第2章 静かな才能
ヴィリアーズ侯爵家の執務室には、紙を捲る音だけが静かに響いていた。窓の外はすでに薄暗い。山間の領地は日が落ちるのが早く、夕暮れはあっという間に夜へ沈んでいく。
机上には国境付近の報告書が山積みになっていた。
「西側の見張り塔からも報告が上がっています」
エドガーが淡々と言う。
「先月より明らかに人の動きが増えていると」
「商人ではなく?」
「騎馬です。数は多くありませんが、妙に統率が取れている」
ギルバートは報告書へ視線を落としたまま、小さく息を吐いた。ここ数か月、西方国境地帯の動きが不自然だった。露骨な侵略行為はない。だが、山脈付近では偵察が増えている。補給路らしき動きも確認されていた。
嫌な空気だった。
「南側は」
「ルヴェリアとの交易路は問題ありません。ただ、西側へ騎士を割いている分、警備の余裕は減っています」
「……やはり足りないか」
「現状でも回せていますが、長引けば厳しくなります」
淡々とした会話だった。だが、互いに結論は分かっている。軍を増やす必要がある。だからこそ、レオンハルトの提示した条件は無視できなかった。
ヴィリアーズ家は代々、帝国西方国境と交易路の防衛を担っている。山脈地帯を越えた先には小国群が点在し、情勢は常に不安定だった。一方で、南西には海洋国家ルヴェリア王国が存在する。王国自体は帝国より遥かに小さい。軍事力も及ばない。だが、ルヴェリアでしか生産できない染色絹は貴族社会において絶大な価値を持っていた。深い海色を宿す絹。光の角度によって色を変える染糸。王都の上級貴族たちは、こぞってルヴェリアの織物を求める。さらに、周辺諸国との通商文書や契約書類には、今なおルヴェリア語が用いられることも多かった。帝国側でそれを正確に扱える者は少ない。そして、その交易管理を担っていたのがグレイ伯爵家だった。
「そういえば」
エドガーはそこで話題を変えた。
「グレイ嬢の件ですが」
その言葉に、ギルバートはふとアイリーンの存在を思い出す。
後見人を引き受けたことは当然覚えている。だが、忙殺されるように執務へ追われるうちに、彼女がこの城で暮らしているという感覚が薄れていた。それほど彼女は静かに城で暮らしていた。歩く音を聞いた記憶がない。気づけば庭にいる。気づけば図書室にいる。使用人たちの間でも、“いつの間にかいる”という話が出るほど存在感が薄かった。まるで、本当に猫でも住み着いているようだ、とギルバートは思う。
「何か問題でも」
「いえ、むしろ逆です。マダム・リボンが随分と気に入っております」
「……あの人が?」
「ええ」
ギルバートはわずかに眉を寄せる。
マダム・リボンはギルバートの乳母だった。幼い頃からヴィリアーズ家に仕え、現在でも使用人たちを取りまとめている。厳格で、妥協を嫌う人物だ。礼儀作法には特に厳しく、気に入らない相手には容赦がない。そんな彼女が“気に入っている”というのは、かなり珍しい。
「教養がしっかりしているそうです。特に言語能力は驚くほどだとか。ルヴェリア語はもちろん、周辺諸国の言葉も一通り理解しているそうですよ」
「十五歳の令嬢が?」
「発音まで完璧だそうです」
ギルバートは書類から顔を上げた。それは少し異常だった。貴族令嬢が外国語を学ぶこと自体は珍しくない。だが、そこまで扱えるとなると話は別だ。
「マナーも問題ありません。所作が綺麗だと侍女たちも感心していました。逆に、ダンスなど社交界の実技だけが抜け落ちているそうです」
「……」
「実際に習う機会がなかったのでしょう」
ギルバートは自然と、あの短い髪を思い出す。流行遅れのドレス。少なすぎた荷物。伯爵令嬢としては不自然なほど質素な持ち物。
「マダム・リボンが珍しく嘆いておりました。“あれほどの子が、随分と酷い扱いを受けてきたのでしょうね”と」
エドガーは少し間を置く。
「“あの子は幸せになるべきだ”とも」
ギルバートは無言のまま目を細めた。厳しい人だ。甘さとは無縁の女性だった。そんなマダム・リボンがそこまで言うとは思わなかった。
「侍女たちからも似たような話が出ています。食事の量が極端に少ないそうです」
「体調でも悪いのか」
「いいえ。ただ、遠慮しているようだと。使用人相手にも控えめで、必要以上を求めません。ですが妙に品があるので、かえって気を遣うそうです」
そこでエドガーは小さく笑った。
「既に侍女たちが随分と構いたがっています」
「お前たちは暇なのか」
「珍しいんですよ、ああいう方は」
執務室に静寂が落ちる。窓の外はすっかり夜だった。
ギルバートはふと、あの青い瞳を思い出す。静かで、折れていない目。放っておけば、そのまま空気のように城へ溶け込んでしまいそうな少女。その存在を、ギルバートはようやく少しずつ認識し始めていた。
◆
数日後、西方国境の空気はさらに悪化していた。夜明け前に到着した伝令によって、ヴィリアーズ侯爵家の城は朝から慌ただしく動いている。執務室へ運び込まれた報告書は既に机の端へ積み上がり、室内には張り詰めた空気が漂っていた。
「押収したのは三通です」
エドガーが机の上へ封書を置く。
「西側の山脈付近で捕えた商隊が所持していました」
ギルバートは封を切られた書簡へ視線を落とした。見慣れない文字列。流れるような曲線を多用した筆記。ルヴェリア語だ。
「内容は」
「まだ解読できておりません」
ギルバートは眉を寄せた。
「通訳は」
「昨夜のうちに姿を消しました」
短い沈黙が落ちる。
ヴィリアーズ家で雇っていた通訳官は、長年ルヴェリアとの交易文書を扱ってきた男だった。だが、今朝になって屋敷から消えていることが判明した。逃亡。それだけで十分だった。
「裏は」
「現在調べています。ただ、西側小国との繋がりがあった可能性が高いかと」
エドガーの声は低い。
西方国境では最近、不自然な動きが続いていた。補給路の増設。騎馬の増加。統率された移動。小競り合いにしては妙だった。そして今、ルヴェリア語で書かれた不審な書簡が出てきた。
「急ぎますか」
「ああ」
内容次第では、西側の情勢が一気に変わる。だが、現在ヴィリアーズ家にはルヴェリア語を正確に読める人間がいない。ギルバートは無言のまま書簡を見下ろした。その時、不意に脳裏へ浮かんだのは、淡い金の髪だった。静かな青い瞳。歩く音のしない少女。アイリーン・グレイ。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのはエドガーだった。
「……おやめください」
ギルバートは視線を上げる。
「まだ何も言っていない」
「顔を見れば分かります」
乳兄弟らしい返答だった。エドガーは小さく息を吐く。
「確かにグレイ嬢なら読めるでしょう。ですが、扱うのは国家機密です」
「分かっている」
「彼女はルヴェリア王家の血を引いています」
「それも理解している」
「ならば尚更です」
エドガーの声音は珍しく硬かった。
「あの方が信用に値する令嬢であることは認めます。ですが、それとこれとは別問題です」
ギルバートは無言だった。エドガーの言うことは正しい。ルヴェリア語を扱える。王家の血を引いている。交易知識もある。——だからこそ危険だ。
だが。
「時間がない」
低く落とした声に、エドガーが眉を寄せる。
「この書簡が本当に西側と繋がっているなら、放置はできん」
「それでも」
「それに」
ギルバートはそこで一度言葉を切る。
「彼女の生命線は、今ヴィリアーズ家が握っている」
静かな声音だった。
「グレイ家の処遇も、後見も、全てこちらへ一任されている。軽率な真似をすれば、自分がどうなるかくらい理解しているはずだ」
エドガーはすぐには返さなかった。正論だった。あまりに合理的で、あまりにギルバートらしい判断。
「……本気ですか」
「ああ」
迷いなく返す。執務室に沈黙が落ちる。やがてエドガーは諦めたように小さく息を吐いた。
「お呼びしますか」
「ここへ」
短く答え、ギルバートは再び机上の書簡へ目を落とす。読めない文字列が並んでいる。それを見下ろしながら、ギルバートはふと考える。あの静かな少女は、この文字をどんな顔で読むのだろうか、と。
◆
アイリーンが執務室へ通されたのは、それから程なくしてのことだった。扉を開けたエドガーの後ろから、静かな足音が入ってくる。
「グレイ嬢をお連れしました」
「ああ」
ギルバートは机越しに視線を向けた。アイリーンは相変わらず気配が薄い。淡い金の髪は肩口で静かに揺れ、青い瞳は落ち着いていた。突然執務室へ呼び出されたというのに、戸惑った様子は見えない。
「座れ」
「失礼いたします」
静かに腰を下ろす。その所作にも乱れはなかった。ギルバートは机上の書簡へ視線を落とす。
「ルヴェリア語の文書が見つかった」
端的に説明する。
「本来なら専門の通訳へ回す案件だが、現在使える人間がいない」
アイリーンは何も言わない。ただ静かに話を聞いている。
「マダム・リボンより、グレイ嬢の言語能力を聞いている」
そこでギルバートは視線を上げた。
「やれるな」
その言葉に、アイリーンは一度だけ瞬きをした。驚いたようにも見えたが、それ以上感情は動かない。数秒の沈黙のあと、静かな声が落ちる。
「……私のような人間に、機密情報をお見せになってもよろしいのですか」
ギルバートはわずかに目を細めた。利用されることへの怒りも悲しみもない。ただ、自分が疑われる立場であることを理解した上で問い返している。やはり普通の令嬢ではない。十五歳の少女が、国家機密という言葉の重さを正確に理解している。そして同時に、“なぜ自分へ回ってきたのか”も分かっていた。
エドガーも無言だった。その問いかけだけで、アイリーンがどれほど聡いか理解したのだろう。執務室へ入ってから初めて、空気がわずかに変わる。ギルバートは書簡を机上へ置いた。
「今の言葉で確信した」
低く落ち着いた声音だった。
「あなたに任せる」
アイリーンは再び小さく瞬きをする。そして静かに頭を下げた。
「……お役に立てるのであれば」
その返答にも感情の揺れはほとんどなかった。淡々としている。だが、それは冷たいのではない。長い時間をかけて、自分の感情を押し殺すことへ慣れ切っている——そんな静けさだった。ギルバートは無意識に視線を細める。あれほどの年齢で、ここまで感情を抑える必要があったのか、と。
「読めるか」
差し出された書簡を、アイリーンは両手で受け取った。青い瞳が文字列を追う。その瞬間、空気が変わった。先ほどまで静かだった少女が、文字を前にした途端、不思議なほど迷いなく視線を動かしていく。止まらない。理解している人間の読み方だった。ギルバートは黙ったままそれを見ていた。
「……西側小国との補給契約です」
しばらくして、アイリーンが静かに口を開く。
「武器ではなく、食料と馬ですね。こちらは山脈側を経由する予定だったようです」
ギルバートとエドガーの表情が変わる。
「分かるのか」
「この地名は、ルヴェリア側の古い呼称です。現在の地図では別名義になっています」
迷いなく説明が続く。
「恐らく、追跡を避けるために古い交易路名称を使用しています。ですが、この時期にこちらの山道を使うのは危険です」
「なぜだ」
「雪崩が起きます」
即答だった。
「迂回するのであれば、南側の湖沿いを使う可能性があります」
そこまで言ってから、アイリーンは不意に口を閉ざした。はっとしたように視線を伏せる。
「……出過ぎた真似をいたしました」
執務室に短い沈黙が落ちる。ギルバートは静かにアイリーンを見た。ただ翻訳しただけではない。地理。交易路。補給。季節。そこまで理解した上で話している。十五歳の令嬢とは思えなかった。
「問題ない」
ギルバートは低く返す。
「非常に参考になった」
その言葉に、アイリーンはわずかに目を伏せた。礼を言われ慣れていない人間の反応だった。
それから程なくして、アイリーンは執務室を下がった。扉が閉まったあとも、しばらく室内には静寂が残る。先に息を吐いたのはエドガーだった。
「……予想以上ですね」
「ああ」
ギルバートは短く返す。机上には、既に解読済みの書簡が並んでいた。今後も必要になる。そう確信するには十分だった。
それから数週間、西方国境の空気はさらに張り詰めていった。押収される書簡は増え、内容も単なる交易文書では済まなくなっていく。西側小国とルヴェリア王国、その双方が裏で繋がっている痕跡が徐々に浮かび上がり始めていた。
補給契約。山脈側の抜け道。傭兵の移動。そして、帝国側の監視網を避けるための迂回路。ヴィリアーズ侯爵家の執務室には、以前にも増してルヴェリア語の文書が運び込まれるようになる。その度に呼ばれるのは、アイリーンだった。
最初こそエドガーは難色を示していたが、今では半ば諦めている。実際、アイリーン以上に正確に内容を理解できる人間がいないのだ。
「こちらは表向きには交易契約ですが……」
アイリーンは机上の文書へ視線を落としながら静かに続ける。
「恐らく実際は物資輸送の許可証かと」
「根拠は」
「この言い回しです。通常の契約文書では使用しません」
控えめな声音だった。決して断定はしない。だが、その指摘はいつも的確だった。
「こちらの地名も現在のものではありません。古い交易路名です」
「偽装か」
「はい。追跡を避けるためだと思われます」
ギルバートは腕を組みながら書類へ視線を落とす。いつの間にか、アイリーンの意見を聞くことが自然になっていた。そして同時に、彼女自身を観察する時間も増えていく。執務室の机越し。書類を読む横顔。伏せられた睫毛。白い指先。近くで見れば見るほど、その美貌は異質だった。整っている、という言葉では足りない。まるで精巧な芸術品だ。感情の起伏が薄い分、その静かな美しさばかりが際立つ。ふと、ギルバートは思い出す。
——放置すれば必ず狙われる。
あの時のレオンハルトの言葉は、こういう意味だったのかもしれない。今なら理解できる気がした。それでも、アイリーン本人はまるで無自覚だった。視線を向けられていることにも慣れていない。むしろ、人目を避けるように生きてきた気配すらある。その違和感が、ギルバートの中に妙に引っかかった。
そして、アイリーンが執務室へ呼ばれる頻度は徐々に増えていく。時には、マダム・リボンの授業を中断させることさえあった。アイリーンの教養や作法は既に完成されている。だが、社交界で必要となる実技だけが抜け落ちていた。ダンス、茶の淹れ方、裁縫、夜会での立ち回り。そうした“令嬢として自然に身につけるもの”を、彼女はほとんど教わっていなかった。
「随分偏った育ち方をしていますね、あの子は」
ある日、マダム・リボンが呆れたように零していた。
「ですが、覚えは早いですよ」
それは確かだった。アイリーンは何を教えられても、一度で理解する。ただ、失敗を極端に恐れている節があった。間違えれば叱責される。その前提で動いているような、不自然な慎重さがある。
その日、ギルバートがアイリーンを呼び出したのは午後だった。西側から新たな書簡が届いた直後、エドガーがマダム・リボンの授業中だったアイリーンを執務室へ連れてくる。扉が開き、アイリーンが静かに入室した。その手には銀の盆がある。ティーカップが二つ。ふわりと紅茶の香りが広がった。
ギルバートはわずかに眉を寄せる。
「授業中だったのでは」
「お茶を淹れておりました」
静かな返答だった。アイリーンは机へカップを置き、それからほんの少しだけ視線を伏せる。
「……もし、よろしければ」
遠慮がちな声音だった。勧めているのだと理解するまで、一瞬かかる。ギルバートは何も言わずカップを手に取った。一口飲む。驚くほど落ち着く味だった。香りも温度も丁度良い。
「……美味いな」
ぽつりと零した瞬間だった。
アイリーンが、ほっとしたように小さく息をついた。ほんの僅か。それでも今まで見たどんな表情より年相応だった。十五歳の少女らしい、安堵の顔。ギルバートはそこで初めて気づく。この少女は、ずっと張り詰めて生きてきたのだと。褒められることにも慣れていない。安心することにも。
その小さな変化を見た瞬間、不思議と視線が逸らせなくなった。だが、アイリーン本人はそんなことに気づいていない。すぐにいつもの静かな表情へ戻り、「本日はどの文書を?」と何事もなかったように問いかけてくる。
ギルバートは無言のまま机上の書簡へ視線を落とした。
◆
しばらくの後、アイリーンが執務室へいることはすっかり日常になっていた。最初は必要がある時だけ呼び出していたはずだった。だが今では、ルヴェリア関連の文書が届けば自然とエドガーがアイリーンを呼びに行く。ギルバート自身も、それを疑問に思わなくなっていた。
ある日、執務室へ向かう途中、ギルバートを呼び止めたのはマダム・リボンだった。
「旦那様、少々よろしいですか」
「ああ」
振り返れば、マダム・リボンは珍しく僅かに眉を寄せている。
「グレイ嬢を働かせすぎです」
ギルバートは目を瞬かせた。
「……そのつもりはない」
「旦那様にそのつもりがなくとも、あの子は頼まれれば断りません」
ぴしゃりと言い切られる。
「最近少々お疲れの様子です。食事量もまた減っていますし、夜更かしも増えていると侍女たちが申しておりました」
「夜更かし?」
「復習をしているのでしょう。こちらで教えたことを、毎晩遅くまで書き写しているようです」
そこでマダム・リボンは小さく息を吐いた。
「あの子は“役に立たなければならない”と思いすぎています」
それだけ言い残し、マダム・リボンは去っていった。その言葉が妙に頭へ残ったまま、ギルバートは執務室の扉を開ける。
執務室には既にアイリーンがいた。窓際で書類を読んでいたらしく、ギルバートへ気づくと静かに立ち上がる。
「お戻りでしたか」
「ああ」
短く返しながら、ギルバートは自然と彼女を見る。相変わらず表情に大きな変化はない。だが、よく見れば僅かに顔色が白い気もした。
「……疲れていないか」
口をついて出た言葉に、ギルバート自身が一瞬だけ眉を寄せる。アイリーンも少し驚いたように瞬きをした。
「問題ございません」
いつもの静かな返答だった。だが否定の仕方があまりに慣れている。ギルバートは何も言わず席へ着いた。
その日の文書は、西側小国の古い交易地図に関するものだった。
「こちらの名称は現在使われておりません」
アイリーンが机上へ指先を落とす。
「三十年ほど前に呼称が変わっています」
「よく知っているな」
「ルヴェリアでは古い航路図も教材として扱いますので」
迷いのない返答だった。
「この辺りは潮流が複雑で、昔から密航に使われやすい地域でもあります」
ギルバートは書類から顔を上げる。
「……何故そこまで知っている」
その問いに、アイリーンは僅かに言葉を止めた。沈黙は長くない。やがて静かな声が落ちる。
「母が教えてくださいました」
青い瞳が伏せられる。
「母方の祖母がルヴェリア王家の出身でしたので、幼い頃から言葉や文化には厳しく……」
淡々とした語り口だった。自慢するでもなく、悲観するでもない。ただ事実を説明しているだけの声。
「書物も多く与えられました。交易資料や航路図も、母はよく読んでおりましたので」
そこで、ほんの少しだけ言葉が柔らぐ。
「母が亡くなった後も、母と親しかった方々が時折教えてくださいました」
ギルバートは静かに耳を傾ける。
「皆、表立って動ける立場ではありませんでしたので」
短い一言だった。だが、それだけで十分だった。母の死後も、彼女を気にかけていた者たちはいたのだろう。けれど伯爵家の中で、正面から庇い続けられるほどの力は持っていなかった。
「ですが、既に教わっていたことが多くありましたので。不自由はありませんでした」
静かな声音だった。それが強がりではなく、本心なのだと分かる。アイリーンは与えられたものを静かに抱え、それだけで生きてきたのだ。
そうして、ふと我に返ったように視線を伏せる。
「……申し訳ございません。少々話しすぎました」
ギルバートはしばらく黙っていた。静かな執務室に紙を揺らす音だけが響く。そして、ぽつりと口を開いた。
「いや」
金の瞳が真っ直ぐアイリーンを見る。
「興味深い話だった」
その瞬間、アイリーンがほんの僅かに目を見開いた。驚いたようだった。まるで、自分の話へ興味を持たれると思っていなかったかのように。その表情を見ながら、ギルバートは無意識に眉を寄せる。すると、アイリーンが小さく視線を伏せた。
「……申し訳ございません。何か失礼が」
「あなたのことじゃない」
短く否定してから、ギルバートは僅かに息を吐く。怪訝そうに青い瞳が瞬いた。
今まで、人に興味を持ったことなどほとんどなかった。必要な情報は把握する。能力も見る。だが、それだけだ。相手が何を考え、どんな人生を歩いてきたかなど、知ろうと思ったことはない。まして女など尚更だった。社交界で近づいてくる令嬢たちは皆似たようなものだった。着飾り、媚び、少しでも自分へ気に入られようとする。誰も彼も同じに見えていた。だが、アイリーンは違う。静かで、薄い。感情を押し殺すことに慣れすぎているくせに、時折ひどく年相応な顔を見せる。知識も教養もある。だが、それを誇示しない。まるで、自分が価値を持つことを知らない人間のようだった。気づけば、その言葉へ耳を傾けている。何を考え、何を見て育ったのかを知りたくなっている。
それから数日、穏やかな時間が続いていた。
西方の情勢は依然として不穏だったが、執務室の空気だけは妙に静かだった。ルヴェリア語の文書は相変わらず運び込まれてくるし、ギルバートの仕事量も減らない。だが、その隣には自然とアイリーンがいた。書類を読み、静かに意見を述べ、ときおり茶を淹れる。気づけば、そんな時間が当たり前になっていた。アイリーン・グレイという少女が、自分の中で少しずつ“その他大勢”ではなくなり始めている。その事実を、ギルバートはどこか奇妙に感じていた。
執務室の扉が慌ただしく開いたのは、そんな日のことだった。現れたのはエドガーだった。普段滅多に表情を崩さない男が、僅かに眉を寄せている。
「ギルバート様」
「どうした」
「グレイ嬢が倒れました」
言葉を聞いた瞬間には、既に体が動いていた。椅子を引く音が響く。自分でも考えるより先に足が前へ出ていた。廊下を進みながら、ギルバートは無意識に眉を寄せる。
倒れた。その言葉だけが妙に頭へ残る。案内された部屋へ入った瞬間、侍女たちが慌てて道を開けた。室内には、ソファへぐったりともたれ込むアイリーンの姿がある。傍ではマダム・リボンが険しい顔で彼女を支えていた。
「急に意識を——」
説明は最後まで耳へ入らなかった。気づけば、ギルバートはアイリーンを抱き上げていた。驚くほど軽い。以前、馬車から降りる際によろめいた彼女を支えた時にも細いとは思った。だが、今回は比べものにならなかった。腕の中の身体は頼りなく、少し力を込めれば折れてしまいそうだった。青白い肌は痛々しく、腰は信じられないほど細い。
こんな身体で、あれだけ働いていたのか。
胸の奥が僅かにざわつく。
「医者を手配しろ」
低い声で告げる。
「既に呼んでおります」
「では私の部屋を使う」
一瞬、室内が静まり返った。侍女たちが目を見開いている。マダム・リボンですら僅かに視線を止めた。ヴィリアーズ侯爵が女性を自室へ運び込むなど、これまで一度もなかったのだ。だが、そんな視線を気にしている余裕はなかった。ギルバートはそのままアイリーンを抱え、自室へ向かう。
長い廊下を歩きながらも、腕の中の軽さばかりが気になった。ほとんど重みを感じない。こんなにも細い身体で、毎日平然と執務室へ来ていたのかと思うと、妙な苛立ちが込み上げる。誰に対しての感情なのか、自分でも分からなかった。寝台へそっと横たえる。白い顔色は変わらない。伏せられた睫毛だけが静かに影を落としている。ギルバートはしばらく、その場を動けなかった。
やがて到着した医師がアイリーンを診察する。
「極度の疲労でしょう」
老医師は小さく息を吐いた。
「睡眠不足と栄養不足もありますな。しばらくは安静に」
「……そうか」
短い返答だった。医師が去った後も、ギルバートはすぐ執務室へ戻る気にはなれなかった。寝台で眠るアイリーンを見下ろしながら、無意識に眉を寄せる。役に立たなければならない。マダム・リボンの言葉が脳裏を過った。あれほど無理をしていたのか。
結局、執務室へ戻ったのはそれからかなり経ってからだった。だが書類を前にしても集中できない。視線は文字を追っているはずなのに、内容が頭へ入ってこなかった。気づけば、考えているのは一つだけだ。まだ目を覚まさないのか。そんな自分へ小さく苛立った頃、再び扉が叩かれる。
「ギルバート様」
入ってきたエドガーが静かに告げた。
「グレイ嬢がお目覚めになりました」
その言葉を聞いた瞬間、ギルバートは立ち上がっていた。
部屋へ入ると、アイリーンは既に目を覚ましていた。寝台の上で侍女と小さく言葉を交わしていたらしい。顔色は多少戻っているようにも見える。だが、やはり白い。細い指先にもまだ力が入っていないようだった。
ギルバートへ気づいた瞬間、アイリーンは慌てたように身を起こそうとする。
「無理に動くな」
「……申し訳ございません」
それでも彼女は小さく頭を下げた。
「ご迷惑をおかけいたしました」
青い瞳が伏せられる。
「それに、こちらは侯爵様のお部屋と伺いました。すぐに自室へ戻らせていただきます」
「構わない」
ギルバートは短く返す。
「私の部屋が一番近かっただけだ」
アイリーンが僅かに視線を揺らした。
「ですが——」
「私は客間を使う。問題ない」
その言葉に、侍女たちが小さく目を見開く。やはり異例なのだろう。だがギルバートは気に留めなかった。
「少し話をしたい」
低い声音に、控えていた侍女たちは静かに一礼し、部屋を下がっていく。扉が閉まり、静寂が落ちた。ギルバートは寝台の傍へ歩み寄る。
「無理をしていたのか」
アイリーンは小さく瞬きをした。
「……とんでもございません」
「だが倒れた」
逃がさないように言葉を重ねると、アイリーンは僅かに視線を落とした。沈黙が落ちる。やがて、小さな声が零れた。
「お仕事をさせていただけるのが……嬉しかったのです」
ギルバートは黙って聞いていた。
「こんな私でも、お役に立てるのだと……思えましたので」
そこまで言って、アイリーンは言葉を止める。だが、その先を聞かなくとも分かる気がした。
役に立たなければならない。必要とされなければならない。そう思いながら、ずっと生きてきたのだろう。気づけば、アイリーンは消えてしまいそうなほど弱々しい顔をしていた。いつもの静かな無表情ではない。本来、彼女はこういう人間なのかもしれない、とギルバートは思う。気高くあれ。誰かにそう教え込まれてきたのだろう。その言葉だけで、自分を支えてきたかのように。
ギルバートは小さく息を吐いた。
「あなたが望むなら、これからも執務は手伝ってくれ」
アイリーンがゆっくり顔を上げる。
「ただし」
金の瞳が真っ直ぐ彼女を見る。
「倒れられては困る」
その言葉に、アイリーンが僅かに目を見開いた。
「……程々にしろ」
ぶっきらぼうな声音だった。だが、アイリーンは何故か少しだけ安心したように目を伏せる。
「……はい」
返ってきた声は、いつもよりずっと柔らかかった。しばらくの沈黙のあと、ギルバートはふと口を開く。
「それにしても、あなたは働きすぎるきらいがある」
アイリーンが静かに視線を上げた。
「遠慮もしすぎだ」
「こちらでお世話になっている身ですので……」
「あなたの働きは、既に侯爵家の者たちが認めている」
ギルバートは淡々と続ける。
「あのマダム・リボンですら」
アイリーンが僅かに目を見開いた。あの厳格な老婦人の名が出るとは思わなかったのだろう。
「ですが、侯爵様……」
「その呼び方はやめろ」
思ったより強い声が出た。アイリーンが驚いたように瞬きをする。
「ギルバートでいい」
「しかし……」
「少しは遠慮もなくなるだろう」
少々強い言い方だったかもしれない。だが、遠慮を重ねてまた倒れられては意味がない。アイリーンは戸惑ったように視線を伏せ、それから小さく頷いた。
「……はい」
「それと、食事はきちんと取れ」
「……はい」
「本当だな」
念を押すように言えば、アイリーンは再びこくりと頷く。その様子を見ながら、ギルバートはふと思いついたように口を開いた。
「そうだ。これからは私もあなたと食事を取ることにしよう」
アイリーンがはっきりと目を見開く。
「そんな、お手間を取らせる訳には——」
「あなたが食事を取ったか考えるより、共にいた方が効率的だろう」
あまりにもギルバートらしい言い方だった。アイリーンは一瞬きょとんとしたあと、ほんの僅かに肩の力を抜く。今まで張り詰めていた緊張の薄膜が、一枚だけ剥がれたようだった。
「……侯爵様、ありがとうございます」
「ギルバートだ」
アイリーンは僅かに戸惑ったように視線を揺らす。
「……ギルバート様」
初めて彼女に呼ばれた名前は、何故だか自分のものではないように感じた。




