第96話『酒蔵喰らい』
翌朝。
ちゅん、ちゅん。
小鳥たちが軽快にさえずり、夜露に濡れた庭先を、柔らかな朝の風が静かに吹き抜けていく。
まだ陽光は淡く、世界は目覚めたばかりの穏やかな空気に満ちていた。
やぁ子の家では、活気あふれる朝食の支度がすでに始まっている。
「みんなー! 朝ごはんできたよー!」
やぁ子の元気いっぱいの声が家中に響き渡る。
その香ばしい匂いにつられるようにして、クルスが眠たげに目をこすりながら、ゆっくりと部屋から出てきた。
「おはようございます……」
「おはよう。よく眠れた?」
縁側では、ゆうこがすでに湯呑みを片手に、朝の清々しい景色を眺めていた。
サクもその隣に立ち、穏やかな眼差しを庭へ向けて微笑んでいる。
「空気が澄んでいて、本当に気持ちのいい朝ね」
クルスは大きく背伸びをして満足げに答えた。
「日本酒の国って、朝の表情が本当に綺麗ですねぇ」
昨夜の祭りの喧騒が嘘のような、嘘みたいに平和な静寂がそこにはあった。
その時だった。ガラッ、と鋭い音を立てて玄関の戸が勢いよく開け放たれた。
「お兄ちゃん?」
やぁ子が不可解な面持ちで振り返る。
しかし、そこに立っていたソラマルは、いつもの豪快で大らかな笑顔を浮かべてはいなかった。
額にはびっしりと冷や汗が滲み、口元は強張っている。その険しい表情のまま、彼は重々しく口を開いた。
「やぁ子」
「……どうしたの? そんな顔をして」
「……酒蔵へ行く」
短く、しかし拒絶を許さない響きを含んだ一言。その声には、彼がこれまで決して見せたことのない、張り詰めた緊張が宿っていた。
一瞬にして、部屋の空気が凍りつくように一変する。
ゆうこが椅子から立ち上がり、鋭い眼差しでソラマルを見つめた。
「何か、あったのね?」
ソラマルは一瞬だけ、何かを躊躇うように目を伏せた。けれど、決意を固めたように顔を上げ、静かに告げる。
「……酒が、泣いているんだ」
その言葉の意味を理解した瞬間、やぁ子の表情がすっと硬直する。
「そんな……まさか」
クルスは怪訝そうに首を傾げた。
「酒が、泣く……? 一体、どういうことですか?」
「説明は後だ。来てくれ。お前たちに、直接見てほしいものがある」
ソラマルが背を向けて歩き出す。その真剣な眼差しを見た瞬間、ゆうこたちは無言で頷き、彼のあとに続いた。穏やかな朝は、唐突に終わりを告げた。
ゆうこたちはソラマルの背を追い、朝靄が立ち込める石畳を急いで歩いていた。普段なら朝市の活気で賑わうはずの通りも、今はまだ人影まばらで寂しい。
遠くから聞こえてくるのは、水車の回る規則的な音と、小川のせせらぎばかりだ。やがて、一行は酒蔵の前へとたどり着いた。
巨大な杉玉が軒先で静かに揺れ、木造の酒蔵からは、今まさに蒸された米の真っ白な湯気が立ち上っている。
一見すれば、何も変わらない、いつもの朝の光景。けれど、ゆうこは蔵の入り口でふと足を止めた。微かな異変を察知したのだ。
「……いる」
その一言だけで、全員が戦闘態勢に入る。ソラマルも重苦しく頷いた。
「やはり、来ていたか」
ギィィィ……と、酒蔵の重厚な扉がゆっくりと開かれる。中では、杜氏たちがいつも通り静かに酒を仕込んでいた。
木桶をかき混ぜる心地よい音、鼻腔をくすぐる米の湯気、そして芳醇な酒の甘い香り。その穏やかな空間を、すべて切り裂くように――。
ぽちゃん。
黒い、泥のような雫が一滴、もろみの中へと落ちた。
ゆうこの瞳が鋭く光る。
「いたわ!」
次の瞬間、仕込み桶の中から、どろりとした黒い酒気が噴き上がった。
ぐちゃ、ぐちゅ、という粘り気のある音が木霊し、真っ黒な塊が、まるで生き物のように人の形を成していく。
肩、腕、胴、そして顔。輪郭の定まらない漆黒の影が、ゆっくりと桶の上へ立ち上がった。
その光景を見た瞬間、クルスは息を呑んだ。
「また、お前か……!」
人影は言葉を発しない。ただ、ゆっくりと首を傾げるだけだ。そして、にたりと口だけが引き裂かれるように歪み、笑みを浮かべる。
ゾクリとした悪寒が、酒蔵中の空気を支配した。
「杜氏さんたちを外へ避難させて!」
ゆうこの鋭い叫び声が飛ぶ。
「任せて!」
サクが駆け出し、杜氏たちを誘導し始めた。
「皆さん、早く外へ! ここから離れてください!」
しかし、人影の動きは速かった。ズルッ、と床を滑るように移動し、逃げ惑う杜氏たちを追い詰める。
「まずい!」
ソラマルが叫びと共に飛び出した。
「巨根!!」
ぼんっ!! という空気を揺らす音と共に、巨大化した武器が黒い人影へ叩き付けられる。
ドゴォォォォン!! という凄まじい衝撃音が響き、酒蔵全体が激しく揺れた。
しかし、黒い人影は吹き飛ばされるどころか、その一撃を受け止めたまま、ぬるりと身体を変形させていく。
「なんだと……効かないのか!」
ソラマルが目を見開く。人影はデカちんを伝うように這い上がり、ソラマルの目前まで迫った。
「危ない!」
その瞬間、小さな青い影がぴょんっと飛び出した。「しゅわっ!」という掛け声と共に、しゅわ丸が人影の顔面に勢いよく張り付く。
ぶくぶくぶくっ! と身体中から細かな泡が一気に溢れ出し、黒い人影の動きがわずかに鈍る。
「今よ!」
ヒュンッ!!
サクの放った矢が一直線に空を切り、人影の肩を貫いて、その身体を背後の酒樽へ縫い付けた。
「やった!」
しゅわ丸がぴょんっと飛び退き、ゆうこの肩へ戻る。
「しゅわ!」
「ナイスよ、しゅわ丸」
ゆうこは短く微笑むと、そのまま掌を前へ突き出した。周囲の酒気が集まり、目に見えるほどの密度で圧縮されていく。
「圧縮玉!」
ドォォォォン!! という轟音とともに圧縮玉が直撃した。
酒蔵が悲鳴を上げ、樽が倒れ、渦巻く酒気が室内を荒れ狂う。煙が晴れたとき、そこには――誰もいなかった。
「きえた……?」
しゅわ丸が首をかしげ、辺りをきょろきょろと見回す。
「……いない?」
クルスが周囲を警戒する。その時、ぽちゃん。酒蔵の奥にある巨大な仕込み桶から、小さな水音が響いた。
全員が一斉に振り返る。黒いもろみの表面が、ゆっくりと波紋を広げ、人影は再び、もろみの底へと静かに沈んでいった。
ソラマルは拳を固く握り締める。
「……逃げたんじゃない。この蔵そのものに、潜り込んだんだ」
静寂が訪れる。聞こえるのは、自分たちの荒い呼吸音だけ。
やがて――ミシッ。どこからともなく、小さな軋む音が響いた。
「……今の音」
やぁ子が周囲を睨む。
――ミシ……ミシミシ……。
音は次第に大きくなっていく。
その瞬間、ドォンッ!!と酒蔵全体が激しく揺れ、天井から木くずが雨のように降り注いだ。
柱が軋み、梁が震え、壁一面を黒い酒気が血管のように這い上がる。
「まずい、倒壊するぞ!」
杜氏が叫び、職人たちが一斉に駆け出す。
その直後、ズズズズズ……と酒蔵そのものが、生き物のように震えながら動き始めた。
「嘘……」
ゆうこが息を呑む。
床板が波打ち、柱がゆっくりと地面から持ち上がる。無数の酒樽が宙へ浮かび、黒い酒気に呑み込まれて鎧のように身体を覆っていく。屋根がきしみながら折れ曲がり、巨大な腕を形作る。
「蔵が……動いてる……」
サクが信じられないものを見る目で呟く。
轟音とともに、酒蔵が大地から立ち上がった。柱が足となり、梁が腕となり、無数の酒樽が強固な外殻となる。
そして、入口だった場所が大きく裂け、黒い闇が口のように開く。ギギギギギ……と不気味な音を立てて、その奥で二つの真紅の光が灯った。それは、この世ならざる者の瞳だった。
『…………』
言葉などない。だが、その巨大な質量から放たれる漆黒の酒気だけで、大地が震え、周囲の空気さえも重圧に押しつぶされそうだ。
ソラマルは刀を抜き放ち、覚悟を決める。
「これが……」
杜氏が苦々しく、しかし諦念を含んだ声で呟いた。
「酒蔵喰らい……。酒気を喰らい、蔵そのものを器にする魔物じゃ」
巨大な酒蔵の怪物は、ゆっくりと腕を振り上げる。その影だけで、広場全体が覆い尽くされた。クルスはごくりと唾を飲み込み、震える声で問う。
「こんなの……どうやって倒すんですか……」
答える者はいない。
次の瞬間、怪物は咆哮にも似た轟音を響かせ、この日本酒の国全体を揺るがすほどの一撃を、全力で振り下ろした。




