第3章 琥珀色の夕景
季節はすっかり夏へ移り変わっていた。深い森を渡る風も冬の鋭さを失い、ヴィリアーズ領には短い夏特有の穏やかな空気が流れている。
アイリーンがヴィリアーズ家へ来てから、数か月が経っていた。最初こそ、侯爵であるギルバートとアイリーンが共に食事を取ることへ使用人たちは戸惑いを隠せずにいた。だが、人間とは慣れる生き物らしい。今では給仕たちも当然のように二人分の食器を並べ、侍女たちも自然にアイリーンを「こちら側」の人間として扱うようになっていた。そして、それと同時に変わったことがもう一つある。
「旦那様、グレイ嬢へ少々書類を渡しすぎではありませんか」
「昨夜も遅くまで起きておられたようです」
「本日は少し休ませた方が——」
何故か、使用人たちがやたらとアイリーンのことを報告してくるようになった。以前なら必要最低限しか話しかけてこなかった者たちが、最近では当たり前のようにアイリーンについて口を挟んでくる。
執務机へ視線を落としたまま、ギルバートは僅かに眉を寄せた。
「……彼らはいつから私へ意見するようになった」
書類整理をしていたエドガーが小さく笑う。
「グレイ嬢が来てからでしょうね」
「意味が分からん」
「使用人たちも安心しているんですよ」
さらりと言われ、ギルバートは怪訝そうに視線を向ける。だがエドガーはそれ以上説明する気はないらしい。
「それより」
机上へ新しい書類を置きながら、エドガーは話題を変える。
「マダム・リボンから進言が」
「またか」
「今回は正当なものです」
エドガーは僅かに苦笑した。
「グレイ嬢の衣装が不足しております」
ギルバートはそこでようやく手を止めた。確かに、アイリーンの持ち物は驚くほど少なかった。ヴィリアーズ家へ来た当初から、ドレスも数着しか見ていない。どれも質自体は悪くないが、流行は少し古く、普段着回していることも分かる程度には消耗していた。
「夏物もほとんどございません。このままでは社交の場へ出せないと、マダム・リボンが」
社交。その言葉に、ギルバートは小さく視線を細める。
確かに、いずれ必要になる。アイリーン・グレイは、ただ保護されているだけの存在ではない。後見下にあるとはいえ、王家の血を引く伯爵令嬢だ。将来的に社交界へ出ることも避けられない。
「仕立て屋を呼べばいいだろう」
「それが、王都の店でなければ揃わないものも多いそうで」
エドガーは淡々と続ける。
「加えて、グレイ嬢は今後正式に夜会へ出る可能性もございます。マダム・リボンとしては、一度きちんと王都で見立てておきたいのでしょう」
ギルバートは小さく息を吐いた。面倒だ。だが必要なのも事実だった。
「護衛は」
「女性だけで王都へ出す訳にも参りません」
即答だった。
「今のグレイ嬢は嫌でも目立ちます。王家の血筋の件もありますし」
そこでエドガーは僅かに口元を緩める。
「ギルバート様が同行されれば、最も安全かと」
嫌な言い方だ、とギルバートは思った。だが否定できない。しばらく沈黙した後、ギルバートは諦めたように書類を閉じる。
「……分かった」
その返答を聞き、エドガーはどこか面白そうに目を細めた。
◆
話は、驚くほどあっさり決まった。マダム・リボンは当然のように日程を組み、侍女たちは必要な荷物をまとめ始め、エドガーは既に王都側へ連絡まで回している。気づけば、数日後には王都へ向かうことになっていた。
当日の朝。夏の柔らかな陽射しが城門前へ差し込む中、準備された馬車の前でアイリーンはどこか落ち着かなげに立っていた。
「本当に、私まで王都へ行く必要が……?」
「ある」
短く返しながら、ギルバートは当然のように馬車へ乗り込む。その様子に、アイリーンが小さく瞬きをした。
「侯爵様は別の馬車では」
「護衛上、同じ馬車の方が安全だ」
あまりにも即答だった。アイリーンは一瞬だけ言葉を失ったようだったが、それ以上は何も言わず静かに頷く。
「……失礼いたします」
小さく裾を持ち上げ、馬車へ乗り込む姿は相変わらず無駄がない。向かいへ腰掛けたアイリーンは、僅かに姿勢を正したあと静かに手を重ねた。やがて馬車がゆっくり動き出す。揺れる車内に沈黙が落ちた。だが、不思議と息苦しさはない。アイリーンは窓の外を眺めていた。流れていく森の景色へ静かに視線を向けている。その横顔は穏やかで、相変わらず不思議なほど気配が薄い。
気づけば、そんな彼女をぼんやり眺めていた。アイリーンは視線に気づいていないらしい。時折揺れる陽射しが淡い金の髪へ落ち、そのたびに硝子細工のような青い瞳が静かに光を映す。近くで見るほど、その美しさは妙に現実味が薄かった。そんなことを考えているうちに、遠くに王都の城壁が見え始める。アイリーンが小さく目を見開いた。
「……王都」
その声は、ほんの少しだけ年相応に聞こえた。ギルバートは窓の外へ視線を向けたまま口を開く。
「王都は珍しいか」
アイリーンは僅かに瞬きをする。
「……ええ」
静かな返答だった。
「ずっと伯爵家の屋敷におりましたので」
ギルバートは何も言わなかった。だが、その短い一言だけで十分だった。社交界へも出ていない。王都へ滞在した経験もほとんどないのだろう。考えてみれば当然だった。王城で初めて会ったあの日も、彼女は周囲を見る余裕などなかったに違いない。突然後見人が決まり、そのままヴィリアーズ家へ連れて来られたのだから。
アイリーンは再び窓の外へ視線を向ける。近づく城壁。行き交う馬車。夏の日差しを反射する白い石畳。その横顔は相変わらず静かだったが、青い瞳だけは僅かに揺れていた。まるで初めて見る世界を、一つひとつ確かめるように。
◆
王都へ到着した後、一行はそのまま仕立て店へ向かった。エドガーが事前に話を通していたらしく、馬車が止まるや否や店の者たちが慌ただしく出迎えに現れる。
「ヴィリアーズ侯爵様、お待ちしておりました」
通されたのは王都でも評判の高い店だった。夏の陽射しを受けて輝く硝子窓、繊細な刺繍の施された布地、壁一面へ並ぶドレス。侍女たちが選んだ“今の王都で最も流行している店”なのだろう。
店内へ足を踏み入れた瞬間、空気が僅かに揺れた。あの黒薔薇侯爵が女性を伴っている——そんな驚きが、視線の動きだけで伝わってくる。だがギルバートは気に留めなかった。一方のアイリーンは、僅かに動きを止めている。気後れしているのだと、ギルバートには分かった。
「侯爵様、こちらへ」
店の者へ促されても、アイリーンはどこか遠慮がちに立ち尽くしている。
「……ここまでしていただく必要は」
「必要なことだ。ヴィリアーズ侯爵家が後見している以上、粗末なものを着せる訳にはいかないだろう」
アイリーンは何か言いかけたが、結局小さく口を閉ざした。
そこからは慌ただしかった。布地が運ばれ、採寸が始まり、侍女たちが次々とドレスを合わせていく。淡い色も深い色も不思議なほど似合った。元々整った顔立ちをしているせいだろう。店の者たちも次第に熱を帯び始める。
「こちらのお色もお似合いですわ」
「この刺繍なら瞳のお色が映えます」
「髪飾りも合わせましょう」
だが、その中心にいるアイリーンだけは、何故か浮かない顔をしていた。ギルバートは静かに眉を寄せる。
「気に入らないか」
「いえ……」
返答は曖昧だった。アイリーンは僅かに視線を伏せ、それから躊躇うように自分の髪へ触れる。
「その……髪が短いので」
小さな声だった。ギルバートは一瞬だけ彼女を見る。肩へ触れる程度で切り揃えられた淡い金髪。確かに令嬢としては短い。だが、それだけだ。
「それが何だ」
あまりにも自然に返され、アイリーンが僅かに目を見開く。
「ですが、令嬢としては……」
「あなたは十分目を引く」
淡々とした声音だった。そこに甘さも気遣いもない。ただ事実を述べているだけの口調。一瞬、店内が静まり返った。だがギルバート本人だけは何故そんな空気になったのか理解していないらしい。アイリーンは言葉を失ったようにギルバートを見つめていた。やがて、ゆっくりと視線を伏せる。
「……そう、でしょうか」
その声音は、どこか戸惑っているようにも聞こえた。しかし、先ほどまで伏せられていた青い瞳が、今度は逃げずに鏡の中の自分を見ていた。
それからもしばらく、店の中は慌ただしかった。次々と新しい布地が運び込まれ、侍女たちは楽しげに色を選び、店員たちは夢中になってアイリーンを着飾っていく。淡い水色、柔らかな藤色、深みのある緑。どれを纏ってもよく似合った。最終的には、ギルバートですら少し呆れるほどの量になった。だがアイリーンは、もう何も言わなかった。遠慮がちではあったものの、否定もしない。ただ静かに採寸を受け、鏡へ向かい、侍女たちの言葉へ小さく頷いている。
店を出る頃には、夏の日差しは少し傾き始めていた。再び馬車へ乗り込む。行きと同じく、車内には静かな空気が流れていた。しばらくして、ギルバートが口を開く。
「髪を気にしていただろう」
アイリーンの肩が僅かに揺れた。
「あなたが望んだものではないように見えた。何かあったのか」
「……それは」
言い淀む声。ギルバートはそこで小さく息を吐いた。
「不躾だったか。すまない」
「いえ」
アイリーンは静かに首を振る。
「大したことではないのです」
だが、その声は少しだけ弱かった。
「継姉が髪飾りを欲しがっておりましたので……売られただけです」
あまりにも淡々とした言い方だった。だからこそ、ギルバートは何も言えなくなる。売られた。令嬢の髪がどれほど大切なものかなど、ギルバートでも知っている。
「……そうか」
結局、それ以外の言葉は出てこなかった。沈黙が落ちる。馬車の揺れる音だけが静かに響いていた。
やがてギルバートは、唐突に口を開く。
「あなたの好きなものは何だ」
アイリーンが瞬きをする。
「……好きなもの、ですか」
「嫌なことを思い出させた詫びだ」
あまりにも不器用な言い方だった。だがギルバートは本気なのだろう。そう分かるからこそ、アイリーンは僅かに口元を緩める。
「甘いものが好きです」
小さな返答だった。
ギルバートは少しだけ眉を上げる。
「欲がないな」
侯爵家なら宝石でも何でも与えられる。そんな意味を含んだ声音だった。だがアイリーンは小さく首を振った。
「それが良いのです」
青い瞳が静かに細められる。
「もう、辛いことなど忘れましたから」
その笑みは淡かった。だが、ギルバートは初めて思う。この少女には、もっと笑っていてほしいと。
◆
馬車の中での会話を終えたあと、アイリーンは再び静かに窓の外を眺めていた。だが先ほどより表情は柔らかい。窓の外へ向ける視線にも、どこか落ち着きがあった。ギルバートはそんな横顔を見ながら、ふと先ほどの会話を思い出す。
『甘いものが好きです』
小さな声だった。あまりにささやかな願いだったせいか、妙に頭へ残っている。ギルバートは不意に窓を叩き、馬車を止めさせた。外で随行していた侍女たちが驚いたように振り返る。
「この辺りで流行っている甘味は何だ」
一瞬、沈黙が落ちた。侍女たちは目を丸くしている。黒薔薇侯爵が、甘味。しかも“流行り”を聞いている。その事実だけで十分衝撃だったらしい。
「え、ええと……!」
最初に我へ返った若い侍女が、信じられないほど嬉しそうに身を乗り出した。
「でしたら今は果実のタルトが人気です! それと蜂蜜菓子も……あ、冷やしたミルク菓子のお店も有名で……!」
そこから先は止まらなかった。次々と店の名前が飛び出し、別の侍女まで会話へ混ざり始める。
「南通りの焼き菓子店もおすすめです!」
「今の季節は桃の砂糖漬けが——」
「あと王都限定の——」
ギルバートは僅かに圧倒されながらも、小さく息を吐いた。
「……分かった。その店へ向かえ」
御者へ指示を出す。すると、それまで静かに聞いていたアイリーンが遠慮がちに口を開いた。
「あの……」
「何だ」
「皆さんもご一緒していただけませんか」
侍女たちが揃って固まる。
「せっかく教えていただいたのですから」
アイリーンは少し困ったように微笑んだ。
「私だけでは申し訳なくて……」
「グレイ嬢、ですが——」
侍女たちは明らかに遠慮している。侯爵と同席など、本来なら考えられないのだろう。だがギルバートはあっさりと言った。
「構わない」
その瞬間、侍女たちの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます……!」
嬉しそうな声が重なった。再び馬車が動き出す。その隣で、アイリーンは小さく窓の外を眺めていた。だが、先ほどまでとは違う。ほんの少しだけ頬が緩み、青い瞳には隠しきれない期待が滲んでいる。ギルバートは静かにそれを見ていた。ドレスを選んでいた時より、今の方がずっと良い顔をしている。そんなことを思った自分に、僅かに驚く。
王都の街を回る時間は、ギルバートが思っていたより長く続いた。
最初に立ち寄った甘味店は、王都でも評判の店らしく、店内は若い令嬢たちで賑わっていた。硝子のショーケースには色鮮やかな果実のタルトや冷やしたミルク菓子が並び、侍女たちは目を輝かせている。
「グレイ嬢、こちらが一番人気なんです!」
「この果実水もおすすめですよ!」
次々と勧められ、アイリーンは困ったようにしながらも小さく礼を言っていた。最初こそ遠慮していたが、冷たい果実水を口にした瞬間、僅かに目を見開く。
「……美味しいです」
その小さな呟きだけで、侍女たちは嬉しそうに顔を見合わせた。ギルバートはそんな光景を黙って見ている。こんなふうに誰かの機嫌を気にしたことなど、今まで一度もない。だが、不快ではなかった。むしろ、アイリーンが少しずつ表情を緩めていくことへ安堵している自分がいる。それを、ギルバートはまだ同情の延長だと思っていた。
甘味店を出たあとも、一行は王都の街を歩き回った。花屋では、店先へ並ぶ白い花々へアイリーンの視線が留まる。
「気になるものがあるのか」
問えば、アイリーンは少し迷ったあと、小さく頷いた。
「……ジャスミンが好きなのです」
白く小さな花だった。華やかではない。だが、近づくと甘い香りが静かに漂う。アイリーンは花へそっと指先を寄せる。
「……落ち着く香りで」
風に揺れる白い花を見つめる横顔は、どこか穏やかだった。ギルバートは黙ってその姿を見ている。目立つ訳ではないのに、気づけば記憶へ残る。そんなところまで、妙に彼女らしいと思った。途中で立ち寄った書店では、アイリーンが棚を見上げたまま静かに立ち止まっていた。
「本が好きなのか」
「……はい」
答えたあと、アイリーンはゆっくり本棚へ視線を向ける。
「知らない景色を見られる気がして」
閉ざされた屋敷の中で、彼女は本を通して外の世界を見ていたのだろう。そう思うと、胸の奥が僅かに重くなる。
侍女たちは別の棚で流行小説を囲んで盛り上がっている。そんな騒がしさの中、アイリーンは一冊の詩集をそっと手に取った。ページを開く指先はどこか大事そうで、静かな横顔には穏やかな熱が宿っている。ギルバートは何も言わなかったが、その姿から目を離せなくなっていた。
王都の中央通りから少し外れた頃、小さな焼き菓子店が視界へ入った。石造りの古い店だった。大通りの華やかな店とは違い、どこか落ち着いた空気が漂っている。店先へ並ぶ焼き菓子を見た瞬間、アイリーンがふと足を止めた。
「知っているのか」
視線の先には、薄く焼かれた蜂蜜菓子が並んでいる。
「……はい」
アイリーンは小さく頷いた。
「母が生きていた頃、時々作ってくれていました」
その声音は、先ほどまでより少しだけ柔らかかった。店員から受け取った菓子を、アイリーンは大事そうに口へ運ぶ。次の瞬間、ほんの少しだけ頬が緩んだ。その顔に、ギルバートは無意識に視線を止める。いつもの静かな令嬢の顔ではない。年相応の、十五歳の少女の顔だった。
最後に立ち寄ったのは、小さなガラス細工店だった。陽光を受けて無数の硝子が輝く店内を、アイリーンは静かに見回していた。その時だった。ふと、一つの硝子細工の前で彼女の足が止まる。透明な小鳥だった。翼を広げた、小さな硝子の鳥。光を受けるたび淡く色を変え、今にも飛び立ちそうに見える。
アイリーンは何も言わなかった。ただ、静かに見つめている。ギルバートはその視線を見て、小さく息をつく。
「それを」
店員へ声を掛けようとした瞬間、アイリーンがはっとしたように顔を上げる。
「お待ちください」
「何だ」
「甘い物もいただきましたのに……これ以上は受け取れません」
遠慮がちな声音だった。ギルバートは硝子の小鳥へ視線を戻す。
「だが、欲しいのだろう」
「……素敵だとは思います」
硝子の小鳥から彼女の目は離れなかった。ギルバートは迷いなく告げる。
「では、受け取れ」
アイリーンが戸惑ったように瞬きをする。
「これは遠慮をしなくなる練習だ」
あまりにも真面目な口調だった。その瞬間、アイリーンが珍しく声を漏らして笑った。
「……そのような練習があるのですね」
鈴が転がるような、小さな笑い声だった。ギルバートは何故か少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じていた。
◆
ガラス細工店を出る頃には、空はすっかり茜色へ染まり始めていた。王都の石畳も、行き交う人々も、すべてが夕焼けの色へ溶け込んでいる。侍女たちは買い込んだ荷物を抱えながら楽しげに話していた。
「本当に素敵なお店ばかりでしたね」
「グレイ嬢にあのお色のドレス、とてもお似合いでした!」
そんな声を背に聞きながら、ギルバートはふと西の空へ視線を向けた。高台がある。王都を一望できる、小さな広場だった。
「……ギルバート様?」
「少し寄る」
短く告げ、それから後ろを振り返る。
「お前たちは馬車へ戻れ」
侍女たちは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに頭を下げた。
去っていく足音を背に、ギルバートは石段へ足を向ける。アイリーンも静かに後を追った。石段を上るにつれ、王都の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。代わりに吹き抜ける風の音だけが耳へ残った。やがて視界が開ける。
夕焼けだった。赤金に染まった空が、王都全体を包み込んでいる。石造りの街並み。遠くを流れる川。尖塔の影。西日を受けて輝く窓硝子。すべてが深い金色の光へ溶け込んでいた。高台を抜ける風は涼しく、夏の熱を静かに攫っていく。アイリーンが小さく息を呑んだ。
「……綺麗」
ぽつりと零れた声だった。ギルバートは何も言わず、その景色を見下ろす。
この場所へ来るのは久しぶりだった。
十五で突然ヴィリアーズ侯爵となった頃、何度もここへ来た。実母は、父との政略結婚でヴィリアーズ家へ嫁いできた。愛のない結婚だったと、幼い頃のギルバートにも分かるほどに。父は家へ寄りつかず、母は静かに心を病んでいった。幼い自分へ向けられる苛立ちも少なくなかったが、それでも母は時折、泣きそうな顔でギルバートを抱きしめた。だから嫌いにはなれなかった。
母が亡くなったあと父は再婚し、新しい妻と幼い弟を迎えた。だがそこに、自分の居場所はなかった。侯爵家の嫡男でありながら、ギルバートはまるで最初から存在しない者のように扱われていた。だから本来なら、そのまま王都騎士団へ入るつもりだった。家督は弟が継ぎ、自分は剣だけを振るい、生きていこうと思っていた。
だがすべては、突然終わった。父も継母も弟も死に、気づけばヴィリアーズ侯爵の座が落ちてきた。やり場のない感情を抱えた時、この夕焼けだけは何も問わずそこにあった。それは今のアイリーンにも、どこか似ている気がした。十五という年齢には、本来もっと別の時間があったはずだ。笑って、好きなものを選び、守られていていい年頃だった。だが彼女もまた、突然運命を背負わされている。だからなのかもしれない。放っておけないと思ってしまうのは。
誰かをここへ連れてきたことは、一度もない。
風が吹き抜け、アイリーンの淡い金髪を揺らす。彼女は眩しげに目を細めながら、しばらく夕焼けを見つめていた。やがて、不意に小さく呟く。
「……似てる」
「何にだ」
アイリーンははっとしたように視線を揺らした。
「それは、その……」
珍しく言葉を探すように口ごもる。やがて、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「……ギルバート様の瞳に」
一瞬、ギルバートは言葉を失った。深い金色の夕焼け。それと自分を重ねられるなど、考えたこともなかった。戦場では恐れられ、黒薔薇侯爵と呼ばれてきた瞳だ。だが今、アイリーンはそれを“綺麗なもの”として見ている。その事実が、胸の奥へ静かに落ちていく。何故か、少しだけ報われたような気がした。
アイリーンは照れたように小さく視線を逸らしている。その表情もまた、ギルバートが初めて見るものだった。今日一日で、彼は何度“初めて”を見ただろう。静かな横顔。年相応の笑顔。甘い菓子に頬を緩める姿。花へ触れる指先。そして今の、少し照れたような表情。
この数ヶ月で、様々なものが変わっていた。だが、それは悪いことばかりではなかった。後見人を引き受けた時、こんな日々を送ることになるとは思ってもいなかった。夕焼けの中へ立つアイリーンを見つめながら、ギルバートは静かに息を吐く。
「……アイリーン」
名を呼べば、青い瞳が自分を捉える。呼ぶと決めたはずなのに、自分ではほとんど口にしていなかったことへ今更気づいた。彼女は遠慮がちにも、何度も自分の名を呼んでいたというのに。
「……綺麗だな」
何を指しているのか、自分でも分からなかった。夕焼けか。景色か。それとも——。
ただ、もう一度その名を呼びたくなった。
「アイリーン」
「はい、ギルバート様」
胸の奥にあるこの感情へ、まだ名前はつけられなかった。
◆
ヴィリアーズ侯爵邸へ戻った頃には、空はすっかり夜へ変わっていた。夏とはいえ、夜風は昼間よりずっと涼しい。長い外出だったはずだが、不思議と疲労感は薄かった。
アイリーンを部屋まで送り届ける。その横顔に、以前のような張り詰めた硬さはなかった。夕焼けの名残を映したように白い頬には薄く色が差し、青い瞳もどこか柔らかく輝いている。王都を歩き回った高揚が、まだ残っているのだろう。今にも消えてしまいそうだった少女へ、ようやく年相応の色が戻り始めていた。
「本日は、ありがとうございました」
「気にするな。今日は早く休め」
「……はい。おやすみなさいませ、ギルバート様」
その名を呼ばれるたび、まだ少しだけ落ち着かない。
ギルバートは短く頷き、その場を後にした。執務室へ入ると、既にエドガーが待機していた。机の上には書類が積み上がっている。だがこちらを見るなり、エドガーはどこか含みのある笑みを浮かべた。
「随分と遅いお戻りで」
「……今こうして執務をしている。何か問題でも?」
「そちらに関しては大変ありがたいことですが」
エドガーは肩を竦める。
「そうではなく。グレイ嬢へ贈り物をしたとか」
ギルバートの手が止まった。
「……何故それを」
「ご一緒していた侍女たちが大騒ぎでしたので」
思わず沈黙する。自分はそんなに騒がれるようなことをしただろうか。だが普段の自分を考えれば、その反応も理解できなくはない。ギルバートは小さく息を吐き、書類へ視線を落とした。
「彼女は、昔の俺と少し似ている」
気づけばそんな言葉が口をついていた。エドガーは何も言わない。ただ静かに主の言葉を待っている。だがギルバートは続けなかった。
どうも今日は感傷的すぎる。あの懐かしい夕焼けを見たせいだろうか。もっと冷静であるべきだ。
「……書類はこれだけか」
「いえ、まだございます」
エドガーの表情も仕事のものへ戻る。
「それと、西側でまた少々不審な動きが」
ギルバートの瞳から余分な熱が消えた。黒薔薇侯爵としての顔だった。静かな執務室で、再び仕事の話が始まる。西方の不穏。騎士団の配置。増強予定の軍備。どれもヴィリアーズ侯爵として向き合うべき現実だった。
それでも。深い金色の夕焼けと、そこで自分の名を呼んだ声だけは、いつまでも瞼の裏から離れなかった。




