第4章 灯火の収穫祭
夏の終わりが近づく頃、ヴィリアーズ侯爵邸にも少しずつ季節の変化が訪れていた。
使用人たちは慌ただしく廊下を行き交い、倉庫からは色鮮やかな飾り布が運び出されていく。街へ下りれば、楽師たちの音合わせや屋台準備の話題が聞こえ始め、騎士団もどこか落ち着かない空気を纏っていた。
そんな中でも、執務室だけはいつも通りだった。机の上には山積みの書類。ルヴェリア王国との一件は落ち着きを見せていたものの、語学に堪能なアイリーンは、今もギルバートの仕事を手伝っている。紙を捲る静かな音だけが響く中、不意に扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入室してきた使用人は、収穫祭準備についての確認事項を伝え始める。
「今年も中央広場での催しについて、侯爵様より許可をいただきたく……」
「ああ、例年通りで構わない」
「騎士団側の配置については——」
ギルバートとエドガーが慣れた様子で話を進めていく。その隣で、アイリーンだけが僅かに困ったような顔をしていた。視線が自然とそちらへ向く。そんな彼女の様子に気づいたのだろう。エドガーが小さく笑った。
「グレイ嬢は収穫祭をご存知ありませんでしたか」
「……申し訳ございません」
「いえいえ。この辺り独特の祭りですから」
エドガーは穏やかな口調で続ける。
「ヴィリアーズ領は帝国でも有数の穀倉地帯でして、今年の実りへ感謝を捧げるのが収穫祭です。同時に、国境を守る騎士団へ領民が感謝を伝える日でもあります」
さらに説明を重ねる。
「逆に騎士団側も、農耕によって領地を支えてくれる領民へ感謝を返す。そういう意味合いもあるのですよ」
ヴィリアーズ家は代々、西方防衛を担ってきた。豊かな実りを守るために剣を取る者。その剣を支えるために土地を耕す者。収穫祭とは、その双方が互いを讃える祭典でもあった。
「ですので、この時期は屋敷も街も大忙しでして」
エドガーは肩を竦める。
「ヴィリアーズ領最大の祭典ですから、領内全体が浮き足立つ時期です。騎士団も警備へ出ますし、領民との交流の場にもなります。侯爵家も毎年顔を出しておりますね」
そこまで聞いた頃には、アイリーンの青い瞳が分かりやすいほど輝いていた。本人は隠しているつもりなのだろう。だが最近の彼女は、以前よりずっと感情が表へ出るようになっていた。
ヴィリアーズ家へ来た当初、彼女はまるで少しでも気を抜けば壊れてしまうかのように張り詰めていた。きっとグレイ伯爵家にいた頃から、ああして常に気を張って生きてきたのだろう。しかし、今にも消えてしまいそうだった少女が、最近は時折こんなふうに年相応の顔を見せる。その変化を、屋敷の者たちも微笑ましく見守っていた。
「ぜひグレイ嬢もご一緒に!」
「きっと楽しんでいただけます!」
気づけば使用人たちまで話へ加わっている。ギルバートは書類から顔を上げ、半ば呆れたように息を吐いた。
「……祭りは遊びではない。騎士団の警備もある」
「ですがギルバート様、毎年問題なくこなしているでしょう」
即座に返したのはエドガーだった。
「今年はグレイ嬢もいらっしゃいますし」
周囲の期待するような視線が一斉に集まる。その中で、アイリーンだけは遠慮がちに視線を伏せていた。だが、その瞳は期待を隠しきれていなかった。
ギルバートは小さく息を吐く。
「……分かった」
その瞬間、使用人たちの顔がぱっと明るくなった。そしてアイリーンもまた、ほんの少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
◆
収穫祭へアイリーンも同行することが決まると、屋敷の空気はさらに慌ただしさを増した。ただでさえ祭り前で忙しい時期だというのに、使用人たちはどこか楽しげですらある。それはきっと、アイリーンが収穫祭へ興味を示していたからだろう。彼女が喜ぶ姿を見たい。そんな空気が自然と屋敷中へ広がっていた。
「グレイ嬢もお守り作りに参加されておりますよ」
執務中、不意にエドガーがそう口にした。収穫祭前には、毎年恒例の習わしがある。屋敷の女性陣が騎士団へ渡すお守りを作るのだ。刺繍入りの小さな布袋。西方の豊穣と無事帰還を願う印が縫い込まれ、中には乾燥させた花や香草が入れられる。
ギルバートは書類から顔を上げた。
「……アイリーンが?」
「最初は遠慮されていたようですが、“グレイ嬢は器用そうです!”と侍女たちに半ば強引に連れて行かれたとか」
その光景が容易に想像できてしまい、ギルバートは小さく息を吐いた。
数日後。廊下を歩いていたギルバートは、ふと庭の方から聞こえた笑い声に足を止めた。窓の向こう、初秋の陽射しが落ちる庭園で、アイリーンと侍女たちが何やら作業をしている。テーブルの上には布袋や刺繍糸、小さな籠。どうやらお守りへ入れる花を選んでいるらしい。
侍女たちに囲まれたアイリーンは、困ったようにしながらも、どこか楽しそうだった。風に揺れる淡い金髪。柔らかな笑い声。以前なら考えられなかった光景だ。
「楽しそうですね」
背後からエドガーの声がした。ギルバートは視線を庭へ向けたまま短く返す。
「ああ」
「この前までは人馴れしない子猫のようでしたのに」
思わず小さく息が漏れる。執務室にいる時でさえ、以前のような過度な緊張は感じなくなっていた。だが、あんなふうに屈託なく笑う姿はまだ珍しい。
「この城も明るくなりました」
「そうか?」
「ええ。緊張感を生み出していた本人がこれですから」
さらりと言われ、ギルバートは僅かに眉を寄せた。だが否定はしない。確かに以前のヴィリアーズ邸は静かだった。必要以上の私語もなく、常に張り詰めた空気が流れていた。
この時期は例年慌ただしくなるものだが、人々はこんなふうに笑っていただろうか。今は城の中にも外にも笑い声がある。不思議な感覚だった。ギルバートはしばらくその場へ立ったまま、庭の光景を眺めていた。
その日の夕食時。食後の茶が運ばれる前、不意にギルバートは口を開いた。
「祭りの準備は順調か」
アイリーンが僅かに目を見開く。
「……ご存知だったのですね」
「ああ。エドガーから聞いた」
アイリーンは少し気まずそうに視線を伏せた。
「……準備は、その、順調です。お忙しい時期にお時間をいただいてしまって申し訳ございません」
「謝る必要などないだろう」
ギルバートは淡々と返す。
「侍女たちがかなり強引に誘ったと聞いた」
「違うのです」
思いのほか強い口調で返され、ギルバートは僅かに目を細めた。
「皆、私のために声をかけてくださって……」
誰のせいにもしない。それがアイリーンの美徳なのだろう。だから皆、彼女を構いたくなる。笑わせたくなる。
「今の時期は情勢も落ち着いている」
ギルバートは静かに告げる。
「好きなことをすればいい」
「……ありがとうございます」
その瞬間浮かんだ表情に、胸の奥が小さくざわめいた。隠すことも忘れたような、素直な喜びの顔だった。やがて食後の紅茶が運ばれ、穏やかな時間が流れる。その中で、アイリーンが遠慮がちに口を開いた。
「あの……騎士団の皆様について、お伺いしても?」
「構わないが。何故だ」
「お守りをお作りするのに、お相手を知らないのはおかしいと思いまして……」
大人びているようで、時折妙に無邪気だ。そしてどこまでも真面目だった。ギルバートは小さく息を吐き、紅茶へ手を伸ばす。
「ヴィリアーズ騎士団は、西方国境の警備が主な任務だ」
低い声が静かに響く。
「西側の小国群は大規模な戦を仕掛けてくる訳ではない。だが山を越えた略奪や越境は多い」
アイリーンは真剣な表情で耳を傾けていた。
「こちらが隙を見せれば村が焼かれる。だから常に誰かが国境へ立っている」
「……皆様が、領地を守ってくださっているのですね」
「ああ」
ギルバートは短く頷く。
「第一隊が国境警備の主力だ。副団長のロイドは無愛想だが腕は確かでな。第二隊は遊撃。第三隊は山岳警備を担当している」
話しているうちに、いつの間にか時間が過ぎていた。アイリーンは何度も頷きながら、真剣に話を聞いている。
「……このようなところで良いか?」
気づけば随分長く話していた。だがアイリーンは、どこか嬉しそうに微笑む。
「はい。……ギルバート様のことを、良く知ることが出来ました」
その瞬間、心臓が僅かに跳ねた。薔薇色に染まった頬は、王都へ出かけた日の夕暮れを思い出させる。不意に自分の名を呼ばれただけで、何かが胸の奥へ押し寄せてくる。
収穫祭の日は、もうすぐそこまで迫っていた。
◆
収穫祭当日。
日が傾き始めた頃、ヴィリアーズ侯爵邸では出発準備が進められていた。玄関ホールへ姿を見せたギルバートは、周囲を見回しながら僅かに眉を寄せる。
「……アイリーンは?」
「また侍女たちに捕まっているようですよ」
愉快そうに返したのはエドガーだった。
「捕まっている?」
「着飾られているのです」
エドガーは肩を竦める。
「夏以降、侍女たちは何かとグレイ嬢を飾り立てたがりまして。あの美しい少女を飾るのは、もはや一種の芸術なのかもしれませんね」
「……そうだな」
否定はしなかった。
その時だった。
「遅くなり申し訳ございません」
澄んだ声に振り返る。階段の上へ現れたアイリーンに、ギルバートは一瞬言葉を失った。
深い緑のドレス。ヴィリアーズ領に古くから伝わる祭装で、過度な装飾はない。だが胸元や袖口へ繊細な刺繍が施され、動くたび柔らかな光沢が揺れる。普段とは違う装いは、彼女の美しさをより際立たせていた。白い肌。肩までの淡い金髪。静かな青い瞳。まるで最初から、この土地のために誂えられたようだった。
ギルバート自身、しばらく視線を外せなかった。彼女がヴィリアーズ家の衣装を纏っている。ただそれだけなのに、アイリーン自身がこの地へ居ることを望んでいるような錯覚を覚える。
——いつか彼女は去る。
分かっている。それでも、この姿をいつまでも見ていたいと思ってしまった。
「……ギルバート様?」
不思議そうに呼ばれ、ようやく我に返る。
「……ああ。行こうか」
アイリーンは僅かに首を傾げながらも、それ以上は何も言わなかった。その様子を、エドガーだけが愉快そうに眺めている。
一行を乗せた馬車は、ゆっくりと街へ向かった。祭り前の街は既に熱気に包まれている。暖かなランタンの灯りが夕暮れの石畳を照らし、屋台からは香ばしい匂いと笑い声が溢れていた。アイリーンは窓の外を見つめたまま、小さく息を呑む。何も言わない。だがその青い瞳は、隠しきれないほど輝いていた。オレンジ色の灯りを映した瞳は宝石のようで、艶やかな唇も僅かに開いている。その横顔からしばらく目を離せず、ギルバートは静かに視線を逸らした。
やがて馬車は、騎士団が設営した大きなテント前へ到着する。扉が開かれると同時に、整列していた騎士たちが一斉に姿勢を正した。ヴィリアーズ騎士団第一隊。西方防衛の主力部隊である。先に降りたギルバートへ敬礼が向けられる。続いてアイリーンが地面へ足を下ろした瞬間、空気が変わった。隠しきれないどよめき。感嘆するような息遣い。その場にいた誰もが、目を奪われていた。だが当の本人は、自分が視線の中心だとは思っていないらしい。
アイリーンは静かに微笑み、優雅に一礼する。
「アイリーン・グレイと申します」
完璧な所作だった。上品で、それでいてどこか柔らかい。騎士たちが完全に言葉を失う中、アイリーンは続ける。
「侍女たちと皆様へお作りしたお守りを、お渡ししてもよろしいでしょうか」
なおさら空気が止まった。やがて、一人の男が前へ進み出る。短く切った灰色の髪。鋭い眼差し。第一隊副隊長、ロイド・グランツだった。
「副隊長のロイド・グランツです」
片膝をつき、敬礼する。
「ご令嬢自らお作りくださったお守りとは、光栄であります」
アイリーンは柔らかく微笑んだ。
「ロイド様のお話は伺っております。剣術がとても達者だとか」
一瞬、ロイドの動きが止まる。
「……っ」
耳が目に見えて赤くなっていた。周囲の騎士たちから生暖かい視線が向けられる。アイリーンは気づかないまま、お守りの入った籠を差し出した。
「皆様がどうかご無事でありますように」
その声音はどこまでも誠実だった。騎士たちの空気が一気に和らぐ。明らかに誰もが話しかけたそうにしていた。その時だった。
「……ロイド」
低い声が落ちる。
ロイドが即座に背筋を伸ばした。
「はっ」
「祭りは始まっている」
「し、失礼しました!」
妙に鋭い空気に、周囲の騎士たちも慌てて姿勢を正す。そんな中、ギルバートは自らの黒いマントを外した。
「夜は冷える」
そう言って、アイリーンの肩へ掛ける。否。肩どころか、そのまま頭まで隠すように包み込んでしまった。
「ギルバート様……?」
突然視界を覆われ、アイリーンが困ったように見上げる。だがギルバートは何事もなかったような顔をしていた。一方で、騎士たちの空気は完全に凍りついていた。
——なるほど。
誰も口にはしない。だが全員理解した。この令嬢は、侯爵にとって特別なのだと。
そんな騎士たちの空気を破ったのは、エドガーだった。
「では、ご挨拶も済ませたことですし。お二人は祭りを回ってこられてはいかがでしょう」
「……私もか?」
思わずギルバートは聞き返す。例年、収穫祭の間ギルバートは騎士団のテントで過ごしていた。領民との挨拶や警備状況の確認を行いながら、必要に応じて各隊へ指示を出す。それが毎年の流れだった。だがエドガーは涼しい顔で続ける。
「第一隊も来ておりますし、騎士たちも輪番で祭りを回っておりますよ」
ちらりとロイドを見る。
「必要であれば、ロイドを付けることもできますが」
「は!?」
突然話を振られたロイドが目を見開く。武術に長けたロイドならば、確かに護衛として問題はないだろう。だが。視線を向ければ、アイリーンが遠慮がちにこちらを見ていた。何かを期待するような、けれど押しつけることはしない控えめな視線。ギルバートは僅かに視線を伏せる。
「……私が行こう」
その声音は、自分でも驚くほど迷いがなかった。エドガーが満足げに微笑む。ロイドはどこか残念そうで、アイリーンはほっとしたように小さく頬を緩めた。
◆
夜の収穫祭は、昼間とはまた違う熱気に包まれていた。石畳へ落ちるランタンの灯りが揺れ、屋台からは焼き菓子や香辛料の匂いが漂ってくる。楽師たちの奏でる軽快な音楽と人々の笑い声が絶え間なく響き、街全体が祝祭の熱を帯びていた。深い緑の祭装を纏ったアイリーンは、暖かな灯りの中でひときわ目を引いた。また、人混みに慣れていない彼女にとっては刺激が強すぎたらしい。小柄で華奢な身体は、次々通り過ぎる人波へ簡単に飲み込まれていく。小さく息を呑む気配にギルバートが振り返る。人の肩へぶつかりよろめいたアイリーンへ、すぐ手を伸ばした。
「……離れるな」
低い声でそう告げ、そのまま自らの上着の裾を握らせる。アイリーンは少し驚いたように目を瞬かせたあと、小さく頷いた。
「……はい」
その細い指が遠慮がちに布を掴む。人波へ流されないよう懸命に付いてくる姿は、どこか危なっかしかった。
二人はそのまま祭りの通りを歩き始める。しばらく進んだところで、不意にギルバートの足が止まった。焼き菓子屋だった。並べられているのは、以前王都でアイリーンが好んでいたルヴェリア風の菓子によく似ている。砂糖をまぶした焼き色の菓子から、甘い香りが夜風へ溶けていた。
「一つ選べ」
突然言われ、アイリーンが目を丸くする。
「……よろしいのですか?」
「好きなのだろう」
アイリーンは少し迷ったあと、砂糖をたっぷりかけた焼き菓子を指差した。ギルバートはそれを見て、迷いなく二つ注文する。店主は相手がギルバートだと気づいた瞬間、飛び上がるように姿勢を正した。
「侯爵様がこのような菓子をお買い上げくださるなんて……!」
慌てた様子で包みを増やし始める。
「こちらもぜひお持ちください……!今日は特別ですから……!」
「多いだろう」
「いえいえ……!」
店主は嬉しそうに笑った。
「以前、仕入れの際に侯爵様へ助けていただいたことがありまして」
その目は真っ直ぐだった。
「皆、多かれ少なかれ侯爵様へ恩があるのです。こうしてお目にかかれて本当に嬉しい」
ギルバートは一瞬言葉を失う。今まで収穫祭はただの仕事だった。騎士団の状況確認。警備。領主としての義務。だからわざわざ街を歩く必要など考えたこともなかった。だが違った。領民たちは騎士団へ感謝を伝えたがっていたのだ。そして騎士たちも、それへ応えていた。自分だけが気づいていなかった。
「……気遣いに感謝する」
短い言葉だったが、それだけで店主は嬉しそうに顔を輝かせた。焼き菓子を片手に、二人は再び祭りの通りを歩き出す。屋台から漏れる灯りがアイリーンの金髪へ落ち、淡い蜂蜜色に揺れていた。
「たくさん頂いてしまいましたね」
「騎士団の奴らへ渡せばいい。あいつらは甘い物に目がない」
「あんなに屈強な方々なのに」
「おかしな奴らだ」
呆れたように返すギルバートへ、アイリーンは楽しげに笑った。祭りの通りを歩いていると、他の屋台からも次々声が飛んでくる。
「侯爵様……!」
「今年もありがとうございます……!」
「どうぞこちらも……!」
滅多に姿を見せない領主へ、領民たちは興奮を隠せない様子だった。以前なら、黒薔薇侯爵へ気軽に声をかける者などほとんどいなかっただろう。だが今夜は違う。ギルバート自身の空気が、以前より幾分柔らかい。そしてその隣で静かに微笑む美しい少女が、不思議と人々の警戒心を和らげていた。
「侯爵様! せっかくですからこちらもどうです?」
声をかけてきた男が差し出したのは、木札射ちの参加券だった。並べられた木札を、小さなコルク銃で撃ち抜く遊戯らしい。アイリーンの瞳が分かりやすく輝く。ギルバートはそれを見て、口元を僅かに緩めた。
「……やってみるか?」
「はい……!」
珍しく迷いのない返事だった。
店主からコルク銃を受け取ったアイリーンは、慎重な手つきで構える。だが放たれた弾は、木札へ届く前に落ちてしまった。周囲から思わず小さな笑い声が漏れる。アイリーンは困ったように眉を下げた。
「……思ったより難しいのですね」
ギルバートはその様子を見下ろしながら、静かに手を伸ばす。
「貸せ」
後ろへ回り込み、銃を支えるように片手を添えた。
「腕を開きすぎるな。片目で的を狙え」
低い声に、アイリーンは真剣な表情で小さく頷いた。
「……はい」
「そのまま撃て」
乾いた音が響く。先ほどよりずっと中央近くへ弾が当たり、周囲から歓声が上がった。
「おお!」
「さすが侯爵様!」
店主も目を輝かせる。
「ぜひ侯爵様も撃ってみてください!」
「……必要ないだろう」
「お願いします!」
押し切られる形でコルク銃を受け取ったギルバートは、半ば面倒そうに構えた。乾いた音が続けて響く。一発。また一発。放たれた弾は、全て中央へ命中していた。
一瞬静まり返ったあと、周囲から歓声が爆発する。アイリーンもまた、感嘆したようにギルバートを見上げていた。ひとしきり賞賛を受けて、そろそろ場所を移そうとしたその時だった。
中央広場から大きな鐘の音が響く。収穫祭のセレモニーが始まったらしい。一斉に人が動き始め、通りの熱気が急激に増した。アイリーンが上着を掴んでいる感覚はある。だが、その力はあまりにも頼りない。一度立ち止まるべきかと思った、その時だった。大きく押し寄せた人波に、アイリーンの指が裾から離れる。白い指先が、何かを探すように宙を彷徨った。ギルバートは咄嗟にその腕を掴む。そのまま人から庇うように、近くの店の壁際へ引き寄せた。
ほとんど抱き込むような形だった。ランタンの橙色が、腕の中の金髪へ柔らかく滲んでいる。引き寄せた腰は、以前抱き止めた時と同じように細い。だが今回、ギルバートが意識したのはそれだけではなかった。柔らかな金髪が肌へ触れる。どこからともなく漂う花のように甘い香りが、静かに鼻腔をくすぐった。
近い。あまりにも近かった。伏せられた長い睫毛が、触れられそうなほど近くにある。黒い外套の内側で、アイリーンが小さく息を呑む気配がした。人々の喧騒はすぐ傍にあるはずなのに、そこだけ時間が切り離されたようだった。離さなければと思う。だが、腕へ込めた力が上手く抜けない。時間が止まったように感じられる。
背後からぶつかった人の衝撃に、ギルバートはようやく我に返った。
「……大丈夫か」
「……はい」
アイリーンもまた、どこか呆然としていた。気づけば、その指先がギルバートの服を小さく掴んでいる。
揺れる灯りだけが、静かに二人を照らしていた。
◆
やがて人の流れが少し落ち着き、二人は再び歩き始めた。今度ははぐれないようにと、ギルバートはアイリーンのすぐ後ろを歩く。背へ触れそうなほど近い距離。今までなら有り得なかったが、先ほど抱き寄せた時の感触が、どうにも離れてくれなかった。
ギルバートもアイリーンも何も喋らない。何を話せばいいのか分からなかった。けれどその沈黙は、不思議と苦しくなかった。互いに言葉を探せないまま、それでも隣にいることだけは自然だった。どれほどそのまま歩いただろうか。やがて中央セレモニー会場が見えてくる。無数のランタンが夜空へ溶けるように灯り、広場は暖かな橙色の光で満たされていた。音楽、人々の笑い声、揺れる灯り。まるで街全体が一つの火を囲んでいるようだった。
「……綺麗」
ほう、と息を漏らすようにアイリーンが呟く。王都へ出掛けた時から感じていたが、彼女はどうやら美しいものへ素直に目を奪われるらしい。
ギルバートはランタンの灯る広場へ視線を向けた。
「収穫祭の最後には、皆ランタンを家へ持ち帰る」
アイリーンが静かに耳を傾ける。
「豊穣への感謝と、無事帰還の祈りを込めて灯すものだ。国境へ出た騎士たちが、迷わず帰ってこられるようにとも言われている」
暖かな灯りが、アイリーンの青い瞳へ映り込んでいた。
「ひとつ買って帰るか」
アイリーンは小さく頷いた。遠慮がちに断ることもなく、差し出された言葉をそのまま受け取るように。
ランタン売り場へ向けて歩き出した矢先、小さな影が正面から飛び込んできた。ぶつかられたアイリーンの身体がぐらりと揺れる。ギルバートは咄嗟にその肩を抱き寄せた。視線を向ければ、小さな子供が地面へ尻もちをついている。
「大丈夫ですか……!」
ギルバートが声を掛けるより先に、アイリーンはしゃがみ込んでいた。祭装の裾が石畳へ広がるのも構わず、子供へそっと手を差し伸べる。
「立てますか?」
責める色など欠片もない、ただ相手を気遣うだけの優しい声音だった。揺れるランタンの灯りが、アイリーンの横顔を柔らかく照らしている。
「……えへへ、大丈夫」
子供は照れたように笑う。けれど次の瞬間、その視線がアイリーンの後ろに立つギルバートへ向いた。ぴたりと動きが止まる。長身の男。夜色の外套。鋭く細められた金の瞳。西方の戦場で幾度も敵将を討ち取り、“黒薔薇侯爵”と呼ばれる男。領民にとってギルバートは敬愛すべき領主であると同時に、幼い子供が思わず背筋を伸ばしてしまうような存在でもあった。
「も、もしかして侯爵様……?」
「ああ、そうだ」
短い返答に、子供の顔から血の気が引く。
「ご、ごめんなさい……!」
今にも泣きそうな声だった。ギルバートはその頭へ手を置く。
「私ではなく、彼女へ謝るんだ」
子供はぱっとアイリーンを振り返った。
「ごめんなさい!」
アイリーンは怒るどころか、困ったように眉を下げて微笑んでいた。転ばないよう支えていた手も、そのまま離していない。まるで最初から、責めるという選択肢自体存在していないようだった。
「私は平気ですよ」
柔らかな声音に、子供はようやく安心したように息を吐いた。ギルバートはその様子を静かに見下ろしていた。
彼女自身、ずっと傷ついて生きてきたはずだ。それでも、自分より幼く弱いものを前にした時、躊躇いなく手を差し伸べる。その在り方が、ギルバートには少し眩しく見えた。
「それでいい。もう走るなよ」
子供は満面の笑みで何度も頷いた。
「あ!僕のうち、ランタン屋なんだ!お詫びに一つプレゼントするよ!」
思わぬ申し出に、ギルバートとアイリーンは顔を見合わせる。結局、子供へ案内されるまま店へ向かうことになった。
店先には無数のランタンが吊るされていた。琥珀色、深紅、群青、若葉色。硝子へ細かな模様が彫り込まれ、灯りが透けるたび壁や石畳へ幻想的な影を落としている。星座を描いたもの、葡萄の蔦を絡めたもの、西方の麦穂を模したもの。揺れる光はまるで宝石箱のようだった。店主らしい男が慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません!この子がご迷惑を……!」
「子供のすることだ。気にするな」
ギルバートが短く返すと、店主は安堵したように胸を撫で下ろした。
「ぜひお詫びにランタンをお持ちください!」
アイリーンは並ぶ灯りを見上げていた。青い瞳へ次々色彩が映り込んでいく。どれも美しく、簡単には決められないのだろう。
その様子を見ながら、ギルバートは一つのランタンへ手を伸ばした。深い青硝子。夜空を閉じ込めたような色合いの中へ、銀糸のような細い線で星座模様が描かれている。灯りが入ると、内側から淡く光が滲み、静かな夜明け前の空のようにも見えた。
「これは、どうだ」
差し出された瞬間、アイリーンの瞳が大きく見開かれる。その青は、彼女の瞳の色によく似ていた。ギルバート自身、それを無意識に選んでいたことへそこで気づく。アイリーンはそっと両手でランタンを受け取った。まるで壊れ物を扱うように大切そうに抱え、その灯りを見つめる横顔は、先ほどまでよりずっと幼く見えた。
「……素敵です」
静かな声だった。けれど、その響きだけでどれほど気に入ったのか分かった。
「それにします」
嬉しさを隠しきれないまま微笑むアイリーンを見て、ギルは銀貨を置いた。店主が慌てて首を振る。
「いえ、お代は結構ですので!」
「いや、領地で金を回すのも領主の仕事だ」
店主は目を丸くしたあと、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、侯爵様」
店を出る頃には、祭りの喧騒も少し落ち着き始めていた。
「そろそろ戻るか」
ギルバートが言うと、アイリーンがどこか躊躇うように口を開く。
「……ギルバート様」
「なんだ」
「お渡ししたいものがございます」
差し出されたのは、小さな布袋だった。
「……お守りです」
「それは先程もらったが」
「これは、私がギルバート様へお作りしたものです」
そっと手渡されたそれを見て、ギルバートは僅かに目を細めた。黒地の布へ、金糸で繊細な刺繍が施されている。描かれていたのは、西方を守護する黒薔薇。だが鋭い棘ばかりではない。その周囲には麦穂が縫い込まれ、戦と豊穣、その両方を守るヴィリアーズ家を象徴するような意匠になっていた。先ほど騎士団へ渡していた深緑や群青とは違う。これは明らかに、自分のためだけに作られたものだった。
「ギルバート様には本当に良くしていただいていて……」
アイリーンは少し視線を伏せる。
「これで何かがお返しできるわけではありませんが、お渡ししたくて」
受け取った瞬間、微かに花の香りがした。ジャスミン。以前、彼女が好きだと言っていた花だった。
「不必要だとお思いになられたら、おっしゃってください」
不安げに揺れる青い瞳。渡すこと自体、随分迷っていたのだろう。ギルバートはしばらく無言のまま刺繍へ触れた。
令嬢から贈り物を受け取ったことなど、一度もない。侯爵家へ届く品も、騎士団へ贈られるものも、全て返してきた。地位や容姿へ向けられる好意など、煩わしいだけだった。だがこれは違う。目の前の少女は、見返りを求めていない。ただ、自分のために作ったと言った。その事実が、不思議なほど胸へ残る。
「……有り難く、いただこう」
その瞬間、アイリーンの表情がほころぶ。安堵したように、嬉しそうに。その顔を見ていると、胸の奥のどこかが静かに満たされていくようだった。
ギルバートは無意識に、お守りを外套の内側へしまい込む。
「戻ろうか」
「……はい」
無数のランタンが、並んで歩く二人の姿を静かに照らしていた。




