第84話『未来に咲く恋』
数時間後。
街は相変わらず祭りの喧騒に包まれている。
だが、城の広場から少し離れた王城のバルコニーだけは、喧騒を置き去りにしたような静寂に満ちていた。
冷ややかな夜風が石造りの手すりを通り抜け、ヴィオレッタの髪を優しく揺らす。彼女は一人、手すりに寄りかかりながら、未来ワイン祭で振る舞われたばかりの若いワインを飲んでいた。
「お一人ですか?」
背後から、聞き慣れた温かみのある声が届く。振り返らなくても分かっていた。それがキムであることに。
「皆さんは?」
ヴィオレッタが問いかけると、キムは少しだけ困ったように眉を下げ、いつもの柔らかな表情で近づいてきた。
「ええ、まだ祭りを楽しんでいます。私は少し、静かな場所を求めて迷い込んでしまいました」
「そうですか」
短いやり取りのあと、二人の間に心地よい沈黙が流れる。それは決して気まずいものではなく、長い時間を共に戦い、悩み、支え合ってきた者だけが分かち合える深い静寂だった。
キムはヴィオレッタの手にあるグラスを覗き込み、ふと、零すように呟いた。
「安心しました」
その唐突な言葉に、ヴィオレッタは怪訝そうに首を傾げる。
「何がですか?」
「陛下が、心から笑っておられるので」
その言葉は、ヴィオレッタの胸を鋭く突いた。彼女の瞳がわずかに揺らぐ。キムは視線を夜空に泳がせながら、さらに言葉を重ねた。
「ここ最近、陛下はずっと苦しそうでした。国の未来を背負い、過去の影に怯え、その表情からは光が消えていた。私には、何もして差し上げられなかった。ただ傍で見ていることしかできなかったのが、ずっと心残りだったんです」
夜風が強まり、祭りの余韻を運んでくる。どこか遠くで、葡萄の甘い香りが漂った。
ヴィオレッタは静かに首を振り、キムとまっすぐに向き合う。逃げず、隠さず、その瞳に彼を映す。
「そんなことはありません」
「ですが……」
「あなたは、ずっと傍にいてくれました」
ヴィオレッタの力強い言葉に、キムは息を呑んだ。
「私は過去ばかり見ていました。失ってしまった輝かしい日々、二度と戻らない亡霊たち。グラスの中の赤い液面を眺めては、そこに映るはずのない誰かの影を追い続けていたのです。だから気付けなかった。今、私の目の前で、共に歩んでくれている本当に大切なものに」
胸の奥で渦巻いていた澱のような感情が、言葉となって霧散していく。ヴィオレッタは泣きそうな笑顔で、自分を支え続けてくれたこの男を見た。
「私は、本当に愚かですね」
「いいえ、そんなことはありません」
即座に返ってきた言葉。その誠実さは、出会った日から一度も変わっていない。ヴィオレッタは込み上げてくる笑みをこらえきれず、静かに彼の名を呼んだ。
「キム」
女王としてではなく、ただ一人の女性として。その呼びかけに、キムの肩がわずかに震える。
「はい」
「私は、あなたを愛しています」
夜風が止まった。祭りの歓声さえもが遠のき、世界にはこのバルコニーと、二人の鼓動だけが存在しているかのように感じられた。
キムはゆっくりと目を閉じる。長い間、心の奥底に封印し、決して届くことのない願いだと諦めていた想い。それが今、現実という形をとって目の前にあった。
「……私もです」
かすれた声で、キムは絞り出すように答えた。
「ずっと、ずっとお慕いしていました」
ヴィオレッタの目から、一筋の涙が零れ落ちる。
それは失ったものを嘆く涙ではなく、凍てついていた心から零れ落ちる、春の雪解け水のようなものだった。二人は、自然に惹かれ合うようにして距離を縮める。
その瞬間だった。
「……がさっ」
物陰から、わざとらしい音がした。二人同時に振り返ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ちくわ、クルス、サク、ゆうこ。四人が横一列に、まるで観劇でもしているかのような行儀の良さで並んでいるではないか。
「……」
「……」
ヴィオレッタとキムが絶句する中、ちくわが先陣を切って号泣し始めた。
「よかったですぅぅぅ!! もう、本当に感動しました!!」
クルスも袖で目を拭いながら、鼻を鳴らす。
「いやあ、俺、途中から泣いてましたよ。見ていられなかったもん」
サクは珍しく口元を緩め、呆れを含んだ笑みを浮かべる。
「まったく、長かったわね」
ゆうこがトドメの一言を放つ。
「ようやく完治、ね」
真っ赤になったヴィオレッタは、女王の威厳も忘れ、叫んだ。
「いつからいたんですか!?」
「最初からよ」
ゆうこが涼しい顔で即答する。
「最悪です……!」
キムが両手で顔を覆う。
バルコニーに笑い声が響き渡る。その笑い声にはもう、過去に囚われた陰鬱な響きはない。新しい未来へ向かう者たちだけが持つ、晴れやかな音色だった。
祭りは夜遅くまで続いた。歌声と乾杯の音は、まるで長い冬から目覚めたヴィノリアの街を祝福するかのように、夜空に吸い込まれていった。
◇
翌朝。
朝霧の残る王都の門前に、ゆうこ達の姿があった。旅支度は万全だ。重たかった過去を置いてきた彼らの背中は、どこか軽やかにも見える。
「本当に行ってしまうのですね」
ヴィオレッタが寂しげに微笑む。その隣に立つキムの顔からは、かつての影が消え去り、穏やかな日常の光が宿っていた。
「患者がいるなら、行かないとね」
ゆうこが肩をすくめると、ヴィオレッタは苦笑した。
「患者扱いはやめてくださいよ」
「完治したんだから、なおさらね」
ゆうこの言葉に、女王は空を見上げ、深く納得したように頷く。
「そうですね。おかげさまで」
その時だった。
「どたどたどたどたっ!!」
聞き慣れた足音が響き、全員が振り返る。案の定、ちくわが朝から全力疾走でこちらへ向かってきている。
「まっ……待ってくださぁぁぁい!!」
勢い余って派手に転ぶちくわ。
ずべしゃっ!
「痛ぁぁぁい!!」
「まず立ちなさい。見苦しいわよ」
サクの冷静な指摘を受け、ちくわは涙目になりながらも起き上がる。
そして、大事そうに一本のワインボトルを差し出した。
「これ……私が初めて作ったワインです!!
ぽよ〜ん1号です!」
ボトルのラベルは曲がっていて、見るからに素人の手仕事だ。しかし、ボトル越しに見える琥珀色の液体には、彼女の温かい想いが凝縮されていた。
「いつか、皆さんが帰ってきた時に開けてください。今よりもっと、美味しくなってますから!」
サクが静かにボトルを受け取る。彼女の硬い表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「楽しみにしてるわ」
その言葉だけで、ちくわの目には再び涙が溜まる。
「うわぁぁぁぁぁぁん!!」
「早いわよ」
「感動したんですぅぅぅ!!」
クルスが苦笑しながら肩を叩く。
「相変わらずですね」
「ええ、相変わらずですよ」
賑やかな朝の風景を眺めながら、ゆうこは青く澄み渡った空を見上げた。雲一つない、完璧な旅立ちの日だ。
ふと、耳元で古い声が響く。
――『ほっほっほ、楽しめたようじゃな』
「アルケラ……いたの?」
――『最初からおったぞ。おぬしらの青春を特等席で見せてもらった』
「絶対嘘ね。今来たんでしょう?」
アルケラは気にした様子もなく笑い、ふと遠くを見据えるような目をした。
――『さて、次の国じゃが……』
「もう決まってるの?」
――『もちろんじゃ。次は酒神教の聖地、日本酒の国じゃ』
「日本酒……」
クルスの眉がぴくりと動く。サクの顔も真剣なものに変わる。
「どんな国なの?」
アルケラは含みを持たせた笑みを浮かべる。
――『面白い国じゃよ。磨くことに人生を捧げる者達の国。そして……おぬしらの仲間が、一番試される場所でもある』
クルスが息を呑む。
「……嫌な予感しかしないんですが」
――『気のせいじゃ。ほっほっほ』
答えになっていない答えに、ゆうこ達は顔を見合わせる。そして、誰からともなく、肩を揺らして笑い出した。
次の旅も、きっと騒がしい。きっと面倒なことに巻き込まれるだろう。けれど、その分だけ、きっと面白い。
「行くわよ」
ゆうこの一言に、全員が背を向けた。
新しい大陸へ、まだ見ぬ患者たちの場所へ。三人の歩調が重なり、しゅわ丸がぷるんと楽しげに跳ねる。
彼らの背中を、爽やかな風が追い越していった。




