れられていなかったのよ」


 容赦のない周囲の囁きが、私の心を容赦なく削っていく。



 確かに、遠目から見ても、お二人は何度も言葉を交わしていた。

 王妃殿下が何かを囁けば、ニコラス様は真剣な、どこか張り詰めたような表情で深く頷き、彼女の言葉に耳を傾けている。


(実際には、ニコラスは『ローゼンタール側の次期関税に関する事務手続きの確認』という、極めて事務的かつ冷徹な外交交渉を耳打ちされているだけなのだが、ロクサーヌには知る由もない)


 お二人の間に流れる、部外者を一切寄せ付けない完璧な空気。

 それは、学園時代に一年間だけ、恋人として濃密な時間を過ごした者同士にしか分からない『絆』の現れに思えた。



(……ああ、やっぱり。私の入る隙間なんて、最初からどこにもなかったんだわ)


 胸の奥が、引き裂かれるように痛い。


 私に向けられていたあの優しい微笑みも、マメな手紙も、アクアマリンの髪飾りも。すべては、この本物の光、ビクトリア王妃を失ったニコラス様が、寂しさを紛らわせるために私に与えていた、ただの『おままごと』の道具だったのだ。


 本物が目の前に現れた今、偽物の私は、もうこの場にいることすら許されないような気がしてくる。



「でも、そうなると可哀想なのはダグラス伯爵令嬢ね」


「ええ。所詮はビクトリア王妃殿下が嫁がれた後の『お飾り』ですもの。これでニコラス様の心がどちらにあるか、はっきりしてしまったわね」


 くすくすと笑う令嬢たちの声が、鋭い刃となって私の身体を突き刺す。

 涙が溢れそうになるのを、私は必死に堪えた。伯爵令嬢としてのプライドが、ここで無様に泣き崩れることを拒絶している。


(泣いちゃダメ、ロクサーヌ。しっかりして……! 私は、ニコラス様を愛してしまったの。愛しているからこそ、彼の本当の幸せを邪魔しちゃいけないわ)


 私はぎゅっと両手を握りしめ、最後の自己暗示をかけた。

 ニコラス様が今でも彼女を愛しているのなら。そして、王女殿下もまた、彼との別れを惜しんでいるのなら。私はこれ以上、お飾りとして彼の足枷になるわけにはいかない。



 交際、一周年。

 この夜会が終われば、私達が婚約してちょうど一年が経つ。

 これほど素晴らしい決別の舞台は、他にないだろう。彼を縛るお飾りの鎖を、私の方から、そっと解いてあげよう。それが、彼を好きになってしまった私ができる、唯一の『正しい選択』なのだから。


 私は最期の力を振り絞って、完璧な『仮面の微笑み』を顔に張り付けた。



 その時、まるで私の決意を察知したかのように。

 はるか遠く、会場の中央にいたニコラス様が、突如として激しく私の方へと顔を向けた。


 人混みを掻き分けて、彼のアメジストの瞳が、まっすぐに私を射抜く。

 その瞳は、いつもの爽やかな彼のものではなかった。二週間分の飢餓感と、私の『完璧に一歩引いた笑顔』を見たことによる、底知れない狂気と焦燥がどろりと渦巻いている。


 ニコラス様が、王妃殿下への挨拶もそこそこに、大股でこちらへと歩き出してくるのが見えた。

 その気迫は、まるで逃げ出そうとする獲物を絶対に逃がさないと誓った、飢えた肉食獣のようだった。



「……ニコラス様?」


 恐怖と、それ以上の切なさに胸を締め付けられながら、私は迫りくる婚約者から目を逸らすことができなかった。


 最悪のすれ違いが招いた、運命の交際一周年。紳士の仮面を完全に剥ぎ取ったニコラス様の『執着スイッチ』が、ついに音を立てて入ろうとしていた。






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