第99話『ポコちん龍、顕現』
クルスは、まるで重力から解き放たれるかのように、ゆっくりと左腕を持ち上げた。
左手を大きく広げ、その掌を漆黒の夜空へと向けた瞬間、重苦しい静寂が周囲を支配する。
「これは……」
その左腕に刻まれた『金玉の紋様』が、まるで封印を解かれたかのように、ドロリとした黄金色の光を放ち始めた。
ドクン。
鼓膜を直接叩くような、重厚な拍動。
ドクン。
その鼓動に呼応するように、辺りに漂う荒ぶる酒気が、吸い寄せられる鉄粉のように掌へと集束していく。
密度を増した酒気は、まるで視界を歪めるほどの熱量を持って渦を巻いた。
やがて、その渦から小さな黄金色の球体が一つ、ポロリとこぼれ落ちる。生まれた瞬間に眩い閃光を散らし、夜の帳を切り裂いた。
続いて。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
乾いた破裂音が、まるで小気味よいリズムを刻むかのように連続する。次々と黄金の球体が空間に解き放たれていく。
一つ。二つ。三つ。十。二十。三十。
気付けば、クルスの掌の周囲には、無数の黄金の星々が禍々しくも美しく浮遊していた。
それは夜空を切り取ったかのような光景であり、今にも弾けそうなほどに濃縮された、金玉そのものの様だ。
その光は周囲を覆い尽くしていた黒い霧を暴き出し、怪物の悍ましい輪郭を金色に縁取っていく。
ソラマルがその光景に圧倒され、目を見開いた。
「なんだ……あの酒気は。これほどまでの力が、奴の中に眠っていたというのか?」
ゆうこもまた、自身の呼吸を忘れて息を呑んだ。
「あれが……クルスの力。普段の彼からは想像もつかない……」
クルスは表情を消し、ゆっくりと巨大な怪物へ左手を向ける。なびく前髪の隙間から覗く瞳は、既に冷徹なまでの静寂を宿していた。
周囲の黒い霧が渦を巻き、彼の足元で空間が軋みを上げる。その立ち姿は、いつもの情けないクルスの面影など微塵も感じさせない、深淵を背負った戦士のそれだった。
「ふっ」
口元を妖しく吊り上げる。
「見よ……これが、深淵より目覚めし左腕の真なる力。運命の輪廻に抗う、究極の業だ」
ゆうこが呆れたように、しかし安堵しながらも突っ込む。
「今それ言う!? 台詞の選択肢が相変わらずすぎるでしょ!」
クルスは、ゆうこのツッコミなど聞こえていないかのように、ただ一点、怪物を見据えて呟く。
「黙れ、凡愚。これは戯れではない。運命が、俺の宿命に牙を剥いた瞬間だ。闇を裂き、虚無を穿つ――黄金の酒気よ、我が意志に応えろ」
左手へ集まる黄金の球体は、さらに数を増やし、密度を深めていく。周囲の空気が振動し、掌の周囲では低く、唸るような音が響き始めた。
「この世の理に抗う者よ、跪け。星屑の裁きは、すでに始まっている」
彼は左手を突き出し、引き金を引くように指を鳴らした。
「喰らえ。金玉!!」
バシュゥゥゥゥゥッ!!
轟音とともに、無数の黄金色の球体が、弾幕となって一斉に巨大な怪物へ撃ち出された。黄金の流星群が夜空を駆け抜ける。
一直線に突き進む光の弾丸は、空気を摩擦で裂き、その軌跡に熱い残光の尾を引いた。
次々と怪物の巨体に命中し、ドガン、ドガンと爆ぜるような衝撃を生みながら、黒い酒気を物理的に吹き飛ばしていく。
ドドドドドドドドドドドドドッ!!
『グォォォォォォオ!!』
命中するたびに怪物の巨体が大きく揺れ、黒い霧の表面が波紋のように激しく歪む。
そして岩壁を砕く勢いで地を蹴り、逃亡を図る。
「うおおおおおお!! 逃げるな、深淵の獣よ!」
クルスは叫びながら左手を突き出し続ける。その表情には、高揚感と確信が入り混じっていた。
「貴様の終焉は、すでにこの掌の中にある! 黄金の星雨に焼かれて消えろ!」
尽きることのない黄金の弾幕となり、巨大な怪物を容赦なく飲み込んでいく。
その圧倒的な圧力に耐えきれず、怪物の巨体がじりじりと後方へ押し返される。ギギギ、と地面を削るような鈍い音が響き、黒い霧が爆風に巻かれて四散した。
「見たか……これが、俺の宿命に刻まれし黄金の左手。闇に堕ちた者に、朝日は不要だ。必要なのは――裁きだけだ。消え失せろ、虚無の化身!」
黄金色の酒気が、左手へ渦を巻くように集まり始める。
それは《金玉》とは比べ物にならない。左手に集まる酒気だけで、周囲の空気が悲鳴を上げていた。
無数の黄金弾を降り注がせる《金玉》が制圧の技ならば、今、凝縮されていく一撃は、そのすべての威力を一つへ叩き込む破滅の爆弾。
「金玉の星雨では屈さないか……。ならばこれが、金玉を極めし究極奥義だ!」
黄金の流星群を束ね、一つの太陽へと圧縮したかのような、桁違いの酒気が左手で脈動する。
その眩い輝きだけで、怪物の黒い酒気が押し返されていく。
「金玉爆弾!!」
ドゴォォォォン!!!
金色の爆炎が轟音とともに怪物を包み込み、その胸部を容赦なく吹き飛ばす。
怪物は巨体を仰け反らせ、爆発の余波は大地を砕き、空気を引き裂き、周囲の空間さえ歪ませるほどの圧倒的な破壊力を撒き散らした。
『ガァァァァァァァァァ!!』
怪物が悲鳴を上げ、全身を覆っていた黒き酒気が、ひび割れた鎧の隙間からぼろぼろと剥がれ落ちていく。
巨大な腕は砕け、酒樽の鎧はひしゃげて弾け飛び、柱のようだった身体には無数の亀裂が走った。
亀裂の奥からは、どす黒い光が脈打つように漏れ出し、怪物の生命力が枯渇していくのを示していた。
「効いてる! あと少しよ!」
サクが叫ぶ。ゆうこも拳を握りしめ、高揚を隠さない。
「押し切れる! このままいけば!」
だが、その瞬間、怪物は不気味な笑みを浮かべた。
『……ククク。ならば、全て道連れだ』
ドクン。
次の瞬間、怪物の身体が内側から異様に脈打ち始めた。
砕けかけた肉体の裂け目から、黒い酒気が暴風のように噴き上がる。それは破裂寸前の酒樽に無理やり圧をかけ続けるように、怪物の中心へと一気に集束していく。
ソラマルの顔色が凍りついた。
「まずい……! 離れろ!! 自爆する気だ!!」
ゴゴゴゴゴゴゴ……!!
黒い酒気は怪物の胸元へ、腹へ、頭へと際限なく吸い寄せられていく。周囲の空気が重く澱み、床板が軋み、天井の梁が悲鳴を上げた。
酒蔵の中だけではない。遠く、見えない国土の隅々からまで、この国の生命線である酒気が引き剥がされるように集まってくる。
やぁ子が青ざめ、震える声で叫ぶ。
「そんな……国中の酒気を集めてる!」
杜氏が歯を食いしばる。
「あれが爆ぜれば……この国ごと消し飛ぶ!」
怪物の身体は、もはや黒い酒気の純粋な塊となっていた。膨張し、収縮し、ひび割れた表面の奥で、禍々しい光が今にも弾けそうに明滅する。
空気は熱を帯び、耳の奥がきんと痛む。次の瞬間に訪れる破滅が、誰の目にもはっきりと見えていた。
クルスは怪物を睨みつける。その表情には恐怖などなく、ただ静かな闘志が宿っていた。
「そんな戯言……! この終焉の渦の前で、貴様らの破滅を見過ごすものかぁぁぁぁ!!!」
その瞬間、熱を帯びる右腕。
ドクン。
怪物が引き寄せた強大な酒気の渦に呼応するように、クルスの右腕に刻まれた『ポコちんの紋様』が、太陽にも匹敵する眩い光を放った。
暴走する黒い酒気を押し返そうとしたその力が、逆に周囲の酒気を巻き込み、一本の奔流となって右手へ集まり始める。
「この奔流……! まさか、我が右腕の封印が共鳴しているのか……!」
酒気が右手へ集まっていく。掌の上で渦を巻き、光の粒が幾重にも重なり、黄金の奔流がうねりながら形を変えていく。
細長い胴。鋭い爪。逆立つ鬣。そして、天を睨む双眸。
黄金の光は、一本の長い形を作り始めた。鱗が一枚、また一枚と浮かび上がり、牙が閃き、角が夜気を裂く。酒気は次第に、巨大な龍の姿へと変わっていく。
「まだ終焉は訪れていない……! 我が右腕に眠る力は、今まさに覚醒の刻を迎えた!!」
クルスの瞳が金色に輝く。厨二病全開の笑みを浮かべ、右手を高々と掲げる。
その背後で、怪物が集めた黒い酒気と、クルスの右腕から溢れ出した黄金の酒気が、まるで宿命そのもののようにぶつかり合い、天地を揺るがす渦を巻いた。
「目覚めよ……! 我が右腕に封じられし、禁忌の神獣よ!! 天を裂き! 大地を穿ち! すべての穢れを喰らい尽くせ!!」
右手の酒気が咆哮した。
ゴォォォォォォォッ!!
黄金の龍が夜空へ舞い上がる。その巨体が一閃するたび、黒い酒気の奔流が切り裂かれ、怪物の自爆の核へと真正面から食らいついていく。
龍の鱗が月光を弾き、尾が空を薙ぎ、咆哮が酒蔵の屋根を震わせた。
「喰らい尽くせぇぇぇぇぇぇ!!!」
「顕現せよ、【ポコちん龍】!!!!」
ゴォォォォォォォォォッ!!
黄金の龍は天へ向かって咆哮すると、一瞬で巨大な怪物へ襲い掛かった。
『グァァァァァァァァァァ!!!』
怪物は黒い酒気を爆発させようとする。しかし、遅い。黄金の龍はその黒い酒気ごと飲み込み、一直線に怪物の胸を貫いた。
ズドォォォォォォォォンッ!!!
凄まじい閃光が夜空を染める。黒い酒気が四方八方へ吹き飛び、怪物の身体には無数の亀裂が走った。
パキッ。パキパキパキッ!!!
梁が砕け、柱が崩れ、酒樽が弾け飛ぶ。そして。
『バ……カ……ナ……』
怪物は最後の言葉を残し。
ドガァァァァァァァン!!!
木っ端微塵に砕け散った。黄金の光が黒い酒気を浄化しながら夜空へ昇っていく。静寂。やがて、日本酒の国を包んでいた黒い霧は、跡形もなく消え去っていた。
夜空には満天の星。穏やかな風が酒蔵を吹き抜ける。クルスはゆっくりと右手を下ろす。そして、ふっと前髪をかき上げた。
「悪いな……俺のポコちんは……」
一拍置いて、不敵に笑う。
「世界まで守れちまうんだぜ」
沈黙。ゆうこは無表情のまま口を開く。
「……最後まで、その台詞で台無しね」
サクは肩を震わせる。
「ふふっ……まあ、勝ったからいいか」
ソラマルは腹を抱えて豪快に笑った。
「がっはっはっはっは!! 最高だ!! お前のその無駄な威厳、嫌いじゃないぞ!!」
やぁ子も涙を流しながら笑う。
「クルスさん、かっこいいのに台詞だけ最低ーー!!」
そして、日本酒の国に、再び平和な笑い声が響き渡るのだった。




