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第1章 後見人

 呼び出しの理由は、聞くまでもなく厄介事だろうと分かっていた。

 帝都の宮殿は、季節に関わらず冷えている。磨き上げられた石床も、隙なく整えられた静寂も、人の気配を遠ざけるようにできていた。華やかな権力の中心であるはずなのに、ここにはいつも息苦しさだけが漂っている。その一室に通された時点で、面倒の度合いは察せられた。


 ギルバート・ヴィリアーズは無言のまま扉をくぐる。黒髪に金の瞳。整いすぎた顔立ちは冷たさを感じさせた。感情を削ぎ落としたような眼差しと、容易に他人を寄せつけない空気。その姿を半ば恐れ、半ば畏れて、人々はいつしか彼をこう呼ぶようになった。

——黒薔薇侯爵。

 ヴィリアーズ家の家紋である薔薇と、若くして幾度も戦場を駆け抜けたその男の血塗れの戦歴から生まれた異名だった。


「随分と嫌そうな顔をしているな」


 部屋へ入るなり降ってきた声に、ギルバートはわずかに眉を寄せた。

執務机に腰掛けるようにしてこちらを眺めている男——ヴァルディア帝国皇太子レオンハルト・フォン・ヴァルディアは、面白がるように口元を緩めている。ギルバートが露骨に不機嫌さを見せても、まるで意に介さない人間は少ない。その数少ない例外が、この男だった。


「呼び出しておいて、それですか」

「お前のその顔、昔から飽きないんだ」

「殿下」

「はは、怖い怖い」


 まるで効いていない。ギルバートは小さく息を吐いた。

 ギルバートとレオンハルトは遠縁にあたる。ギルバートの母は皇族の血を引いており、先々代皇帝の孫娘だった。そのため二人は、はとこ同士という関係になる。もっとも、距離が近い理由は血縁ではない。レオンハルトは昔からこうだった。無愛想で近寄り難いギルバートに対して妙に遠慮がなく、平然と距離を詰めてくる。からかうように面倒事を押しつけるくせに、肝心なところでは決して見捨てない。年上の余裕なのか、単に性格が悪いだけなのか。ギルバートには未だによく分からなかった。


「それで、用件をお聞かせください」


 軽く息をつき、話を戻す。


「西側の連中はどうした。お前のところ、また山脈側が騒がしいんだろう」


 ヴィリアーズ家は代々、帝国西方の国境防衛を担っている。王都から馬車で一日。広大な森林地帯と山脈を抱えるその領地は、豊かで美しい反面、常に西方の小国群との緊張を孕んでいた。戦が起これば、真っ先に火の粉を被る土地でもある。


「小競り合い程度です」

「その“小競り合い”で敵将の首を取る侯爵はお前くらいだ」


 軽口のように言われるが、否定はしなかった。


「で、今回は何を押しつける気です」

「お、察しがいい」

「毎回ですから」

「そう拗ねるな、ギルバート」

「拗ねてはいません」

「嘘だな」


 即答だった。しかも楽しそうである。ギルバートは眉間を押さえたくなった。


「グレイ伯爵家の不正が発覚した」


 ようやくレオンハルトの声音が仕事のものへ切り替わる。


「本来であれば、爵位剥奪と財産没収だ」

「……何か問題が」

「当主の娘が問題だ」


 そこでわずかに間が落ちた。


「ルヴェリア王家の血を引いている」


 沈黙が降りる。面倒の質が変わったことは、言われるまでもなかった。


「処分はできない。だが、放置もできない」

「それで、後見人を立てると」

「話が早いな」


 レオンハルトは書類へ視線を落としたまま続ける。


「帝国では十八で成人となる。家督を正式に継ぐのもそれからだ」


 ギルバートは黙って聞いていた。


「もっとも、継ぐべき者が未成年しか残されていない場合は例外がある。後見人を立て、その監督下で家督を継承することが認められている」

「……グレイ嬢がそれに当たると」

「ああ。男子なら成人まで後見人が支えるのが一般的だ。だが女子の場合は少し事情が変わる」


 レオンハルトはそこで一度言葉を切った。


「後見人を立ててそのまま継がせるか、あるいは成人した男と婚姻させ、家督ごと委ねる」

「……随分と露骨ですね」

「貴族社会などそんなものだ」


 軽く返されたその言葉に、ギルバートは小さく息を吐く。


「放っておけば、血と爵位目当ての連中が群がる。あれの容姿なら尚更だ」


 そこでレオンハルトの視線がわずかに細められた。


「余計なことを考える者には任せられない」

「……私がそうではないと?」

「少なくとも、お前は女に執着しない」


 否定はしなかった。事実だからだ。レオンハルトはそこで一度言葉を切り、わずかに視線を外した。


「あの方の娘だ」


 短く落とされたその一言に、ギルバートはわずかに眉を寄せる。


「どなたのことを?」

「……お前は知らないか。まだ社交界に出る前だったな」


 ギルバートが本格的に社交界へ顔を出す頃には、すでにその女性は表舞台から姿を消していたのだろう。

 レオンハルトは小さく息をつき、それから続けた。


「グレイ伯爵の前妻だ。数年前まで、帝都でも名を知らぬ者はいなかった」

「……」

「美しいだけではない。気位も高く、誰にも媚びなかった」


 そこで、わずかに言葉が柔らぐ。


「……印象に残る人だった」


 個人的な感情が混じったのは、その一瞬だけだった。すぐに声音が戻る。


「その娘だ。軽々しく扱わせるつもりはない」


 興味はなかった。ただ、レオンハルトがそこまで言う相手という事実だけは、妙に記憶へ引っかかった。


「それに」


 不意にレオンハルトがこちらを見る。


「お前と少し似ている」


 ギルバートの眉がわずかに寄る。


「十五で突然ヴィリアーズ侯爵となったお前と、今のあの娘は」


 一瞬だけ空気が静かになる。本来なら王都で騎士となるはずだった。だが父が死に、気づけばヴィリアーズ侯爵家当主となっていた。あの日から人生は変わった。


「背負わされる重さを知っている人間の方がいい」


 レオンハルトは静かに椅子へ凭れた。


「少なくとも、お前はあの娘を道具として扱わん。それで、お前に任せる。ギルバート」


 普段軽口ばかりでも相手は皇太子だ。断るのであればそれなりの理由が必要になるが、即答する気にはなれなかった。


 若い令嬢の相手は面倒だ。舞踏会も見合いも、必要最低限はこなしてきた。だが、近づいてくる女たちの大半は、ヴィリアーズ侯爵という肩書きか、その容姿に惹かれているだけだった。うるさく、浅く、馴れ馴れしい。今さらそんなものに関わりたくないというのが本音だ。大きな衝突が起きていないとしても緊張状態の西方国境を守りながらお気楽な令嬢の相手などしている場合ではない。


「断ります」


 ギルバートは表情を崩さず言った。しかし、その答えを分かっていたように、唇を引き上げたレオンハルトはギルバートを見据えた。


「国境の軍、優先的に動かしてやる」


 間髪入れず返ってきた条件に、思考がわずかに止まった。

 現在ヴィリアーズ領では、侯爵家直属の騎士団が西方国境の警備を担っている。これまでも幾度か小国群との小競り合いは起きていたが、そのたびにヴィリアーズ家は被害を最小限に抑え込んできた。だが最近、西側の動きが妙にきな臭い。本格的な衝突に発展する可能性を考えれば、騎士団の増強は不可欠だった。しかし、軍備拡張には中央の裁可が必要になる。そして、その軍制を統括しているのが——叔父であるウィンザー公爵だった。


 もっとも、公爵は甥であるギルバートを気にかけるあまり、以前から結婚を強く勧めている。当主として領地を守る覚悟があるなら、家を支える伴侶も迎えろ。軍備増強の話を持ち出すたび、半ば呆れたようにそう言われていた。


「……叔父上に話を付けてくださるということですか」

「ああ」

「……どこまででしょうか」

「お前の望む範囲で」


 視線を落とす。結論は、最初から決まっていたようなものだった。


「引き受けます」

「最初からそう言え」

「殿下が回りくどいのです」


 レオンハルトが愉快そうに笑う。そういうところが苦手なのだ、とギルバートは思った。


 ◆


 彼女と対面したのは、その日のうちだった。

 通されたのは宮殿の一室。広くも狭くもない、ただ余計なものが置かれていないだけの空間だった。窓から差し込む淡い光が、静まり返った室内を白く照らしている。


 すでに数名の人間がいた。役人と、護衛と——そして、その中央に立つ少女。グレイ伯爵家の令嬢。ルヴェリア王国との交易と港湾管理を任されるグレイ家は、代々、帝国と王国を繋ぐ窓口として機能してきた名家だった。だが現当主の不正によって、その立場は崩れかけている。罪に問われているのは現当主と後妻、その娘だ。その中で、唯一処分を保留されているのが、ルヴェリア王家の血を引く前妻の娘——アイリーン・グレイだった。


 その渦中にいるはずの少女は、不思議なほど静かに立っていた。

 一目で、美しいと分かった。

 それは女に対して抱く感情とは違った。ただ、目を奪われたのだ。精巧に作られた人形じみた整い方だった。淡い金の髪は肩口で静かに波打ち、白い肌には一点の濁りもない。硝子細工のような青い瞳は感情を騒がせるでもなく、ただ静かにそこにあった。まるで、ひどく丁寧に作られた芸術品を見るような感覚だった。


 人を、美しいと思ったことなどなかった。女など皆同じだと思っていた。着飾り、笑い、媚び、男の視線を求める生き物。だが、目の前の少女は違う。美しさを武器にしている気配がない。視線を集めようとしているわけでもない。ただそこに立っているだけで、完成されていた。だが、一点違和感がある。髪が短いのだ。肩に触れる程度で切り揃えられた髪は、この年頃の令嬢としては不自然だった。本来なら、もっと長く伸ばされていてもおかしくない。その違和感だけが、完璧すぎる美しさの中に小さな傷のように残っている。


 なぜか、という疑問が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。そして、放置すれば狙われる、というレオンハルトの言葉を思い出す。なるほど、とだけ思った。

 本来であれば、ここに立つ者は何かしらを失っている。焦りか、怒りか、あるいは恐怖か。だが、目の前の少女にはそれがない。静かだった。ただ、静かにそこにいる。音を立てずに立っているその様子が妙に印象に残る。まるで、知らぬ間に屋敷へ棲みついていた猫のようだと、ふとそんなことを思った。


「顔を上げなさい」


 役人の声に、少女はゆるやかに従った。その動作に無駄はない。洗練されているというより、癖がなかった。作法として身につけたというより、幼い頃から呼吸のように染み込んでいる所作だった。

 視線が合う。澄んだ青が、真っ直ぐこちらを見る。


 ——落ちていない。

 それが最初の認識だった。状況からすれば、すでにすべてを失っていてもおかしくはない。それでもなお、目だけが折れていない。怯えも、媚びも、恨みすら見えなかった。ただ静かに、自分の足で立っている。


「こちらが後見人となられる、ヴィリアーズ侯爵だ」


 紹介の声が入る。少女はわずかに一礼した。完璧だった。深すぎず、浅すぎず、寸分違わぬ角度。


「……アイリーン・グレイでございます」


 静かな声だった。強くもなく、弱くもない。ただ、揺れない。


「ギルバート・ヴィリアーズだ」


 名乗る必要はなかったが、最低限は返す。


「本日より私の管理下に入る。理解しているな」

「はい」


 短い返答だった。従順とも取れる。だが、それだけではない。諦めて従っている人間の声ではなかった。


「指示には従え」

「承知いたしました」


 間を置かず返る。迷いがない。


「……何か質問は」


 問いかけてから、不要だったかと思った。少女は一瞬だけ目を伏せ、それから再び顔を上げる。


「ございません」


 簡潔な返答だった。沈黙が落ちる。やりにくい、と初めて思った。扱いに困るという意味ではない。ただ、距離が測れない。普通の令嬢なら、もう少し騒がしい。怯えるか、媚びるか、あるいは泣く。だが彼女は、そのどれでもなかった。


「以上だ」


 会話を切る。

 少女——アイリーン・グレイは、再び静かに一礼した。乱れはない。

 その姿を見ながら、ギルバートは無意識に眉を寄せる。

 ——厄介だ。

 そう結論づけるしかなかった。


 ◆


 ヴィリアーズ侯爵領へ到着したのは、帝都を発ってから半日後のことだった。西方防衛の要であるヴィリアーズ領へ続く街道は帝国でも特に整備されており、良馬を用いれば数時間で帝都へ辿り着く。軍の往来も多いため、通常の貴族街道より遥かに速度を重視して造られていた。


 王都から離れるにつれ街道の喧騒は消え、窓の外には深い森と岩肌の山脈ばかりが続くようになる。空気は冷たく澄み、帝都特有の息苦しさは薄れていた。

 領地へ戻る頃には、すでに陽が傾き始めていた。巨大な黒鉄の門が軋んだ音を立てて開く。ヴィリアーズ侯爵家の城は、華美さとは無縁だった。西方国境を守るための城塞として築かれた歴史を持つだけあり、重厚で、冷たく、隙がない。だが無骨な石造りの外観とは裏腹に、広大な敷地には深い森と湖が広がり、静けさだけは不思議なほど美しかった。


 馬車が正面玄関へ横付けされる。先に降りたギルバートは振り返り、馬車の中へ視線を向けた。アイリーンは静かに立ち上がる。だが、一歩踏み出した瞬間、その身体がわずかによろめいた。反射的に腕を伸ばす。細い肩を抱きとめた瞬間、ギルバートは無意識に眉を寄せた。

 軽すぎる。

 思っていた以上に華奢だった。長時間の移動で疲弊しているだけではない。抱きとめた身体には妙な頼りなさがあった。


「……失礼いたしました」


 だが、アイリーンはすぐに体勢を立て直した。慌てる様子も、甘える様子もない。ただ静かに距離を取る。普通なら多少なりとも動揺する場面だ。頬を染めるなり、気まずそうにするなり、反応はいくらでもある。だが彼女は違った。礼だけを残し、それ以上何も求めない。その妙な淡白さに、ギルバートはかえって違和感を覚えた。


 視線を下ろせば、足元に置かれた荷物は驚くほど少ない。小さな鞄が二つに、箱が一つだけ。本来、伯爵令嬢の移動とは思えない量だった。侍女もいない。グレイ伯爵家に仕えていた使用人たちの多くは、汚職への関与を疑われている。事情を考えれば当然ではあるが、それにしてもあまりに最低限だった。運び込まれた荷物の中には、数着のドレスも含まれていた。だが、どれも流行から少し外れている。生地自体は良いものだが、丁寧に着続けられてきたことが分かる程度には古かった。

 ルヴェリア王家の血を引く伯爵令嬢。その肩書きから想像する姿とは、妙に噛み合わない。


「ギルバート様」


 落ち着いた声が割って入った。視線を向ければ、一人の男が玄関口で静かに一礼している。

 エドガー・カートレットだった。灰色がかった茶髪に、切れ長の瞳。柔和そうに見える顔立ちをしているが、その目は油断なく周囲を観察している。カートレット家の三男として生まれた彼は、本来なら家督とは無縁の立場だった。だが当主である兄に執務の才がなく、結果としてエドガー自身がヴィリアーズ家へ仕えることとなった。今では執務長として、侯爵家の実務の大半を取り仕切っている。そして同時に、ギルバートの乳兄弟でもあった。幼い頃から同じ場所で育ち、同じ時間を過ごしてきた男だ。必要以上に言葉を交わさずとも、大抵のことは察する。

 エドガーはアイリーンへ視線を向け、それから小さく目を細めた。


「お部屋の準備は整っております」

「ああ」


 短く返し、ギルバートは一度だけアイリーンを見る。


「グレイ嬢の世話はお前に任せる」

「かしこまりました」

「教育係にはマダム・リボンを付けろ」


 エドガーがわずかに眉を上げる。


「……本気ですか?」

「後継者になる以上、最低限は必要だ」


 淡々とした声音だった。だが、そこに迷いはない。

 アイリーンは将来的に爵位を継ぐ可能性を持つ人間だ。保護だけして放置するつもりはなかった。必要な教育は受けさせる。それが後見人としての責務だった。


「承知しました。母も喜びます」


 どこか含みのある声音だったが、ギルバートは気に留めなかった。


「グレイ嬢」


 エドガーが穏やかに声をかける。


「こちらへ」

「……よろしくお願いいたします」


 アイリーンは静かに一礼したあと、エドガーの後ろについて歩き出した。

 足音が小さい。気配が薄い。広い廊下を歩いていても、不思議なほど存在感がなかった。その背を見送りながら、ギルバートは小さく息を吐く。


 ——妙な令嬢だ。

 それが率直な感想だった。だがその頃のギルバートは、まだ知らない。しばらく経てば、ふと存在を忘れるほど自然に、アイリーンがこの城へ溶け込んでいくことを。

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