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第87話『焼きおにぎり屋ナミキ』

 そして、新しい旅が始まる。


 ゆうこは静かに、日本酒の国の巨大な門を見上げた。これから始まる未知の診察に思いを馳せ、小さく息を吐く。


 「さて……」

 「次は、この国の患者を診に行きましょうか」


 ゆうこが新たな一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。


 ぐぅぅぅぅぅ……。


 静かな門前に、まるで雷鳴のような盛大な腹の虫の音が鳴り響いた。あまりの空腹感に、三人はぴたりと足を止める。


 ゆうこはバツが悪そうに、隣で直立不動になっているクルスを見つめた。


 「……今のクルス?」

 「違います。……違いますけど、俺も限界です」


 クルスが力なく肩を落とすと、今度はサクが不思議そうに首を傾げた。


 「じゃあ、ゆうこ?」

 「違うわ。私じゃない」


 そう否定した途端、今度は二つの音が重なって響いた。


 ぐぅぅぅぅぅ……。ぐぅぅぅ……。


 さらに一つ、小さな音が重なる。沈黙が流れ、三人は互いの顔を見合わせた。


 「……全員ね」

 「全員ですね。否定の余地がありません」

 「全員だったわね……」


 三人が揃って苦笑した、ちょうどその時だった。


 ふわり。


 風に乗って、食欲をダイレクトに刺激する香ばしい匂いが漂ってくる。


 炊きたての米の甘い香り。海苔の磯の香。そして、焼かれた味噌がパチパチと弾ける芳醇な香り。


 その瞬間。ゆうこの肩で大人しくしていたしゅわ丸が、ぷるんっと大きく震えた。


 「しゅわぁぁぁっ♪」

 獲物を見つけた猛獣のように、しゅわ丸が勢いよく宙へと飛び上がる。


 ぴょん。ぴょん。ぴょーん!


 その姿は、まるで匂いに導かれるように屋台へと一直線に跳ねていく。


 「あっ!」

 「しゅわ丸!」

 クルスが慌てて追い掛ける。


 「食べ物の時だけ、どうしてこんなに行動が早いんですか!?」


 しゅわ丸は屋台の前までたどり着くと、ぷるぷる震えながら、こんがりと焼かれた焼きおにぎりをじっと見つめた。


 「しゅわ……」

 きらきらと瞳を輝かせ、よだれ代わりの小さな泡をぷくぷく浮かべている。その愛らしい姿に、サクが思わずふふっと笑みをこぼした。


 「ふふっ。しゅわ丸もお腹が空いてたのね」


 「……っ!」

 サクの言葉に、三人の首が同時に回転する。視線の先、石畳の通りには、湯気を立てた小さな屋台が軒を連ねていた。


 店先では、梅、鮭、昆布、おかかといった定番のおにぎりがずらりと並び、その横で焼きおにぎりが黄金色に色づいている。


 じゅうぅぅ……。


 醤油が炭火に滴り、焦げる芳しい音が響く。クルスの喉が、ごくりと大きな音を立てて鳴った。


 その隣で、しゅわ丸までが「ごくんっ」と喉を鳴らすように身体をぷるりと揺らした。


 「今、しゅわ丸も飲み込んだ!?」

 ゆうこは呆れたように苦笑し、しゅわ丸を回収しにかかる。


 「完全に食べる気ね」

 「しゅわっ♪」

 しゅわ丸は開き直ったように、元気よく返事をした。


 「……先生」

 「分かってる」


 「患者より先に、食事を摂るということですね」

 「分かってるわ」


 サクが真顔で頷く。

 「診察には体力が必要だもの。医者の不養生は厳禁よ」

 「それ、ただの空腹を都合よく理由付けしてませんか?」


 「してるわよ」

 サクは迷いなく歩き出す。その横を、しゅわ丸が「しゅわ! しゅわ!」と弾みながら追い抜いていく。クルスが深い溜め息と共に肩を落とした。


 「しゅわ丸まで催促してますよ……もう止められませんね」

 三人は顔を見合わせ、最後は全員同時に屋台へ駆け出した。


 「いらっしゃい!」

 店主が朗らかな笑顔で迎える。


 「うちの自慢は、この焼きおにぎりだよ!」


 屋台の主人は胸を張った。赤ら顔にねじり鉢巻き、丸太のように太い腕。その顔を見た瞬間、ゆうこが目を丸くした。


 「……あれ?」

 店主も固まる。


 「……ん?」

 二人はしばらくの間、互いを凝視し合った。  


 そして――。


 「「あーーーーーーっ!!」」

 驚愕の声が重なった。親父は豪快に笑い声を上げる。


 「がっはっはっ!! ビールの国以来じゃねぇか!」


 「ナミキ!」

 ゆうこが驚きを隠さず叫ぶ。


 「なんで日本酒の国にいるのよ!?」


 ナミキは親指で自身の胸をトンと指した。

 「転職だ!」


 「軽っ!!」

 クルスが思わずツッコミを入れる。ナミキは気にせず、笑いながら炭火をあおぐ。


 「酒うなぎ一本じゃ飽き足らなくてな!」

 「飽き足らなくて?」


 「今度は米の可能性を極めたくなったんだ!」

 「そんな理由で国またぐの!?」


 「料理人はな!」

 ナミキはどんっ、と力強く胸を叩いた。


 「うまいもんがある場所なら、どこへでも行く!」

 「妙に格好いいこと言うじゃない」

 サクが面白そうに笑うと、ナミキは照れ隠しのように鼻を鳴らした。


 「だから今は、この焼きおにぎり屋だ!」


 じゅううううっ。


 炭火の上で味噌が香ばしく焼ける音が、またしてもゆうこの腹を刺激する。ぐぅぅぅぅ、と遠慮なく腹が鳴った。ナミキはニヤリと笑う。


 「腹ァ減ってんだろ?」

 「ええ。限界よ」

 「三つください」


 ナミキは悠然と腕を組んだ。

 「いいぞ」


 沈黙。店主はニヤついたまま動かない。

 「……」

 「……」


 「……焼け」

 「……は?」

 ゆうこの思考が一時停止する。


 「焼け。セルフだ」


 「また?」

 「まただ」


 クルスが頭を抱え、絶望的な表情を浮かべた。


 「またセルフなんですかぁぁぁぁぁ!?」


 ナミキは当然のように頷く。

 「焼きおにぎりはな、自分で焼くからこそ魂がこもるんだよ。」


 「その理論、ビールの国でも聞きました!」

 ナミキはふと、ゆうこの肩のしゅわ丸へ目を向けた。


 「おっ、しゅわ丸じゃねえか」

 「しゅわっ♪」


 しゅわ丸は嬉しそうに跳ねる。ナミキは豪快に笑い、小さく握ったおにぎりを差し出した。


 「ほれ、お前さんの分だ」

 しゅわ丸はぱくりと一口で平らげ、満足げに身体をぷるぷる震わせる。


 「しゅわぁぁぁ~♪」

 「気に入ったみたいね」

 ゆうこが笑うと、ナミキは得意げに頷いた。


 「よし。……お前さんも、自分で焼け!」

 「しゅわ?」


 クルスが絶叫する。

 「しゅわ丸までセルフなんですかぁぁぁぁぁ!?」


 「見本を見せてやる」

 ナミキは炭火の前に立つと、おにぎりを焼き始め、急に声のトーンを変えた。


 「てめえの、おにぎりは、てめぇで管理運営な!人のおにぎりに茶々入れない。

まずは味噌だ!薄く塗れ!厚すぎると米が泣く!塗ったら網へ置け!まず30秒!

30秒やったら裏返して30秒。30秒。

30秒焼いた状態が片面焼きって状態だ。それでもう一回裏返して30秒。で、一回味噌をたっぷり付けてから焼いて30秒、30秒。

焼き色が薄いと思ったら味噌を足せ!濃いと思ったらそのまま食え!焼きすぎたと思ったら!それもまた人生だ!

あと海苔!巻いてもいいし、巻かなくてもいい!お前の好きなように焼いて好きなように食え!」


 沈黙。


 ゆうこは呆然と炭火を見つめた。

 じゅううううっ。ぱちぱちっ。


 「……ねぇ」

 「おう?」


 「今ので何秒?」

 「三十秒だ」


 即答だった。ゆうこは炭火を指差す。

 「どう見ても一分は経ってるわよね?」


 「細けぇことは気にするな。職人の三十秒だ」

 「また時間が概念になってるじゃない……」


 サクが思わず吹き出す。

 「ふふっ!」


 クルスは青ざめた表情だ。

 「俺、この人の時間感覚を信用していいのか分かりません……」


 ナミキは気にも留めず、味噌を塗った見本のおにぎりを三人へ渡した。

 「ほら。まずは食ってみろ」


 三人は恐る恐る口へ運ぶ。ぱくっ。


 その瞬間、沈黙が訪れた。表面は香ばしく、中はふっくら。炊きたての米の甘みと、焼けた味噌の芳醇な香りが口いっぱいに広がる。


 「……おいしい」

 「だろ?」


 「悔しいけど、めちゃくちゃおいしいわ」

 サクも目を丸くした。


 「味噌だけなのに、このコク……」

 クルスはもう二口目にかかっていた。

 「うまっ!!」


 「早いわね!」

 「だってうまいですもん!!」


 ナミキは満足そうに頷き、今度は白いおにぎりを三つ並べた。


 「じゃあ次は、自分でやれ」

 「急に放り投げたわね」


 「習うより焼けだ」


 サクはすでに炭火の前へ座り込んでいた。

 「よし」


 「待ちなさいってば」

 「よし」


 「返事をするな」

 しかしサクは聞いていない。真剣な表情で味噌を塗り始める。


 ぺたっ。ぺたぺたぺたぺた。

 「……サク?」


 「いっぱい塗った方が、濃くておいしいでしょう?」

 「違う違う違う!!」

 ナミキが飛び出した。


 「味噌は化粧だ!! 厚化粧は米が泣くと言っただろうが!!」

 「また米が泣くのね……」


 ゆうこが呆れる横で、クルスはおにぎりを両手で持ち、固まっていた。


 「どうしたの?」

 「責任が重いです。米農家さんの努力を背負っていると思うと……」


 「おにぎり一個に何を背負ってるのよ」


 ナミキはニヤリと笑い、網へ置くよう促す。クルスは意を決して網へ置いた。


 じゅっ。

 「よし!」


 クルスが嬉しそうに頷いたその瞬間、くるっ、と勢いよく裏返した。


 「早ぇぇぇぇぇ!! まだ三秒だ!!」

 「えぇぇぇ!? 三十秒じゃないんですか!?」


 「職人の三十秒だ!!」

 「だから分からないんですよぉぉぉ!!」


 屋台中に、三人の笑い声がいつまでも響き渡った。



挿絵(By みてみん)

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