第88話『結び酒蔵』
ようやく焼き上がったおにぎりを、クルスは熱さに指先を軽く震わせながら、恐る恐る網の上から持ち上げた。
香ばしい醤油の焦げた香りが鼻腔をくすぐり、焼きたて特有の熱気が手のひらに伝わってくる。
「……できた」
達成感に満ちた声で小さく呟くと、ナミキが腕を組み、満足げに頷いてみせた。
「おっ、いい焼き色だ。及第点だな」
ナミキの豪快な声に続いて、テーブルの上では、しゅわ丸がぴょこぴょこと跳ね回っている。
「しゅわ~♪」
期待に満ち溢れた瞳で、焼きたてのおにぎりをじーっと見つめるその健気な姿に、ゆうこが優しく人差し指を立てて制した。
「待ちなさい。あなたは熱いものが苦手でしょう? 火傷しちゃうわよ」
「しゅわぁ……」
ゆうこの言葉に、しゅわ丸はしょんぼりと身体をわずかにしぼませる。そのあまりに素直で愛らしい反応に、サクが思わず噴き出した。
「ふふっ、ちゃんと待てるの、本当に偉いね」
サクの微笑ましい視線を背中に感じながら、クルスは焼きたてのおにぎりに深く息を吹きかけ、一口かじりついた。
――ぱくっ。
瞬時にして、香ばしく焦げた表面のパリッとした食感と、芯まで温まった米のふっくらとした甘みが口いっぱいに広がる。
「……うまい」
思わず頬が緩み、張り詰めていた肩の力が抜けていく。自分で調理する手間と、炭火の魔力が融合して生まれるこの味は、ただ買うだけの食事とは比較にならないほどの感動があった。
「自分で焼くと、こんなにも違うんですね」
「だろぉ!」
ナミキが豪快に笑い声を上げ、それに応じるように、しゅわ丸が待ちきれぬとばかりにぴょこんと飛び跳ねた。
「しゅわ! しゅわ!」
「はいはい、わかったわよ」
ゆうこは焼きたてのおにぎりをふーっと何度も丁寧に冷まし、子供に接するように小さくちぎって差し出す。
「熱いからゆっくりね」
その優しさに応えるように、しゅわ丸は恐る恐る近づくと――。
――ぱくっ。
一瞬で身体の中にキラキラと細かな泡が弾け、幸福感のあまり全身をぷるぷると震わせながら嬉しそうに跳ね回る。
その感情表現の豊かさに、屋台の空気がより一層柔らかいものへと変わっていった。
「喜び方が本当に分かりやすいわね」
「しゅわ丸も、よっぽど気に入ったみたいだね」
サクが微笑みながらナミキを見ると、ナミキは腕を組み、大きく頷いた。
「飯ってのはな、腹を満たすだけじゃねぇんだ。……みんなで食うから、最高にうめぇんだよ」
炭火がぱちりと心地よい音を立て、屋台の周囲を温かな空気が包み込む。しゅわ丸はもう一口欲しそうに、ゆうこの清潔な白衣の裾をちょんちょんとつついた。
「……もう一個だけだからね」
「しゅわっ♪」
嬉しそうに弾むしゅわ丸の姿に、屋台中がまた温かな笑いに包まれた。
その瞬間だった。
どこからともなく、賑やかな笛と太鼓の音が響き渡る。
ぴーひゃらら♪ どんどこどん♪
「……ん? なんだ、この音は」
三人が不思議そうに振り向くと、通りの向こうから、奇妙なほど騒がしい男女が踊りながら近づいてくるのが見えた。二人は満面の笑みで手を叩きながら、リズミカルに歌い始める。
「ポコちん丸出しおにぎりパーティー♪」
「ポコちん丸出しおにぎりパーティー♪」
くるくる、ぴょんぴょん。
二人の軽快なステップに、周囲の人々までもがそのリズムに魅了されたように手拍子を始める。
「「ヘイ!」」
その熱気に引きずられるように、しゅわ丸もぴょこんと飛び跳ねた。
「しゅわ♪ しゅわっ♪」
身体の中の泡がさらに強くキラキラと弾け、太鼓の音色に合わせてぷるぷると心地よさそうに揺れている。
「……ちょっと、何でしゅわ丸までノリノリなのよ」
ゆうこが呆れ半分、笑い半分で吹き出す。クルスは目を丸くして彼らを見つめた。
「……一体、何ですかこの人たちは」
ナミキは当然だと言わんばかりに肩をすくめる。
「ああ、あれは『焼きおにぎり応援隊』だ」
「そんな職業があるんですか!?」
「ああ、ある」
「即答なんですね!?」
男女はクルスの前までやってくると、見事な決めポーズで親指を立てた。
「初めての焼きおにぎり、おめでとう!!」
周囲から盛大な拍手が巻き起こる。
パチパチパチパチ!
しゅわ丸も負けじと、ぷにぷにの身体を一生懸命叩くように跳ねる。
「しゅわっ! しゅわっ!」
「拍手してるつもりなのね。健気だわ。」
サクがくすっと笑うと、ゆうこも呆れながら笑みを浮かべる。
「……この国も、相当に変な国ね」
サクも苦笑しながら答える。
「でも、嫌いじゃないわ」
その言葉を聞いた瞬間、二人はぴたりと踊るのを止めた。
女性が一歩前へ出る。年は二十代半ばほど、背中には巨大な木製の柄杓を背負い、腰には小さな酒樽を携えている。
笑うとえくぼができる、太陽のように明るい女性だった。
彼女はぺこりと深く頭を下げる。
「初めまして! 私、やぁ子って言います!」
元気いっぱいの声が響く。
続いて、背が高く日に焼けた肌の青年が一歩前に出る。白い鉢巻きを締め、羽織を肩に掛けた彼は、豪快な笑顔と鍛え抜かれた肉体が目を引く。酒をこよなく愛する陽気で頼もしい豪傑漢。
「俺は、やぁ子の兄のソラマルだ」
短く名乗ると、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「この町で米問屋をやってる」
クルスは彼らに向かって丁寧に頭を下げる。
「俺はクルスです」
「ゆうこよ」
「サクです」
「しゅわっ♪」
しゅわ丸も自己紹介するように身体を跳ねさせる。やぁ子は目を輝かせた。
「きゃーっ! スライムちゃんだ!」
彼女はしゃがみ込むと、そっと手を差し出す。しゅわ丸は恐る恐る近づき――ぷにっ、と嬉しそうに頬をすり寄せた。
「かわいい~!」
やぁ子の顔が綻ぶ。ソラマルもその様子を優しく見守る。
「人懐っこい子なんだな」
やぁ子は三人の手に持つ焼きおにぎりに気づき、目を輝かせる。
「初めて焼いたんですか!?」
「ええ」
ゆうこが頷く。
「ナミキさんに半ば強制的に」
「強制じゃねぇ。これは食育だ」
「言い方を変えただけじゃない」
やぁ子はくすっと笑い、少しだけ真剣な眼差しで彼らを見た。
「でも、この町ではそれが当たり前なんですよ」
「当たり前、ですか?」
サクが首を傾げる。ソラマルが炭火で焼かれているおにぎりを見つめながら、静かに語り始めた。
「日本酒の国じゃ、米は特別なんだ。一粒を育てるのに、どれだけの月日と手間が掛かるか。 だからこそ、最後まで自分の手で焼き、自分の手で食べる。それが、この国の礼儀なんだよ」
クルスは自分の手の中にある焼きおにぎりをじっと見つめた。
「だから、セルフサービスなんですね」
「そういうことだ」
ナミキが満足そうに頷く。しゅわ丸は、まだ小さく残っていた焼きおにぎりを、まるで宝物のように抱きしめている。
ソラマルは、その姿を見て思わず笑った。
「その子も、米が気に入ったみたいだな」
やぁ子が楽しげに言葉を続ける。
「家によって焼き方も全然違うんですよ! 味噌派に醤油派、炭火派に囲炉裏派……海苔を巻く人もいれば、巻かない人もいる。正解は一つじゃないんです。」
ゆうこは驚いた表情で瞬きをする。
「面白い文化ね」
ソラマルは頷く。
「酒造りも、おにぎりと同じなんだ」
「……同じ?」
「そう。手を掛ける人によって、味が変わる。だからこそ面白いんだ」
ナミキが腕を組み、豪快に笑う。
「そういうこった!」
クルスは焼きおにぎりをもう一口頬張る。香ばしさが喉を通り、胃の中まで熱くなるような感覚がある。
「……うまい。最初は面倒だと思いましたが、自分で焼いたからこそ、余計においしく感じます」
幸せそうに頬張るしゅわ丸の姿に、やぁ子が目を細める。
「ふふっ、本当に気に入ってくれたみたいですね」
「食べることだけは一人前なのよ」
ゆうこが肩をすくめると、やぁ子は拍手した。
「それです!」
ソラマルも深く頷く。
「日本酒の国へようこそ! この国は、お米を何よりも大事にする国です。だから、お酒もただ飲むためのものじゃありません。人と人を結び、誰かを想うためのものなんです」
しゅわ丸はその言葉を聞くように、じっとやぁ子を見つめる。身体の中の泡が、ふわりと優しく揺れた。
「しゅわ……」
ソラマルが続ける。
「だから俺たちも酒蔵を始めたんだ! 名前は――『結び酒蔵』! 人と人を結ぶ酒を造りたくてな!」
サクが感心したように微笑む。
「素敵な名前ね」
「ありがとうございます!」
やぁ子は嬉しそうに礼を言う。クルスが焼きおにぎりを頬張りながら尋ねる。
「酒蔵って、やっぱり大変なんですか?」
「大変なんてもんじゃねぇ!」
ソラマルが大げさに両手を広げた。
「米を洗って、蒸して、麹を育てて、温度を見張って……夜中も何度も様子を見に行く。寝る暇なんかほとんどねぇ!」
「へぇ……それだけ手間をかけるんですね。」
クルスは感心して頷く。ソラマルは真剣な表情になった。
「焦ったら全部台無しになる。急いで造った酒は、決して応えてくれねぇ」
やぁ子も静かに言葉を添える。
「杜氏さんがいつも言っているんです。『良い酒は、急いで造れない』って」
その言葉は、不思議と屋台の喧騒の中でも静かに響いた。しゅわ丸も、空気が変わったことを感じ取ったのか、ぴたりと動きを止める。
「……しゅわ?」
やぁ子は明るい笑顔に戻り、皆を誘った。
「よかったら、酒蔵へ遊びに来ませんか? 自慢のお酒を飲んでいただきたいんです。実は……少し困ったことも起きてて」
「困ったこと?」
ゆうこが首を傾げる。二人の表情から笑みが消え、影が差す。
「最近、お酒が完成する直前になると……なぜか黒く濁ってしまうんです。どんなに丁寧に仕込んでも、杜氏さんが誰であっても」
屋台に一瞬の静寂が落ちる。ナミキが炭火を見つめたまま呟いた。
「……あれは、ただの仕込み失敗じゃねぇな」
風が吹き抜ける。酒蔵の方角から漂う米と木の香り。その奥には、かすかに黒く重たい、得体の知れない酒気が混じっていた。
その瞬間、彼らは運命の歯車が回る音を聞いた気がした。




