第98話『包帯の下に眠る真実』
気が付けば、二年が過ぎていた。
七百三十連勤。一日も休まなかった。いや、休めなかったというのが正解だろう。
朝が来て、機械のように働き、夜になって、また朝が来る。その終わりのない連鎖に、今日が何曜日なのか、今が何月なのかさえ、俺の意識からは剥がれ落ちていた。
「……何のために生きてるんだろ」
ぽつりと漏れた独り言は、騒音に紛れて誰にも届かない。仕事を終わらせるために生きる。それが俺の唯一の存在意義になっていた。
食事をするのも、睡眠をとるのも、呼吸をするのも、すべては仕事を続けるための手段に過ぎない。
生きるために働くのではなく、働くためだけに生かされている――そんな歪な現実に、疑問を持つことさえ麻痺していた。
社会人だから我慢して当たり前、もっと辛い人がいる。そんな言葉で自分を追い込み、逃げ場を塞いでいた。
気付けば、俺の視野は極端に狭まり、目の前のモニターに映る数字と、山積みの資料以外は何も映らなくなっていた。
「助けて」
喉元まで出かかったその一言を、俺は力ずくで飲み込んだ。弱音を吐いてはいけない。そう思い込み、責任も不安も、すべてを一人で背負い込んだ。
結果として、今の自分がどこへ向かって走っているのか、そもそもこの足はまだ大地を捉えているのかさえ、分からなくなっていたのだ。
◇
その日も、終電はとっくになくなっていた。誰もいない静まり返ったオフィスで、頭上の蛍光灯だけがチカチカと不規則に明滅し、神経を逆なでしてくる。
クルスは鉛のように重たい身体を引きずるようにして立ち上がると、ふらつく足取りでトイレへと向かった。
「はぁ……」
洗面台の鏡に映った自分の顔は、もはや別人だった。頬はげっそりとこけ、目の下には深い色素沈着のような隈が刻まれている。
生きる気力など、とうの昔に擦り切れて消えていた。
ふと、用を足そうとしたその時だった。
ぽたっ。
便器の陶器を叩いた液体を見て、クルスは動けなくなった。赤い。疑いようもなく、鮮烈な赤色だった。
「……え?」
思考が真っ白に染まる。頭の奥で警報音が鳴り響き、心臓が耳元で激しく鼓動を打つ。呼吸が急激に浅くなり、酸素が肺に届かない。身体から急速に力が抜け、地面へと崩れ落ちる。
「まだ……仕事、が終わってな……い……」
最期の意識の淵で、そんな呪いのような言葉を呟き、俺の視界は漆黒の闇へと沈んでいった。
◇
どれくらいの時間が過ぎただろうか。冷たい石畳の感触と、頬を撫でる柔らかな風で目が覚めた。
どこからか聞こえる鳥のさえずりと、木々が風に揺れる心地よい音。
恐る恐る目を開けると、そこは見たこともない世界だった。
石畳の道。木造の建物。
鼻をくすぐる酒の香り。
日本では決して見ることのない街並みが目の前に広がっている。
「……ここは、どこだ」
俺は確か、会社のトイレで倒れたはずだ。
なのに今いるのは、まるで異世界としか思えない場所だった。
道行く人々は、見たことのない酒瓶を腰に提げ、楽しそうに笑っている。
漂ってくるのは、米や果実を発酵させたような甘い香り。
「夢……じゃないのか」
頬をつねる。痛い。
ちゃんと痛い。
身体を起こし、慌てて周囲を見回す。
あの蛍光灯も。積み上げられた書類も。コピー機の音も。会社そのものが、跡形もなく消えていた。
代わりに目の前にあったのは、温かみのある木造建築だった。
入口には『ぽしゃけ医療所』と書かれた木製の看板が掲げられていた。
“ぽしゃけ”なんて言葉、日本では聞いたこともない。なのに、不思議とそこへ入らなければならない気がした。
訳も分からないまま、それでも今の俺が頼れる唯一の場所がそこしかないと、本能が告げていた。ふらつく足で重たい扉を押し開くと、ギィという軋んだ音が静寂に響く。
「いらっしゃい」
白衣を着た一人の女性が立っていた。その隣には銀髪の女性。見知らぬ人のはずなのに。張りつめていた心が、不思議なくらい少しだけ軽くなった。
「……助かった」
気付けば、そんな言葉が口から漏れていた。
あの日。
あの出会いが、俺の人生を変えた。
◇
その瞬間、猛烈なめまいと共に意識が現実へと引き戻される。
「……違うッ!」
目の前に広がる、灰色のオフィス風景が歪む。黒い霧が不気味にざわめき、薄暗い絶望の記憶が音を立てて崩れ始めた。クルスは強く拳を握りしめ、自分を鼓舞する。
あの頃の俺は、一人だった。助けを求めることもできず、孤独の中で自分を壊し続けていた。だが、今は違う。脳裏に、強烈な記憶が鮮明に浮かび上がる。
無表情で毒舌だが、誰よりも患者を見捨てない白衣の先生――ゆうこさん。「いいから飲め」と突きつけられた薬と、その言葉に含まれた優しさ。
静かに背中を預けられる、銀髪のサクさんの穏やかな眼差し。豪快に笑うソラマル師匠の背中と、元気いっぱいに駆け回るやぁ子さんの笑顔。
俺の周りには、いつの間にかこんなにも多くの仲間がいたのだ。
「俺は……もう一人じゃない。守りたい人がいて、帰りたい場所がある。生きる理由なら、ここにあるんだ!」
叫ぶと同時に、俺を縛り付けていた黒い霧に小さな亀裂が走る。パキィンという甲高い音が、静寂を切り裂いた。
「こんな幻なんかに、負けてたまるかぁぁぁぁ!!!」
クルスは渾身の力を込め、大地を蹴って前へ踏み出した。その瞬間、オフィスが、書類が、すべてが塵となって消えていく。
静寂。クルスはゆっくりと目を開く。黒い霧はまだ辺りを覆っているが、もう先ほどのような絶望的な重苦しさは消えていた。
「……生きてる」
小さく呟いた瞬間、パチンと何かが弾ける音が響いた。見ると、両腕に幾重にも巻かれていた包帯が、意志を持つかのようにひとりでにほどけ始めている。
するり、と解けていく包帯の隙間から、露わになった腕。そこには、俺がずっと隠し続けていた「真実」が刻まれていた。
左腕には、金色の酒気で描かれた、丸みを帯びた紋様。どこからどう見ても――「金玉」のそれだった。
右腕には、一本真っ直ぐに伸びた紋様。先端の形状まで妙に芸術性が高く、一目で「ポコちん」だと分かる代物だ。
俺は、ふっと笑みをこぼした。
「……そうか。俺、ずっとこれを恥じて隠してたんだな」
恥ずかしかった。笑われるのが何よりも怖かった。けれど、ソラマル師匠との修行で町中を駆け回り、踊り狂い、笑い合ったあの時間は、間違いなく俺の心の鎖を解いてくれていた。
クルスは足元に落ちた包帯を拾い上げ、愛おしそうに見つめてから、にやりと笑う。
「もう、いらない」
包帯を放り投げると、両腕の紋様が淡く、しかし力強く輝き始めた。二つの紋様からあふれ出す、澄み切った酒気。
「これが、師匠の言っていた……恥を捨てた先にある力か!」
黒い霧が、その神聖な酒気の輝きを恐れるように、音もなく後退していく。
クルスは今、己の真実と共に、新たな一歩を踏み出したのだ。




