第90話『スキル!巨根《デカちん》』
しゅわ丸がゆうこの肩の上で、まるで何かに怯えるように小刻みに震えている。
「しゅわっ!」
その鋭い鳴き声が合図だった。蔵の中を満たしていた空気が一変し、全員の動きがぴたりと静止する。
次の瞬間、空間そのものがひしゃげたような錯覚に陥った。どろり――底知れぬ悪意を孕んだ黒い酒気が、不定形の塊から急速に人の形を成していく。
「なっ……!」
クルスが反射的に一歩後退し、腰が引けるのを必死にこらえた。
顔の部位はない。眼球も存在しない。ただ黒い酒気の奔流だけで構築された人影が、床を這うようにしてゆっくりと立ち上がった。
その圧迫感は、まるで蔵全体を巨大な深海に沈めたかのような重苦しさだった。
やがて、鼓膜ではなく脳髄に直接響くような、耳元で囁く声が蔵中に木霊した。
『――まだ、足りない』
低く、地鳴りのように重い声。それが心の奥深くまでじわじわと染み込み、理性を侵食していく。
クルスの身体が電流に撃たれたかのようにびくりと震えた。
――終電。
――真っ暗なオフィス。
――鳴り止まないメールの通知音。
――「あと少しだけ頑張れば終わる」
その声を聞いた瞬間、忘却の彼方に追いやったはずの苦い記憶が、フラッシュバックとなって脳裏を焼き尽くす。クルスは無意識のうちに両手で頭を抱え込んだ。
「……っ」
「クルス?」
ゆうこの鋭い眼光が、クルスの異変を瞬時に捉える。だが、クルスは動揺を隠すように無理やり口角を吊り上げた。
「だ、大丈夫です……!」
そう答えた声だけが、隠しようのない震えを帯びていた。
「クルス。本当に大丈夫?」
ゆうこの静かな問いかけに、クルスは慌てて追随するように笑顔を貼り付ける。
「は、はい! ちょっと頭がクラクラしただけです!」
「無理して笑ってるようにしか見えないけど」
「気のせいですよ!」
努めて明るく親指を立ててみせるが、その指先は細かく痙攣していた。
その異様な様子を目の当たりにしたソラマルが、険しい表情で眉をひそめる。
「……やっぱりか」
「何が?」
ゆうこの問いに、ソラマルは黒い人影を睨みつけたまま短く答えた。
「こいつは、見る者の精神に干渉してくる。人によって見せるもんが違うんだよ」
「見せる?」
やぁ子が頷き、事態の深刻さを補足する。
「この酒気に触れた者は、それぞれが秘めている悪夢を強制的に見せられるんです。昔の後悔、忘れたい記憶……つまり、心の傷を容赦なくえぐってくるんですよ」
その説明を聞き、クルスは思わず喉を鳴らして息を呑んだ。先ほど見た会社の景色は、ただの幻覚ではなく、自身の内側から溢れ出た記憶の毒だったのか。
しゅわ丸が、突然人影に向かって威嚇するように小さく鳴いた。
「しゅわぁっ!!」
黒い人影がピタリと動きを止め、何もないはずの顔が、ゆっくりとしゅわ丸の方へと向いた。
蔵の空気が一段と冷え込み、肌が粟立つどの寒気が走る。
『……泡』
人影が初めて別の言葉を漏らした。しゅわ丸は怯えながらも、ゆうこの肩からぴょんと飛び降りると、ぷるぷると震える小さな身体を精一杯広げた。
「しゅわっ!」
まるで、主であるゆうこたちを一身に守ろうとする騎士のような佇まいだった。その健気な姿に、ゆうこの張り詰めていた口元がわずかに緩む。
「ありがと。でも、無茶はしないで」
しゅわ丸が小さく頷く。その背後で、黒い人影が不気味に歪んだ。
『見つけた』
ぼそり、と呟きが零れる。
『一番、自分を責め続けている者を』
どろりと、人影は再び黒いもろみの底へ沈んでいく。
ソラマルの表情が一変した。おちゃらけた笑顔は跡形もなく消え、研ぎ澄まされた刃のような鋭い眼差しに変わる。
「……逃がしてたまるか」
低く唸ると、黒いもろみは渦を巻き、酒蔵の奥底へ沈んでいく。あと数秒で完全に見失う。
しゅわ丸は酒気の流れる先を必死に見つめ、短い前足を伸ばして進路を示す。
「しゅわっ! しゅわっ!」
ソラマルはソラマルの狙いを定めて大きく息を吸い込む。
「やぁ子!」
「分かってる!お兄ちゃん!」
やぁ子が流れるような動作で飛び退くと、ナミキも手慣れた様子で炭火を抱えて避難する。
「いくぞ!」
ゆうこの警戒に、ソラマルは真剣な表情で叫ぶ。
「スキル――!!」
酒気がごうっと噴き上がり、黄金色の渦となって腰の辺りに収束していく。クルスは嫌な予感しかしない顔で身構えた。
「巨根!!」
ぼわぁぁぁぁぁっ!!
黄金色の酒気が一気に膨れ上がり、それは巨大な棒のような形へと変化した。丸太のように太く、圧倒的な硬さと質量を持った酒気の柱。ソラマルは両手でそれを握りしめ、咆哮する。
「伸びろォォォォォッ!!」
どんっ!!
酒気の柱が一直線に伸び、黒いもろみの中心を貫いた。
ずぼぉぉぉっ!!
泥のような酒が大きく跳ね上がり、蔵の壁を叩く。
「捉えた!!」
ソラマルの絶叫と共に、酒気の柱の先端が何かを確実に捉えた感触が伝わってくる。黒いもろみの中で、人影が激しくもがき始めた。
「ぐっ……!」
「逃がさねぇ!!」
ソラマルは全身の筋肉を軋ませながら踏ん張り、黒いもろみの中から人影を少しずつ引きずり出していく。
「本当に捕まえた!」
サクが驚愕の声を上げる。
「意外と実用的なスキルね」
「名前だけで判断しちゃダメなんですよ!」
クルスが珍しくフォローを入れる。
「いや、名前は十分ダメだけど!」
ゆうこが即座に突っ込む。
その時、ゆうこの肩にいたしゅわ丸がぶるっと大きく身体を震わせた。
「しゅ、しゅわぁ……」
いつもの弾むような音ではない。怯え、すがりつくような小さな鳴き声。
しゅわ丸は黒い人影を見つめたまま、徐々に身体の色を青から灰色へと濁らせていく。体内で浮かんでいた泡も一つ、また一つと弾けて消えていく。
「しゅわ丸?」
ゆうこがそっと抱き上げると、しゅわ丸は小さな前足で胸を押さえながら震える声を漏らした。
「……しゅわ」
その瞳には、涙のような雫が浮かんでいる。ゆうこはすぐに状況を悟った。
「この子……酒に込められた負の感情を、ダイレクトに感じ取ってる」
サクが息を呑む。
「じゃあ、この黒い酒には……」
「とんでもない量の、行き場のない負の感情が溜まってるのよ」
ゆうこの声は沈み込むように低い。
「しゅわ丸ですら、受け止めきれないくらいにね」
その瞬間、人影が低く歪んだ音であざ笑った。
『……くくっ』
黒い酒気が一気に膨れ上がり、防衛線を突破する。
「まずい!」
ゆうこの叫びと同時に、ぼんっ!! という衝撃音と共に酒気の柱が弾き飛ばされた。ソラマルが数歩後ろへ吹き飛ぶ。
「くっ!」
黒い人影は静かに呟き、再び黒いもろみの底へと霧散した。
『まだ……終われない……』
しゅわ丸はその場を凝視したまま、震えが止まらない。あの黒い酒気の奥底で、誰かが泣き叫んでいる声を、自分たちが知らないどこかで聞いてしまったかのような静寂が訪れる。
誰も口を開かない。酒蔵には、ぽたり、ぽたりと、壁を伝うもろみの滴る音だけが虚しく響いていた。
やがて、クルスが自嘲気味に小さく笑った。
「……すごいです」
ソラマルが首を傾げる。
「ん?」
「今の、立ち回り。俺、可能性を感じました。」
「可能性?」
「はい」
クルスは照れ臭そうに、だが真っ直ぐにソラマルを見つめた。
「異世界に来てから俺……ずっと、馬鹿なことばかりしてきました」
一拍置く。
「スキル名がポコちんって言われて、それを光らせたり、人間ヘリコプターになったり、巨大ガラスバスを運んだり……」
ゆうこもサクも、黙ってクルスの吐露に耳を傾けている。
「全部、笑ってもらえることばかりでした。皆さんが笑ってくれるのは嬉しいです。でも、いざ戦いになると……俺、全然役に立ててない」
拳を硬く握りしめる。
「先生は人を救える。サクさんは敵を倒せる。でも俺は……ただ叫んでるだけ」
その言葉には、いつもの道化じみた調子は微塵もなかった。心の奥底に沈めていた本音。
「皆さんが命懸けで戦ってる時、俺は結局、守られる側でした」
その時だった。ぷるんと、足元でしゅわ丸が小さく跳ねた。クルスの足にぴとっと寄り添い、柔らかい身体で何度も励ますように体を擦り寄せる。
「……しゅわ丸」
見上げる瞳は、いつものようにきらきらと光っていた。そこには落胆も、失望もない。ただ純粋な信頼だけがある。
「しゅわっ!」
ぽんっと胸を叩くように身体を弾ませる。それは、誰よりも真っ直ぐな応援の言葉だった。
「ありがとうな。しゅわ丸」
クルスは再びソラマルを見た。
「でも、さっきのスキル。《デカちん》。名前はアレですが……伸ばして、掴んで、迷いなく飛び込んだ姿……下ネタなのに、最高に格好良かったです。」
「……褒めてる?」
「最高に褒めてます」
ソラマルは少し照れくさそうに笑い、頭をかいた。
クルスは深く、静かに頭を下げる。
「お願いします。俺を、弟子にしてください!」




