第97話『心を喰らう霧』
「散れぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
ソラマルが叫ぶ。その声に呼応するように、職人たちは一斉に広場へ飛び出した。
その直後――。
ズガァァァァァン!!
巨大な腕が地面へ叩きつけられる。凄まじい衝撃波が広場を駆け抜け、石畳が豆腐のように砕け散った。舞い上がった土煙が、夜空の月光を遮り、闇をより一層深く濃くしていく。
「くっ……!」
クルスは飛来する礫から顔を庇いながら、必死に踏み止まる。肺を震わすほどの重低音が収まり、視界が晴れた時。そこに広がっていたのは、かつての姿を留めない惨状だった。
そこにあった酒蔵は、もう酒蔵ではなかった。柱を骨格に、瓦礫を肉付けした巨大な木造の怪物。
肩には無数の酒樽が突き刺さり、全身をドロリとした黒い酒気が這い回っている。それはまるで、意思を持って呼吸を繰り返す生きた要塞だった。
『……』
怪物はギギギという木材の軋む音を立てて、ゆっくりと巨大な腕を持ち上げる。たったそれだけの動作で、大気が震え、周囲の地面が波打つように揺れた。
「皆さん! 俺が前へ出ます!」
クルスが仲間へ向かって叫ぶ。
だが、ソラマルは即座に首を横に振った。
「違う! 見ろ!」
指差された先、怪物の身体をよく見ると、柱と柱の隙間からどす黒い液体――酒気が絶え間なく流れ込んでいる。それはまるで、この国中の闇と絶望を吸い集めているかのような悍ましさだった。
杜氏が歯を食いしばり、険しい表情で言い放つ。
「奴は蔵を器にしただけじゃ。本体は、あの黒い酒気そのものじゃ!」
「つまり!」
ゆうこが追い討ちをかけるように叫んだ。
「木を壊しても、本体を消さない限り倒せない!」
その瞬間、怪物が両腕を大きく広げた。
ゴゴゴゴゴ……。
鈍い地鳴りとともに、背中に突き刺さっていた無数の酒樽が一斉に宙へと浮かび上がる。
「まずい!」
サクが反射的に弓を構えた。次の瞬間、ドドドドドドドドッ!! という轟音とともに、酒樽が砲弾のような勢いで降り注ぐ。
「散開!!」
クルスたちは左右へ飛び退く。酒樽が地面へ激突するたび、中身の黒い酒気が爆発し、周囲の空間を腐食させていく。
「ただの酒じゃない、触るな!」
ゆうこの叫びが響く。一つの酒樽が近くの木へぶつかり、バシャッ!! と音を立てて中から溢れた黒い酒が木の幹へ染み込んだ瞬間。
ミシミシミシ……。
硬い木の幹が黒く染まり、枝葉が異様にねじ曲がって枯れていく。まるで生命そのものを塗り潰すかのような毒性。
「酒まで穢れてる……! こんなの、反則でしょう……!」
クルスは歯を食いしばり、拳を握り締める。
ソラマルが前に躍り出る。
「反則上等だ! 俺たちは酒蔵を守る、それだけだ!」
彼の全身が黄金色の酒気に包まれる。
「巨根!!」
ぶわぁぁぁっ!!
巨大化した拳が怪物の右腕へ叩き込まれる。
ドゴォォォォン!!
腕が木片となって粉々に砕け散った。
しかし、砕け散った木片は黒い酒気に包まれ、触手のように蠢きながら瞬く間に元通りの腕へと再構築されていく。
「再生した!?」
ソラマルが目を見開く。杜氏は唇を噛み締め、絶望的な事実を口にした。
「やはり……本体を見つけぬ限り、何度でも蘇る!」
巨大な怪物は冷ややかな視線を向け、ゆっくりと三人を見下ろした。そして、その胸元に浮かんだ黒い口が、歪に笑う。
次の瞬間だった。
ゴォォォォォッ!!
怪物の全身から、濃密な黒い酒気が一気に噴き出す。
「なっ!?」
ゆうこが目を見開く。その黒い霧は地面を這うように広がり、一瞬にして酒蔵一帯を漆黒の闇で覆い尽くした。
「霧だ!」
サクの叫びも虚しく、視界が一瞬で奪われる。白ではない。墨を溶かしたような、底なしの漆黒の霧。
「ごほっ……!」
クルスが思わず咳き込む。
鼻を突いたのは、酒の香りではない。冷え切ったインスタントコーヒーと、古い紙が擦れる匂い。
熱を持ったコピー機から吐き出される微かな焦げ臭さと、埃まみれの空調の風。そして、終わらない残業の中で肌に染みついた、あの惨めな汗の匂いだった。
息を吸うたびに、黒い霧が肺の奥へ、神経の隅々まで入り込んでいく。
「まずい……っ」
視界が不規則に揺れ、足元が急激にふらつく。胸の奥が冷たい重りで満たされ、深く沈んでいくような感覚。耳の奥で、自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく、鈍く鳴っていた。
◇ ◇ ◇
すると、深い霧の向こうから、誰かの声が聞こえた。
『クルス』
聞き覚えのある声だった。いや、聞き慣れすぎて、もう反射で身体が強張ってしまう声。
「……え?」
気付けば、酒蔵の戦場は消えていた。
代わりに広がっていたのは、深夜のオフィス。蛍光灯は半分以上が切れ、机の上には雪崩のように積み上げられた書類の山。
赤字だらけの修正指示書、空になった栄養ドリンクの缶、そして鳴り止まない内線電話の呼び出し音。
窓の外は、絶望のように真っ暗だ。壁の時計の針だけが、深夜をとっくに過ぎた時刻を残酷に指している。
「ここは……」
懐かしい。いや、思い出したくもない場所。
終電を逃すのが当たり前で、始発で帰ることすら奇跡のようなあの職場。
休日は「念のため」と出社を強要され、有給など最初から存在しないものとして扱われた場所。
熱があろうが、指先が痺れて動かなくなろうが、胃が焼けるように痛もうが、這ってでも出社しろと言われたあの場所だ。
『お前は役立たずだ』
背後から冷たい声が飛ぶ。クルスの肩が、当時の恐怖を思い出して震えた。
『お前に任せた仕事は、全部やり直しだ』
『なんでこんなこともできない』
『謝って済むと思ってるのか』
『今日中だ。寝るな。帰るな。終わるまでやれ』
次々と浴びせられる言葉は、怒鳴り声ではなく、もっと静かで残酷な圧力だった。数字と期限と責任だけを並べ立て、人間としての尊厳を削り取る言葉の刃。
クルスは無意識にうつむき、震える指を隠した。
「違う……俺は……」
『違わない』
『お前が遅いから、全員が残る』
『お前がミスしたせいで、こっちまで迷惑だ』
『お前は失敗ばかりだ』
『誰の役にも立てない』
『だから、一人でやれ』
『迷惑をかけるな』
胸が締め付けられ、息ができない。酸素が足りないのではなく、心の中に重い鉛が詰め込まれていくような感覚。クルスは耳を塞ぐ。
だが、耳を塞いでも、あの頃の冷たい言葉は脳裏に直接響き続ける。
深夜二時。机に突っ伏したまま、数分だけ意識を落とす。目を開ければ、また画面の中の数字が増えている。
修正、差し戻し、再提出。「できるまで帰るな」と告げられ、気付けば一日が三日分に伸びていた。食事はコンビニのパン一つ。
眠気を飛ばすために流し込んだ缶コーヒーの本数だけ、指先が細かく痙攣した。
「やめてくれ……もう、やめてくれ……」
それでも声は止まらない。
『助けなんて求めるな』
『お前が全部背負え』
『誰にも頼るな』
『弱音を吐くな』
『倒れるのは、仕事を終えてからにしろ』
その言葉は、かつてクルスが自分自身に呪いのように言い聞かせ続けていた言葉そのものだった。
助けを求めることは、甘えだと思っていた。休むことは、罪深い怠慢だと思っていた。限界を超えても、まだいけると笑っていた。
身体が悲鳴を上げ、関節が軋む音に気付いていながら、「まだ平気だ」と見ないふりをした。
手の震えも、胸の激痛も、視界の端が暗くなる感覚さえも、全部「気のせい」という言葉で塗り潰した。
あの頃のクルスは、仕事を終わらせるためなら自分の命すら後回しにしていた。誰かに褒められたかったわけじゃない。
ただ、役に立たない人間だと切り捨てられるのが、何よりも怖かった。だから、心臓が壊れそうでも笑った。倒れそうになっても立ち上がった。「大丈夫です」と言い続けた。
その結果、心も身体も、静かに、そして確実に擦り切れていった。
ふと我に返れば、クルスは誰にも必要とされない、孤独な場所にいた。
暗闇の中で、誰にも助けを求められず、誰にも本当の姿を見せられず、ただ膝を抱えて小さく震えていた。
あのまま、あの場所で働き続けていたら、確実に死んでいただろう。そう思えるほど、彼は限界のその先まで追い詰められていた。
今、再びその記憶の淵に沈み、クルスの意識は霧の中で霧散しようとしている。
このまま、あの暗いオフィスへと呑み込まれてしまうのか。




