第86話『日本酒の国』
クルス号特急便は、一切の減速を拒絶するように突き進む。
どどどどどどどどどどどどどっ!!
地響きのような轟音を立てて山を越え、轟々と唸る川を飛び越え、鬱蒼とした森を矢のように突っ切る。
途中で何羽もの鳥が追い抜かれ、驚きのあまり羽をバタつかせながら、「ピィッ!?」と甲高い声を上げて逃げ惑った。
嵐のような移動の中、バスの中は、もはや観光地気分の和やかな空気が流れている。
「次はどんな国かしら」
ゆうこは窓の外に広がる景色を眺めながら、期待に瞳を輝かせた。
「日本酒ですから、和風の情景でしょうね」
サクは平然とした顔で、湯飲みから立ち上る湯気を眺めながらお茶を啜り始めた。
その時、車内の空気が一変した。
ふわり。
鼻孔をくすぐる風の匂いが、劇的に変わる。ゆうこは期待に鼻をひくつかせた。
「……この匂い」
それは、尖った甘さを持つ葡萄酒とは全く違う。
麦酒の芳ばしさとも一線を画す。炊きたての米のような、どこか懐かしく、包み込むように優しい香り。その奥には、長い年月をかけて仕込まれた木桶の芳醇な香りが混ざり合っている。
「酒蔵の匂い……?」
ゆうこの呟きと共に、視界が一気に開けた。
眼下には、陽光を浴びて黄金色に輝く広大な棚田が広がっている。
山肌を縫うように流れる清流はクリスタルのように透明で、白壁の酒蔵からは、今まさに仕込みの最中であることを告げる白い蒸気が立ち上っていた。
山道に並ぶ朱色の鳥居が目を引き、石畳の町並みでは、和装の人々が雅やかに行き交っている。
風に舞う桜の花びら、竹林を揺らす涼やかな音色。遠くには、空を突くような巨大な五重塔がそびえ立っていた。
「……綺麗」
思わず、ゆうこが感嘆の声を漏らす。ワインの国とは正反対の世界だった。
派手さはなく、静かで、澄んでいて、心まで洗われるような景色。サクも目を細め、静かに頷く。
「ここが……日本酒の国」
ちくわは窓から身を乗り出し、興奮を隠せない様子で叫んだ。
「おぉーーー!! お城があります!!」
クルスも釣られて視線を上げ、息を呑んだ。
「やっと着き――」
その瞬間。ごうっ!! と背中の酒気が突然、さらに凄まじい勢いで噴き上がった。
日本酒の国へ足を踏み入れた途端、何かに共鳴したかのように、酒気が異常な活性を見せたのだ。黄金色だった炎は、淡い琥珀色へと変質していく。
「な、なんですかこれぇぇぇぇ!?」
速度が一段と跳ね上がる。
どごぉぉぉぉん!! と地面を蹴る音が響き、景色が完全に流線型へと姿を変えた。
門番たちが、信じられないものを見る目で目を丸くする。
「止まれぇぇぇぇぇ!!」
「止まりませぇぇぇぇぇん!!」
日本酒の国の巨大な門へ、まっすぐ一直線に突っ込んでいく。
「ぶつかるぅぅぅぅぅ!!」
死を覚悟したその瞬間――。
国境に設置されていた巨大な結界が、淡く神秘的な光を放った。
ボォンッ!! という重低音と共に、クルス号は結界に包まれ、その勢いを吸い取られるように減速していく。
ゴゴゴゴゴ……!
長い土煙を上げながら、車体は大きく滑り、ついに停止した。衝撃で、しゅわ丸だけが弾き出される。
「しゅわぁぁぁぁ!!」
ぽよん。ぽよん。ぽよん。
門柱にぶつかっては跳ね返り、最後はゆうこの頭へ着地する。
ぽすっ。
「しゅわ♪」
「無事だったのね」
ゆうこは何事もなかったかのように微笑み、頭に乗ったしゅわ丸を愛おしそうに撫でた。
クルスだけ突っ伏したまま、悶えるように呟く。
「……なんでしゅわ丸だけノーダメなんですか……」
日本酒の国の門前で、奇跡的に停止した一行。周囲には静寂が漂う。門番がぽかんと口を開けて呆然としている。
「……今の、入国方法か?」
もう一人の門番が呆れたように首を横に振った。
「いや……事故だ」
クルスはその場に力なく崩れ落ちる。
「もう……一歩も動けません……」
ゆうこは何事もなかったかのようにバスから降りると、空に向かって大きく伸びをした。
「着いたわね。」
サクも笑顔で続き、清々しい空気を肺いっぱいに吸い込む。
「長旅だったわ」
ちくわは元気よく両手を上げた。
「日本酒の国、到着です!!」
クルスだけが地面に突っ伏したまま、小さく呟く。
「……次の移動は、絶対に歩きましょう……」
それを聞いていたゆうこは、即答で返す。
「却下」
「なんでですかぁぁぁ!?」
クルスの絶叫を背に、ちくわがぽんっと手を叩く。
「あっ!」
「どうしたの?」
「そうでした! おつかいを頼まれてたんでした!」
ちくわは荷物の中から一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、びっしりと買い物リストが記されている。
『日本酒 二十樽』
『酒麹』
『杉樽』
『米』
『漬物』
『温泉まんじゅう』
ゆうこは思わず二度見した。
「最後だけ旅行のお土産じゃない」
「女王様が『温泉まんじゅうも忘れずに』って!」
「完全に私欲ね」
サクがくすっと笑い、楽しげな雰囲気に和む。
「じゃあ、ここでお別れね」
ちくわは寂しさを堪えるように、大きく頷いた。
「はい! 買い物が終わったら、馬車でワインの国へ帰ります!」
「馬車?」
クルスがゆっくり顔を上げ、魂が抜けたような声で訊く。
「……馬車、あるんですか?」
「ありますよ?」
「最初からそれで来れば良かったじゃないですかぁぁぁぁぁ!!」
門前にクルスの悲痛な叫びがこだました。ちくわは首を傾げた。
「でも、クルス号の方が速かったですよ?」
「速さの問題じゃないです!!」
その掛け合いに、全員が声を上げて笑った。ちくわはぺこりと丁寧に頭を下げる。
「ゆうこさん、サクさん、クルスさん」
一人ずつ顔を見回し、感謝を告げる。
「短い間でしたけど、とっても楽しかったです!」
しゅわ丸も「しゅわっ♪」と鳴いて、ちくわに飛びつく。彼女は優しくそれを抱きしめた。
「また会いましょうね」
「ええ」
ゆうこは微笑み、旅の成功を祈る。
「買い物、気を付けて」
「はい!」
サクも手を振る。
「女王様によろしく伝えて」
「任せてください!」
最後にクルスの前へ来る。
「クルスさん」
「……はい」
「運んでくれて、ありがとうございました!」
彼女は満面の笑みだった。クルスは少し照れくさそうに笑い、努めて冷めた口調で返す。
「……もう二度と運びませんけどね」
「えへへ!」
ちくわは元気よく手を振ると、門の向こうへ駆けていった。ほどなくして、街道には荷馬車の車輪の音が響き出す。
荷台には空になった買い物袋。これからこの国で品物を積み込み、ワインの国へ戻るのだろう。ちくわは荷台の上から、いつまでも大きく手を振っていた。
「みなさーん! また会いましょうーー!!」
「またねー!」
ゆうこたちも精一杯手を振り返す。やがて馬車は小さくなり、山道の向こうへその影を消していった。




