第89話『濁り酒の呪い』
しゅわ丸の身体の中で楽しげに弾けていた無数の泡が、一斉に小さくしぼむ。
「……しゅわ」
普段ならゆうこの気配を感じて嬉しそうに弾けるその泡が、まるで冷水を浴びせられたかのように、黒い酒気に反応して静かに、重く沈んでいった。
ゆうこはその異変をすぐさま察知し、表情を硬くする。
「しゅわ丸?」
しゅわ丸は酒蔵の方角をじっと見つめたまま、小刻みに震えている。ゆうこは不安げに小さく眉をひそめ、空中に漂う目に見えない気配を嗅ぎ取ろうと目を細めた。
「……酒気?」
医療に長く携わってきた彼女だからこそ分かる。酒気にはそれぞれ独自の「香り」がある。
ビールは陽気で弾けるような高揚感を、ワインは複雑な感情の機微を、そして日本酒は――透き通るような穏やかさと清廉さを宿すものだ。
しかし、今鼻腔をかすめたそれは違った。
重く、どろりとしていて、まるで腐敗した澱のような澱んだ水。
サクも同じ異変を感じ取ったのか、顔を上げて空を見上げた。
「嫌な空気ね。……ねえ、クルスも感じる?」
問いかけに、クルスもいつも浮かべている笑みを消していた。
「……ええ。なんだか胸の奥が、どろりとざわざわするような、そんな嫌な予感がします」
しゅわ丸は震えながら、ゆっくりとゆうこの白衣の裾へ身を寄せて隠れる。
「しゅわ……」
その小さな声には、言葉にできないほどの怯えが滲んでいた。その静寂を切り裂くように、街のどこかで、ガラガラと酒瓶が硬質に割れる音が響いた。
――カランッ。
全員が息を呑んで振り向く。通りの向こう、酒蔵の入り口で、一人の若い蔵人が酒樽を抱えたまま立ち尽くしていた。
「う、嘘だろ……」
震える声だった。彼が抱える酒樽の蓋の隙間から、とろりと黒い液体が這い出るように溢れ出している。その瞬間、ゆうこの肩にいたしゅわ丸が、びくりと大きく跳ねた。
「……しゅわ!」
身体の中で弾けていた愛らしい泡が、音もなく霧散していく。
「まただ……!」
蔵人が悲痛な声を張り上げる。
「また酒が濁ったぞ!!」
その一言で、活気に満ちていた町の空気が氷のように一変した。道行く人々が足を止め、恐怖に満ちた声を上げる。
「またか……」
「これで今月何樽目だ?」
「十樽以上はくだらないぞ。こんなこと、今まで一度も……」
人々の顔からみるみるうちに笑みが消え、代わりに疑心暗鬼と恐怖が塗り潰していく。
やぁ子が居ても立っても居られず、駆け出した。
「そのお酒、見せてください!」
ソラマルもそれに続く。ゆうこたちも屋台を飛び出し、蔵人の元へ向かった。蔵人が震える手でゆっくりと樽の蓋を押し開ける。
中にあるはずの、透き通った黄金色の酒はそこになかった。まるで墨を流し込んだように、ドロドロと黒く濁っていた。
異臭はしない。腐っているわけでもない。それなのに、誰もがその異様な光景を前に、本能的な拒絶と戦慄を覚えた。
しゅわ丸は黒い酒を恐ろしいものを見るように見つめ、小さく身体を丸めて縮こまる。
「……しゅわ」
「こんなの……酒じゃないわ」
やぁ子が唇を噛み締め、震える声で呟く。ゆうこが冷静に問いかけた。
「味は? 確かめたの?」
「飲めません」
やぁ子は力なく首を振った。
「口に入れた瞬間……嫌な思い出ばかりが、脳裏にこびりついて離れなくなるんです」
沈黙が落ちる。クルスのいつも明るい笑顔が、その言葉の重みに耐えかねるように消え去った。
「……嫌な思い出」
「だから今、この国では”濁り酒の呪い”なんて噂されているんです」
やぁ子は切なげに酒蔵を見つめる。
「酒は、人の心を映す鏡のようなものだと言います。それなのに、最近は誰がどれだけ精魂込めて造っても、心の奥底にある苦しみばかりを映してしまう」
ソラマルが拳を白くなるほど強く握りしめた。
「このままじゃ、この酒蔵も長くねぇ。蔵人たちも、一人、また一人と夢を諦めて辞めていく。酒を仕込むこと自体が、自分の心の闇を突きつけられるようで怖いんだよ」
風が吹き抜け、酒蔵の奥から、またあの黒い酒気がわずかに漏れ出した。それは誰の目にも明瞭に見えた。
ゆらりとたなびき、まるで意思を持つ生き物のように、それは一瞬だけ形を変えて――誰かが頭を抱えて苦悶しているような影を作り、霧のように霧散した。
その影を見た途端、しゅわ丸はゆうこの胸元へ勢いよく飛び込み、震える身体を押し付けた。
「しゅわっ!」
やぁ子が息を呑む。
「……まただ」
ソラマルが歯を食いしばる。
「日に日に濃くなってやがる。これじゃあ……」
ゆうこは無言で白衣のポケットへ手を入れた。医者としての鋭い眼差しが、酒蔵を見据える。
「なるほどね。患者は、人だけじゃなさそうね」
その視線の先には、静かなはずの酒蔵から、じわりじわりと滲み続ける黒い酒気。ゆうこはそれを凝視しながら、小さく目を細めた。
「……普通じゃないわね」
医療の勘が告げている。目の前の酒気は、単なる化学反応ではない。それはまるで、誰かが長年抱え続けた深い後悔や悲しみが、実体を持って形になったような、異質な”痛み”だった。
サクもまた、そのただならぬ気配に息を呑んだ。
「嫌な感じ……」
「はい……。なんだか胸が、締め付けられるように苦しいです」
クルスでさえも笑うことができず、顔を強張らせる。しゅわ丸は酒蔵から目を離せないまま、かすかに震える声を漏らした。
「……しゅわ」
いつもなら楽しそうに弾ける泡は一つもない。その異変を悟ったゆうこは、そっとしゅわ丸を抱き寄せ、優しく背中を撫でた。
「あなたも、この痛みを感じているのね」
その時だった。
――ガシャァンッ!!
酒蔵の奥から、何かが激しく砕け散るような大きな音が響いた。
「きゃあっ!」
女性の悲鳴が上がり、続いて男の怒鳴り声が飛ぶ。
「離れろ!! 近づくんじゃない!」
やぁ子とソラマルの顔色が真っ青に変わる。
「蔵だ! また始まったんだわ!」
二人は迷わず駆け出した。ゆうこたちも後を追う。しゅわ丸も慌ててぴょんぴょんと跳ね、ゆうこの肩へ必死に飛び乗った。
「しゅわっ!」
酒蔵の重い扉を蹴破るように開けた瞬間、むわり、と熱気と共にどす黒い気配が押し寄せてきた。
巨大な木桶が整然と並ぶ蔵の中で、蔵人たちがパニックに陥り走り回っている。その誰もが、青ざめた顔で一点を見つめていた。
視線の先にある、巨大な仕込み桶。本来なら、乳白色のもろみが静かに呼吸をするように発酵しているはずの場所だったが――。
ぼこっ。
ぼこぼこぼこっ。
もろみはどす黒く染まり、まるで泥沼のように、嫌な音を立てて泡立っている。桶からは、あの黒い酒気が絶え間なく噴き出していた。
しゅわ丸はそれを見た瞬間、恐怖に身を震わせる。
「……しゅわ」
身体の中の泡が、一つ、また一つと弾け、消えていく。
「また濁っていく……! 昨日の仕込みさえも、もうダメだ!」
蔵人の一人が絶望に満ちた声で呟いた。
「昨日仕込んだばかりなのに……売り物になるわけがない」
蔵の中を覆う、重苦しい絶望。
ゆうこは物怖じせず桶へと近付くと、白衣の袖で黒い霧を払いながら、その中を覗き込んだ。
「……病気じゃない」
ゆうこの冷徹な一言に、やぁ子が振り返る。
「え……?」
「菌でも、自然な腐敗でもないわ。これは誰かが、意図的にこの場所へ黒い感情を流し込んでいる……そんな現象よ」
その瞬間だった。
ぼこり。
黒いもろみの表面が大きく、歪な形に膨れ上がった。




