第83話『いいから飲め』
地下五階を満たしていた重苦しい紫色の霧は、霧散するように消え去っていた。
患者達も、長い悪夢から覚めるかのように、ひとり、またひとりとまどろみから目を覚まし始めている。
冷え切っていた空間に、ふたたび人の気配という温もりが戻ってきた。長い事件が終わったのだ。
そして。サクは静かに空を見上げるようにして天井を仰いだ。誰の耳にも届かないほど、小さく震える声で呟く。
「姉さん」
ふっと、口角を少しだけ上げて笑った。頬を伝う名残の涙を指先で丁寧に拭う。その動作には、どこか吹っ切れたような潔さがあった。
「もう少し、旅してくるわ」
その表情は、このワインの国へ足を踏み入れる前よりも、ずっと晴れやかで軽やかだった。
彼女は確かに、過去という重い荷物を抱えたままではあったが、それでも確かな足取りで、未来へと踏み出し始めていた。
◇
それから三日後。ヴィノリアの街は、久しぶりにあふれんばかりの活気を取り戻していた。
眠り葡萄病の患者達も順調に回復し、街を覆っていた停滞した空気が、嘘のように晴れ渡っている。事件の舞台となった追憶酒蔵は一時閉鎖となり、王城主導のもとで再整備が進められていた。
何よりも、街の人々の雰囲気が目に見えて変わった。酒場で交わされる話題は、もう過ぎ去った過去の栄光や嘆きだけではない。
「来年の収穫祭はどうする? 新しい挑戦をしてみないか」
「ああ、新しい品種を試そうと思ってな。土壌改良から見直すんだ」
「孫が生まれるんだよ。彼に飲ませるための、特別な一本を仕込もうと思ってね」
「私は……結婚するんです。未来の家族と一緒に楽しみたいから」
希望に満ちた未来の話。それが、街のあちこちで花開くように増えていた。
ゆうこはテラス席に腰を下ろし、その微笑ましい光景を眺める。
琥珀色のワインを一口含み、喉を通す。熟成された重厚な味わい。それは美味しい。けれど、彼女にとっては少しだけ、胸に刺さる苦味も感じさせた。
「良かったわね」
風に溶けそうなほど、ぽつりと呟く。
その時だった。
どたどたどたどたっ!! という、騒々しい聞き慣れた足音が響いた。嫌な予感しかしない。
「先生ぇぇぇぇぇぇぇ!!」
駆け込んできたのはちくわだった。全力疾走のせいで息を弾ませ、顔面は蒼白。その表情には「何か取り返しのつかないことをやらかした」という絶望的な色が浮かんでいる。
「……どうしたの?」
「先生、大変なんです!!」
「何が、何に対して大変なの?」
「とにかく大変なんです!!」
要領を得ないちくわに、サクが呆れたように割って入る。
「いいから、内容を具体的に言いなさい」
ちくわは激しく肩を揺らしながら息を整え、震える指で広場の方角を指差した。
「見てください!! 広場がとんでもないことになってます!!」
全員が振り返る。広場にはいつの間にか人だかりができ、歓声と拍手が渦巻いていた。その中心には、巨大な看板が掲げられている。
そこには力強い筆致で、
『第一回 ヴィノリア未来ワイン祭』と書かれていた。
一瞬、全員が言葉を失い固まる。クルスが驚愕の面持ちで呟いた。
「未来ワイン祭……だと?」
「そうなんです、未来ワイン祭です!!」
ちくわが興奮で顔を紅潮させて叫ぶ。
「誰がやるのよ?」
「女王陛下のご命令です!!」
「……許可したの?」
「しました!!」
ヴィオレッタが隣で、少し微妙な顔をしながらも小さく頷いた。どうやら夢物語ではないらしい。広場では既に準備が急ピッチで進められていた。
新酒、試作品、若い醸造家達の挑戦的なワイン。まだ名前もラベルすら付いていないワインがずらりと並んでいる。
百年熟成、二百年熟成――そんな重厚な価値観が全てを支配していたこの国では、考えられない光景だった。だが、今の空気は違う。
「来年はもっと美味しくしたいな」
「十年後、この若木が育ったらどんな味がするだろう」
「新しい葡萄も、試験的に植えてみるか」
そんな前向きな声が、風に乗って聞こえてくる。ゆうこは、その輝かしい光景に自然と笑みをこぼした。
その時、人混みの奥から鋭い怒鳴り声が響き、空気が凍りついた。
「ふざけるな!! 何が未来だ!!」
広場が静まり返る。一人の老人が、杖を突きながら歩み出た。白髪に立派な髭、高級ワインを抱えている。
彼は怒りに震えながら叫んだ。
「若造のワインだと? ワインとは熟成の芸術だ!! 伝統こそが至高であり、昔の味がすべてなのだ!!」
周囲がざわつく。確かに、老人の言葉に同調する者もまだ多い。老人はグラスを掲げ、侮辱を込めて吐き捨てた。
「こんな青臭い若者のワインなど、飲めるわけがない!!」
会場の空気が重く澱む。ヴィオレッタも困惑した顔で見守る中、ゆうこがすっと前へ出た。
彼女は近くの樽から、出来立てのワインを無造作にグラスへ注ぐ。熟成期間は短く、ヴィノリアの基準では安物扱いされる類のものだ。老人が鼻で笑う。
「そんなもの――」
「いいから飲め」
即答だった。
老人が呆気に取られて固まる。クルスが額を 押さえて溜息をつく。
「出ましたね、必殺の……」
「出たわね」
サクも苦笑まじりに頷く。完全にいつもの流れだった。老人はなおも抵抗する。
「だから、私は――」
「飲め」
「人の話を聞け」
「飲め」
「聞く気はないのか」
「いいから飲め」
論理の通じないゆうこの押しに、老人は根負けした。ぶつぶつと不満を漏らしながらグラスを受け取る。観衆が見守る中、老人が渋々一口、口に含んだ。
静寂が広場を支配する。老人の眉がぴくりと動く。さらにもう一口、二口。周囲が固唾を呑んで見守る中、やがて老人がぽつりと言った。
「……酸っぱいな」
会場がずっこける。「酸っぱい」「若い」「荒い」「未熟だ」。散々な評価が飛び交い、作った若者達が肩を落とす。だが、老人はグラスを見つめたまま、独りごちた。
「だが……面白い」
会場が再び静まり返る。
「十年後が楽しみだ」
その言葉に、若者達の顔が希望の光で輝いた。老人はワインを飲み干し、空になったグラスを高く掲げる。
「未来に乾杯だ」
歓声が上がり、地響きのような拍手が広場を包み込んだ。
歓声の中、ヴィオレッタはどこか寂しげに夜空を見上げていた。ゆうこはその視線の先が、王城の方向、かつて婚約者と過ごした日々へ向かっていることに気づく。
ネバーエイジの核となった、忘れたくても忘れられない想い。
ヴィオレッタが静かに呟く。
「不思議ですね」
キムが振り向く。
「陛下?」
「幸せなのです。皆が笑い、未来の話をしている。それなのに……まだ時々、会いたくなるのです」
声が震えた。キムは何も言わずに、ただ寄り添う。すると、ゆうこが新しいワインを一杯注ぎ、ヴィオレッタに差し出した。
「飲みなさい」
「ですが……」
「いいから飲め」
またしても即答だ。クルスが吹き出す。
「先生、本当に万能ですね、その言葉」
「万能なのよ」
ヴィオレッタは苦笑し、グラスを受け取った。ゆっくりと口をつける。
その瞬間。
何年もの間、失われていた味覚が、確かに戻ってきた。
若い葡萄の酸味、荒削りな渋み、そして優しく残る甘い余韻。かつての名酒とは違う、未完成の味。だからこそ、そこに「命」を感じた。
ヴィオレッタの頬を、一筋の涙が伝う。
「……酸っぱくて、少し苦くて。でも……ちゃんと美味しい」
何年も失っていたのは、未来を味わう心だった。ヴィオレッタは涙を流しながら微笑む。
「私が欲しかったのは、昔の味ではなく、前へ進む勇気だったのですね」
夜空に向かって掲げたグラス。
「ありがとう」
誰に向けた言葉か、本人にも分からない。けれど、その表情にもう迷いはなかった。
「未来に乾杯」
その声とともに、無数のグラスが掲げられる。歓声が夜空へ響き渡り、葡萄酒の香りが風に乗る。
それはもう過去に酔う香りではない。未来へ歩き出す人々の、確かな希望の香りだった。




