第82話『熟成された想いと、最初の一歩』
放たれる。
それは、ただ一本の純粋な矢。銀の軌跡を刻む、静寂の断罪者。
なのに、その場にいた誰もが戦慄した。肌を凍りつかせるような死の冷気、空間を重圧で塗り潰すような圧倒的な気圧。
これまでの次元とは明らかに一線を画す、終わりの気配がそこにはあった。
ヒュン――と、鋭利な刃物が空気を裂くような音が世界から消える。
矢が音速という境界線を軽々と置き去りにした証拠だ。
対峙する魔物「ネバーエイジ」が、初めて目に見える形で反応した。空間を構築していた葡萄色の霧が激しく渦を巻き、矢の軌道へ黒い触手のように殺到する。
防ごうと、あるいは飲み込もうと。だが、矢の勢いは止まらない。
霧を切り裂き、何百年、何千年も積み重なった未練と後悔の殻を打ち砕き、矢は真っ直ぐに突き進む。一点だけを狙い澄まして。
――ズッ。
重い湿り気を帯びた、何かが果てる音が地下五階に響いた。矢はネバーエイジの核の深淵に、容赦なく突き刺さっていた。
次の瞬間、宝石の如き妖艶な輝きを放っていた核に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
「な――」
ネバーエイジの言葉にならない声が途切れる。
矢が届いたのだ。あんなにも堅牢で、絶対的だった核に。
そして、ぷつり――と、まるで長年張り詰め続けていた運命の糸が千切れるような、耐え難いほどの寂寥感に満ちた音が響く。
パキッ。
核を伝う亀裂が音を立てて増えていく。ネバーエイジの瞳が見開かれ、困惑の色に染まる。
「ありえな――」
パキパキッ。
亀裂は勢いを増し、胸の奥にある核全体を覆い尽くしていく。
「やめろ」
初めて聞く声だった。怪物の喉から漏れたのは、傲慢さではなく、純粋な恐怖だ。
「やめてくれッ!」
ネバーエイジが咆哮すると同時に、霧が暴れ狂う。大地が地鳴りを立てて震え、地下室の冷たい天井が軋んだ。だが、運命の歯車はもう誰にも止められない。
サクは冷徹な眼差しでそれを見つめていた。砕け散る核の破片の中に、無数の光の残滓が見える。
誰かの思い出、誰かの後悔、誰かの未練。ずっと手放せずに抱え込み、肥大化させた結果、怪物へと堕ちた哀れな集合体。
「私は」
震える声が響く。
「忘れたくなかっただけだ」
ゆうこが静かに前へ出た。その歩みには迷いがない。彼女の瞳は、怪物をも包み込む慈愛に満ちていた。
「分かってるわ」
怪物がゆうこを見下ろす。その瞳には、かつて人間であった名残のような深い悲哀が漂っていた。
「でもね」
ゆうこは慈しむように優しく言った。
「思い出は、胸の中に閉じ込めて抱えるものじゃないわ。前を向いて歩き続けるために、糧にするものよ」
その言葉を聞いた瞬間、ネバーエイジの動きが止まった。核が完全に臨界点を迎え、砕け散る。
――パリン。
地下室には不釣り合いなほど、美しく澄んだ音だった。葡萄色の光の粉が空へ舞い上がり、霧を散らしていく。未練がほどけ、後悔が解け、光の粒となって天井の先、空へと昇っていく。
「ああ……」
ネバーエイジの巨大な身体が崩れ始める。砂の城が波に洗われるように、灰となって静かに、静かに消えていく。
その中心に現れたのは――一人の少女だった。
誰もが息を呑み、言葉を失う。そこにいたのは、葡萄色の髪を淡く揺らす、小さな裸足の少女。その寂しそうな瞳は、怪物とは到底呼べない、ただの子供だった。
「……あ」
ちくわが震える声を漏らす。少女は泣いていた。ずっと、この長い時の間、たった独りで泣き続けていたのだ。
「どうして……」
少女の小さな声は、地下五階の静寂に吸い込まれていく。
「私は、守っていたのに」
少女の悲痛な独白が続く。
「忘れないように、消えないように……みんなが大切な人を失わないように」
その言葉を聞いた瞬間、ゆうこは全てを理解した。この子は悪意に染まったわけじゃない。ただ、善意が歪んだだけだ。
やり方を間違えた、純粋すぎる想いの成れの果て。
少女はその場に膝を抱え込み、小さくうずくまった。
「だって、忘れられるのって悲しいでしょう?」
誰の言葉も返らない。少女は寂しげに、どこか遠い場所を見つめて続ける。
「だから全部、残したの。ずっと…ずっと…ずっと…」
何百年分もの時間。何千人もの感情。それらを積み重ね、熟成させ、最後には抱え込みすぎて手放せなくなったのだ。
その時、ヴィオレッタが前へ出た。キムが制止しようと手を伸ばすが、女王は毅然とした態度でそれを振り払った。そして、少女の目の前でゆっくりとしゃがみ込む。
目線を合わせる。優しく、穏やかな笑みを浮かべて。
「ありがとう」
少女が顔を上げる。ぽかんと口を開け、信じられないものを見るような瞳でヴィオレッタを見つめる。
「あなたのおかげで、私達は多くの思い出を残せたわ。そして、大切な人を忘れずに済みました」
女王の言葉に、少女の瞳が揺らぐ。
「でもね」
ヴィオレッタは微笑んだ。頬を伝う涙が、宝石のように光る。
「思い出は、ここに閉じ込めるものじゃないの。一緒に連れて歩いて、未来を作るものなのよ」
地下五階に深い静寂が降りる。少女の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。ぽろぽろと、止めどなく頬を伝う。
「でも……そうしたら、消えちゃう……」
ヴィオレッタは力強く首を振った。
「消えないわ」
そう言って、彼女は自分の胸にそっと手を当てる。
「私達の中に生き続けている。だから、決して消えることはないの」
その時、キムが一歩前へ踏み出した。その表情には、すべてを飲み込む覚悟が刻まれていた。
身分も立場も、もう関係ない。彼は真っ直ぐに、その少女の背後にある「ネバーエイジの核」の残滓を見据える。
「……聞いているのでしょう」
葡萄色の霧が、最後に応えるように揺れた。
「あなたは、伝えられなかった想いの集積体として生まれた。だから、私のこの想いも、あなたの一部にしたいのでしょう」
キムは静かに、しかし断固とした意志で首を振った。
「でも、あなたには渡しません」
地下五階の空気密度が高まる。
「この想いは、未練にするためのものじゃない。伝えるために、ずっと胸に抱いてきた大切な熱量なんです」
ヴィオレッタが息を呑む音が聞こえた。キムの視線は、ただ彼女だけを射抜いていた。
「私はずっと怖かった。身分が違う、立場が違うと理由をつけて、この想いを胸にしまって生きていくしかないんだと、諦めていました」
キムは自嘲気味に、だが愛おしそうに苦笑する。
「でも、それは違った。伝えなかった想いは、誰一人として幸せにしない。あなたも、私も、ただ苦しめるだけだった」
溢れる涙をこらえ、キムはさらに一歩を踏み出す。
「だから、もう逃げません」
彼はまっすぐ女王を見つめ、告げた。
「ヴィオレッタ様。私は、あなたを愛しています。過去のあなたも、今のあなたも。そして、未来を共に歩むあなたも。そのすべてを、愛しています」
地下五階に、沈黙という名の聖域が落ちた。
その横で、ちくわが堰を切ったように号泣を始める。あまりの速さに、その場が少しだけ和らいだ。
ヴィオレッタの瞳から、それまでの全てを洗い流すような涙が溢れる。彼女は震える声で、その想いに応えた。
「……私もです」
その一言は、何年も言えずにいた呪縛を解き、ようやく未来へと解き放つ鍵となった。
その瞬間、地下五階に積まれていた無数の樽が、一斉に輝きを放った。金色の、柔らかな光。それは未練の色ではなく、感謝の色であり、愛情の光。
ネバーエイジの少女は、その光を見上げた。呆然と、しかしどこか晴れやかな表情で。そして、長い時の果てに、初めて笑った。
「そうか……みんな、ちゃんと進んでいたんだ」
少女の身体が、粒子となって光の中へ溶けていく。
役目は終わったのだ。長い、長すぎる年月の終わりが、そこにあった。
消える直前、少女はサクを見つめ、ゆうこを見つめ、クルス、ちくわ、そしてしゅわ丸を見渡した。最後にもう一度だけ、優しく、少しだけ寂しそうに微笑む。
「ありがとう」
その言葉と共に、ネバーエイジは光の粒となって、地下五階の空へと溶け消えていったのだった。




