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第3章 琥珀色の夕景

 季節はすっかり夏へ移り変わっていた。深い森を渡る風も冬の鋭さを失い、ヴィリアーズ領には短い夏特有の穏やかな空気が流れている。


 アイリーンがヴィリアーズ家へ来てから、数か月が経っていた。最初こそ、侯爵であるギルバートとアイリーンが共に食事を取ることへ使用人たちは戸惑いを隠せずにいた。だが、人間とは慣れる生き物らしい。今では給仕たちも当然のように二人分の食器を並べ、侍女たちも自然にアイリーンを「こちら側」の人間として扱うようになっていた。そして、それと同時に変わったことがもう一つある。


「旦那様、グレイ嬢へ少々書類を渡しすぎではありませんか」

「昨夜も遅くまで起きておられたようです」

「本日は少し休ませた方が——」


 何故か、使用人たちがやたらとアイリーンのことを報告してくるようになった。以前なら必要最低限しか話しかけてこなかった者たちが、最近では当たり前のようにアイリーンについて口を挟んでくる。

 執務机へ視線を落としたまま、ギルバートは僅かに眉を寄せた。


「……彼らはいつから私へ意見するようになった」


 書類整理をしていたエドガーが小さく笑う。


「グレイ嬢が来てからでしょうね」

「意味が分からん」

「使用人たちも安心しているんですよ」


 さらりと言われ、ギルバートは怪訝そうに視線を向ける。だがエドガーはそれ以上説明する気はないらしい。


「それより」


 机上へ新しい書類を置きながら、エドガーは話題を変える。


「マダム・リボンから進言が」

「またか」

「今回は正当なものです」


 エドガーは僅かに苦笑した。


「グレイ嬢の衣装が不足しております」


 ギルバートはそこでようやく手を止めた。確かに、アイリーンの持ち物は驚くほど少なかった。ヴィリアーズ家へ来た当初から、ドレスも数着しか見ていない。どれも質自体は悪くないが、流行は少し古く、普段着回していることも分かる程度には消耗していた。


「夏物もほとんどございません。このままでは社交の場へ出せないと、マダム・リボンが」


 社交。その言葉に、ギルバートは小さく視線を細める。

 確かに、いずれ必要になる。アイリーン・グレイは、ただ保護されているだけの存在ではない。後見下にあるとはいえ、王家の血を引く伯爵令嬢だ。将来的に社交界へ出ることも避けられない。


「仕立て屋を呼べばいいだろう」

「それが、王都の店でなければ揃わないものも多いそうで」


 エドガーは淡々と続ける。


「加えて、グレイ嬢は今後正式に夜会へ出る可能性もございます。マダム・リボンとしては、一度きちんと王都で見立てておきたいのでしょう」


 ギルバートは小さく息を吐いた。面倒だ。だが必要なのも事実だった。


「護衛は」

「女性だけで王都へ出す訳にも参りません」


 即答だった。


「今のグレイ嬢は嫌でも目立ちます。王家の血筋の件もありますし」


 そこでエドガーは僅かに口元を緩める。


「ギルバート様が同行されれば、最も安全かと」


 嫌な言い方だ、とギルバートは思った。だが否定できない。しばらく沈黙した後、ギルバートは諦めたように書類を閉じる。


「……分かった」


 その返答を聞き、エドガーはどこか面白そうに目を細めた。


 ◆


 話は、驚くほどあっさり決まった。マダム・リボンは当然のように日程を組み、侍女たちは必要な荷物をまとめ始め、エドガーは既に王都側へ連絡まで回している。気づけば、数日後には王都へ向かうことになっていた。


 当日の朝。夏の柔らかな陽射しが城門前へ差し込む中、準備された馬車の前でアイリーンはどこか落ち着かなげに立っていた。


「本当に、私まで王都へ行く必要が……?」

「ある」


 短く返しながら、ギルバートは当然のように馬車へ乗り込む。その様子に、アイリーンが小さく瞬きをした。


「侯爵様は別の馬車では」

「護衛上、同じ馬車の方が安全だ」


 あまりにも即答だった。アイリーンは一瞬だけ言葉を失ったようだったが、それ以上は何も言わず静かに頷く。


「……失礼いたします」


 小さく裾を持ち上げ、馬車へ乗り込む姿は相変わらず無駄がない。向かいへ腰掛けたアイリーンは、僅かに姿勢を正したあと静かに手を重ねた。やがて馬車がゆっくり動き出す。揺れる車内に沈黙が落ちた。だが、不思議と息苦しさはない。アイリーンは窓の外を眺めていた。流れていく森の景色へ静かに視線を向けている。その横顔は穏やかで、相変わらず不思議なほど気配が薄い。


 気づけば、そんな彼女をぼんやり眺めていた。アイリーンは視線に気づいていないらしい。時折揺れる陽射しが淡い金の髪へ落ち、そのたびに硝子細工のような青い瞳が静かに光を映す。近くで見るほど、その美しさは妙に現実味が薄かった。そんなことを考えているうちに、遠くに王都の城壁が見え始める。アイリーンが小さく目を見開いた。


「……王都」


 その声は、ほんの少しだけ年相応に聞こえた。ギルバートは窓の外へ視線を向けたまま口を開く。


「王都は珍しいか」


 アイリーンは僅かに瞬きをする。


「……ええ」


 静かな返答だった。


「ずっと伯爵家の屋敷におりましたので」


 ギルバートは何も言わなかった。だが、その短い一言だけで十分だった。社交界へも出ていない。王都へ滞在した経験もほとんどないのだろう。考えてみれば当然だった。王城で初めて会ったあの日も、彼女は周囲を見る余裕などなかったに違いない。突然後見人が決まり、そのままヴィリアーズ家へ連れて来られたのだから。


 アイリーンは再び窓の外へ視線を向ける。近づく城壁。行き交う馬車。夏の日差しを反射する白い石畳。その横顔は相変わらず静かだったが、青い瞳だけは僅かに揺れていた。まるで初めて見る世界を、一つひとつ確かめるように。


 ◆


 王都へ到着した後、一行はそのまま仕立て店へ向かった。エドガーが事前に話を通していたらしく、馬車が止まるや否や店の者たちが慌ただしく出迎えに現れる。


「ヴィリアーズ侯爵様、お待ちしておりました」


 通されたのは王都でも評判の高い店だった。夏の陽射しを受けて輝く硝子窓、繊細な刺繍の施された布地、壁一面へ並ぶドレス。侍女たちが選んだ“今の王都で最も流行している店”なのだろう。

 店内へ足を踏み入れた瞬間、空気が僅かに揺れた。あの黒薔薇侯爵が女性を伴っている——そんな驚きが、視線の動きだけで伝わってくる。だがギルバートは気に留めなかった。一方のアイリーンは、僅かに動きを止めている。気後れしているのだと、ギルバートには分かった。


「侯爵様、こちらへ」


 店の者へ促されても、アイリーンはどこか遠慮がちに立ち尽くしている。


「……ここまでしていただく必要は」

「必要なことだ。ヴィリアーズ侯爵家が後見している以上、粗末なものを着せる訳にはいかないだろう」


 アイリーンは何か言いかけたが、結局小さく口を閉ざした。


 そこからは慌ただしかった。布地が運ばれ、採寸が始まり、侍女たちが次々とドレスを合わせていく。淡い色も深い色も不思議なほど似合った。元々整った顔立ちをしているせいだろう。店の者たちも次第に熱を帯び始める。


「こちらのお色もお似合いですわ」

「この刺繍なら瞳のお色が映えます」

「髪飾りも合わせましょう」


 だが、その中心にいるアイリーンだけは、何故か浮かない顔をしていた。ギルバートは静かに眉を寄せる。


「気に入らないか」

「いえ……」


 返答は曖昧だった。アイリーンは僅かに視線を伏せ、それから躊躇うように自分の髪へ触れる。


「その……髪が短いので」


 小さな声だった。ギルバートは一瞬だけ彼女を見る。肩へ触れる程度で切り揃えられた淡い金髪。確かに令嬢としては短い。だが、それだけだ。


「それが何だ」


 あまりにも自然に返され、アイリーンが僅かに目を見開く。


「ですが、令嬢としては……」

「あなたは十分目を引く」


 淡々とした声音だった。そこに甘さも気遣いもない。ただ事実を述べているだけの口調。一瞬、店内が静まり返った。だがギルバート本人だけは何故そんな空気になったのか理解していないらしい。アイリーンは言葉を失ったようにギルバートを見つめていた。やがて、ゆっくりと視線を伏せる。


「……そう、でしょうか」


 その声音は、どこか戸惑っているようにも聞こえた。しかし、先ほどまで伏せられていた青い瞳が、今度は逃げずに鏡の中の自分を見ていた。


 それからもしばらく、店の中は慌ただしかった。次々と新しい布地が運び込まれ、侍女たちは楽しげに色を選び、店員たちは夢中になってアイリーンを着飾っていく。淡い水色、柔らかな藤色、深みのある緑。どれを纏ってもよく似合った。最終的には、ギルバートですら少し呆れるほどの量になった。だがアイリーンは、もう何も言わなかった。遠慮がちではあったものの、否定もしない。ただ静かに採寸を受け、鏡へ向かい、侍女たちの言葉へ小さく頷いている。


 店を出る頃には、夏の日差しは少し傾き始めていた。再び馬車へ乗り込む。行きと同じく、車内には静かな空気が流れていた。しばらくして、ギルバートが口を開く。


「髪を気にしていただろう」


 アイリーンの肩が僅かに揺れた。


「あなたが望んだものではないように見えた。何かあったのか」

「……それは」


 言い淀む声。ギルバートはそこで小さく息を吐いた。


「不躾だったか。すまない」

「いえ」


 アイリーンは静かに首を振る。


「大したことではないのです」


 だが、その声は少しだけ弱かった。


「継姉が髪飾りを欲しがっておりましたので……売られただけです」


 あまりにも淡々とした言い方だった。だからこそ、ギルバートは何も言えなくなる。売られた。令嬢の髪がどれほど大切なものかなど、ギルバートでも知っている。


「……そうか」


 結局、それ以外の言葉は出てこなかった。沈黙が落ちる。馬車の揺れる音だけが静かに響いていた。

 やがてギルバートは、唐突に口を開く。


「あなたの好きなものは何だ」


 アイリーンが瞬きをする。


「……好きなもの、ですか」

「嫌なことを思い出させた詫びだ」


 あまりにも不器用な言い方だった。だがギルバートは本気なのだろう。そう分かるからこそ、アイリーンは僅かに口元を緩める。


「甘いものが好きです」


 小さな返答だった。

 ギルバートは少しだけ眉を上げる。


「欲がないな」


 侯爵家なら宝石でも何でも与えられる。そんな意味を含んだ声音だった。だがアイリーンは小さく首を振った。


「それが良いのです」


 青い瞳が静かに細められる。


「もう、辛いことなど忘れましたから」


 その笑みは淡かった。だが、ギルバートは初めて思う。この少女には、もっと笑っていてほしいと。


 ◆


 馬車の中での会話を終えたあと、アイリーンは再び静かに窓の外を眺めていた。だが先ほどより表情は柔らかい。窓の外へ向ける視線にも、どこか落ち着きがあった。ギルバートはそんな横顔を見ながら、ふと先ほどの会話を思い出す。


『甘いものが好きです』


 小さな声だった。あまりにささやかな願いだったせいか、妙に頭へ残っている。ギルバートは不意に窓を叩き、馬車を止めさせた。外で随行していた侍女たちが驚いたように振り返る。


「この辺りで流行っている甘味は何だ」


 一瞬、沈黙が落ちた。侍女たちは目を丸くしている。黒薔薇侯爵が、甘味。しかも“流行り”を聞いている。その事実だけで十分衝撃だったらしい。


「え、ええと……!」


 最初に我へ返った若い侍女が、信じられないほど嬉しそうに身を乗り出した。


「でしたら今は果実のタルトが人気です! それと蜂蜜菓子も……あ、冷やしたミルク菓子のお店も有名で……!」


 そこから先は止まらなかった。次々と店の名前が飛び出し、別の侍女まで会話へ混ざり始める。


「南通りの焼き菓子店もおすすめです!」

「今の季節は桃の砂糖漬けが——」

「あと王都限定の——」


 ギルバートは僅かに圧倒されながらも、小さく息を吐いた。


「……分かった。その店へ向かえ」


 御者へ指示を出す。すると、それまで静かに聞いていたアイリーンが遠慮がちに口を開いた。


「あの……」

「何だ」

「皆さんもご一緒していただけませんか」


 侍女たちが揃って固まる。


「せっかく教えていただいたのですから」


 アイリーンは少し困ったように微笑んだ。


「私だけでは申し訳なくて……」

「グレイ嬢、ですが——」


 侍女たちは明らかに遠慮している。侯爵と同席など、本来なら考えられないのだろう。だがギルバートはあっさりと言った。


「構わない」


 その瞬間、侍女たちの顔がぱっと明るくなる。


「ありがとうございます……!」


 嬉しそうな声が重なった。再び馬車が動き出す。その隣で、アイリーンは小さく窓の外を眺めていた。だが、先ほどまでとは違う。ほんの少しだけ頬が緩み、青い瞳には隠しきれない期待が滲んでいる。ギルバートは静かにそれを見ていた。ドレスを選んでいた時より、今の方がずっと良い顔をしている。そんなことを思った自分に、僅かに驚く。


 王都の街を回る時間は、ギルバートが思っていたより長く続いた。

 最初に立ち寄った甘味店は、王都でも評判の店らしく、店内は若い令嬢たちで賑わっていた。硝子のショーケースには色鮮やかな果実のタルトや冷やしたミルク菓子が並び、侍女たちは目を輝かせている。


「グレイ嬢、こちらが一番人気なんです!」

「この果実水もおすすめですよ!」


 次々と勧められ、アイリーンは困ったようにしながらも小さく礼を言っていた。最初こそ遠慮していたが、冷たい果実水を口にした瞬間、僅かに目を見開く。


「……美味しいです」


 その小さな呟きだけで、侍女たちは嬉しそうに顔を見合わせた。ギルバートはそんな光景を黙って見ている。こんなふうに誰かの機嫌を気にしたことなど、今まで一度もない。だが、不快ではなかった。むしろ、アイリーンが少しずつ表情を緩めていくことへ安堵している自分がいる。それを、ギルバートはまだ同情の延長だと思っていた。

 甘味店を出たあとも、一行は王都の街を歩き回った。花屋では、店先へ並ぶ白い花々へアイリーンの視線が留まる。


「気になるものがあるのか」


 問えば、アイリーンは少し迷ったあと、小さく頷いた。


「……ジャスミンが好きなのです」


 白く小さな花だった。華やかではない。だが、近づくと甘い香りが静かに漂う。アイリーンは花へそっと指先を寄せる。


「……落ち着く香りで」


 風に揺れる白い花を見つめる横顔は、どこか穏やかだった。ギルバートは黙ってその姿を見ている。目立つ訳ではないのに、気づけば記憶へ残る。そんなところまで、妙に彼女らしいと思った。途中で立ち寄った書店では、アイリーンが棚を見上げたまま静かに立ち止まっていた。


「本が好きなのか」

「……はい」


 答えたあと、アイリーンはゆっくり本棚へ視線を向ける。


「知らない景色を見られる気がして」


 閉ざされた屋敷の中で、彼女は本を通して外の世界を見ていたのだろう。そう思うと、胸の奥が僅かに重くなる。

 侍女たちは別の棚で流行小説を囲んで盛り上がっている。そんな騒がしさの中、アイリーンは一冊の詩集をそっと手に取った。ページを開く指先はどこか大事そうで、静かな横顔には穏やかな熱が宿っている。ギルバートは何も言わなかったが、その姿から目を離せなくなっていた。


 王都の中央通りから少し外れた頃、小さな焼き菓子店が視界へ入った。石造りの古い店だった。大通りの華やかな店とは違い、どこか落ち着いた空気が漂っている。店先へ並ぶ焼き菓子を見た瞬間、アイリーンがふと足を止めた。


「知っているのか」


 視線の先には、薄く焼かれた蜂蜜菓子が並んでいる。


「……はい」


 アイリーンは小さく頷いた。


「母が生きていた頃、時々作ってくれていました」


 その声音は、先ほどまでより少しだけ柔らかかった。店員から受け取った菓子を、アイリーンは大事そうに口へ運ぶ。次の瞬間、ほんの少しだけ頬が緩んだ。その顔に、ギルバートは無意識に視線を止める。いつもの静かな令嬢の顔ではない。年相応の、十五歳の少女の顔だった。


 最後に立ち寄ったのは、小さなガラス細工店だった。陽光を受けて無数の硝子が輝く店内を、アイリーンは静かに見回していた。その時だった。ふと、一つの硝子細工の前で彼女の足が止まる。透明な小鳥だった。翼を広げた、小さな硝子の鳥。光を受けるたび淡く色を変え、今にも飛び立ちそうに見える。

 アイリーンは何も言わなかった。ただ、静かに見つめている。ギルバートはその視線を見て、小さく息をつく。


「それを」


 店員へ声を掛けようとした瞬間、アイリーンがはっとしたように顔を上げる。


「お待ちください」

「何だ」

「甘い物もいただきましたのに……これ以上は受け取れません」


 遠慮がちな声音だった。ギルバートは硝子の小鳥へ視線を戻す。


「だが、欲しいのだろう」

「……素敵だとは思います」


 硝子の小鳥から彼女の目は離れなかった。ギルバートは迷いなく告げる。


「では、受け取れ」


 アイリーンが戸惑ったように瞬きをする。


「これは遠慮をしなくなる練習だ」


 あまりにも真面目な口調だった。その瞬間、アイリーンが珍しく声を漏らして笑った。


「……そのような練習があるのですね」


 鈴が転がるような、小さな笑い声だった。ギルバートは何故か少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じていた。


 ◆

 

 ガラス細工店を出る頃には、空はすっかり茜色へ染まり始めていた。王都の石畳も、行き交う人々も、すべてが夕焼けの色へ溶け込んでいる。侍女たちは買い込んだ荷物を抱えながら楽しげに話していた。


「本当に素敵なお店ばかりでしたね」

「グレイ嬢にあのお色のドレス、とてもお似合いでした!」


 そんな声を背に聞きながら、ギルバートはふと西の空へ視線を向けた。高台がある。王都を一望できる、小さな広場だった。


「……ギルバート様?」

「少し寄る」


 短く告げ、それから後ろを振り返る。


「お前たちは馬車へ戻れ」


 侍女たちは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに頭を下げた。

 去っていく足音を背に、ギルバートは石段へ足を向ける。アイリーンも静かに後を追った。石段を上るにつれ、王都の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。代わりに吹き抜ける風の音だけが耳へ残った。やがて視界が開ける。


 夕焼けだった。赤金に染まった空が、王都全体を包み込んでいる。石造りの街並み。遠くを流れる川。尖塔の影。西日を受けて輝く窓硝子。すべてが深い金色の光へ溶け込んでいた。高台を抜ける風は涼しく、夏の熱を静かに攫っていく。アイリーンが小さく息を呑んだ。


「……綺麗」


 ぽつりと零れた声だった。ギルバートは何も言わず、その景色を見下ろす。

 この場所へ来るのは久しぶりだった。

 十五で突然ヴィリアーズ侯爵となった頃、何度もここへ来た。実母は、父との政略結婚でヴィリアーズ家へ嫁いできた。愛のない結婚だったと、幼い頃のギルバートにも分かるほどに。父は家へ寄りつかず、母は静かに心を病んでいった。幼い自分へ向けられる苛立ちも少なくなかったが、それでも母は時折、泣きそうな顔でギルバートを抱きしめた。だから嫌いにはなれなかった。


 母が亡くなったあと父は再婚し、新しい妻と幼い弟を迎えた。だがそこに、自分の居場所はなかった。侯爵家の嫡男でありながら、ギルバートはまるで最初から存在しない者のように扱われていた。だから本来なら、そのまま王都騎士団へ入るつもりだった。家督は弟が継ぎ、自分は剣だけを振るい、生きていこうと思っていた。


 だがすべては、突然終わった。父も継母も弟も死に、気づけばヴィリアーズ侯爵の座が落ちてきた。やり場のない感情を抱えた時、この夕焼けだけは何も問わずそこにあった。それは今のアイリーンにも、どこか似ている気がした。十五という年齢には、本来もっと別の時間があったはずだ。笑って、好きなものを選び、守られていていい年頃だった。だが彼女もまた、突然運命を背負わされている。だからなのかもしれない。放っておけないと思ってしまうのは。


 誰かをここへ連れてきたことは、一度もない。

 風が吹き抜け、アイリーンの淡い金髪を揺らす。彼女は眩しげに目を細めながら、しばらく夕焼けを見つめていた。やがて、不意に小さく呟く。


「……似てる」

「何にだ」


 アイリーンははっとしたように視線を揺らした。


「それは、その……」


 珍しく言葉を探すように口ごもる。やがて、ほんの少しだけ困ったように笑った。


「……ギルバート様の瞳に」


 一瞬、ギルバートは言葉を失った。深い金色の夕焼け。それと自分を重ねられるなど、考えたこともなかった。戦場では恐れられ、黒薔薇侯爵と呼ばれてきた瞳だ。だが今、アイリーンはそれを“綺麗なもの”として見ている。その事実が、胸の奥へ静かに落ちていく。何故か、少しだけ報われたような気がした。


 アイリーンは照れたように小さく視線を逸らしている。その表情もまた、ギルバートが初めて見るものだった。今日一日で、彼は何度“初めて”を見ただろう。静かな横顔。年相応の笑顔。甘い菓子に頬を緩める姿。花へ触れる指先。そして今の、少し照れたような表情。


 この数ヶ月で、様々なものが変わっていた。だが、それは悪いことばかりではなかった。後見人を引き受けた時、こんな日々を送ることになるとは思ってもいなかった。夕焼けの中へ立つアイリーンを見つめながら、ギルバートは静かに息を吐く。


「……アイリーン」


 名を呼べば、青い瞳が自分を捉える。呼ぶと決めたはずなのに、自分ではほとんど口にしていなかったことへ今更気づいた。彼女は遠慮がちにも、何度も自分の名を呼んでいたというのに。


「……綺麗だな」


 何を指しているのか、自分でも分からなかった。夕焼けか。景色か。それとも——。

 ただ、もう一度その名を呼びたくなった。


「アイリーン」

「はい、ギルバート様」


 胸の奥にあるこの感情へ、まだ名前はつけられなかった。


 ◆


 ヴィリアーズ侯爵邸へ戻った頃には、空はすっかり夜へ変わっていた。夏とはいえ、夜風は昼間よりずっと涼しい。長い外出だったはずだが、不思議と疲労感は薄かった。


 アイリーンを部屋まで送り届ける。その横顔に、以前のような張り詰めた硬さはなかった。夕焼けの名残を映したように白い頬には薄く色が差し、青い瞳もどこか柔らかく輝いている。王都を歩き回った高揚が、まだ残っているのだろう。今にも消えてしまいそうだった少女へ、ようやく年相応の色が戻り始めていた。


「本日は、ありがとうございました」

「気にするな。今日は早く休め」

「……はい。おやすみなさいませ、ギルバート様」


 その名を呼ばれるたび、まだ少しだけ落ち着かない。

 ギルバートは短く頷き、その場を後にした。執務室へ入ると、既にエドガーが待機していた。机の上には書類が積み上がっている。だがこちらを見るなり、エドガーはどこか含みのある笑みを浮かべた。


「随分と遅いお戻りで」

「……今こうして執務をしている。何か問題でも?」

「そちらに関しては大変ありがたいことですが」


 エドガーは肩を竦める。


「そうではなく。グレイ嬢へ贈り物をしたとか」


 ギルバートの手が止まった。


「……何故それを」

「ご一緒していた侍女たちが大騒ぎでしたので」


 思わず沈黙する。自分はそんなに騒がれるようなことをしただろうか。だが普段の自分を考えれば、その反応も理解できなくはない。ギルバートは小さく息を吐き、書類へ視線を落とした。


「彼女は、昔の俺と少し似ている」


 気づけばそんな言葉が口をついていた。エドガーは何も言わない。ただ静かに主の言葉を待っている。だがギルバートは続けなかった。

 どうも今日は感傷的すぎる。あの懐かしい夕焼けを見たせいだろうか。もっと冷静であるべきだ。


「……書類はこれだけか」

「いえ、まだございます」


 エドガーの表情も仕事のものへ戻る。


「それと、西側でまた少々不審な動きが」


 ギルバートの瞳から余分な熱が消えた。黒薔薇侯爵としての顔だった。静かな執務室で、再び仕事の話が始まる。西方の不穏。騎士団の配置。増強予定の軍備。どれもヴィリアーズ侯爵として向き合うべき現実だった。

 それでも。深い金色の夕焼けと、そこで自分の名を呼んだ声だけは、いつまでも瞼の裏から離れなかった。

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