第81話『貫月(かんげつ)!!』
その瞬間。周囲の霧がざわめいた。
無数の声。無数の未練。無数の感情。それら全てが、毒のようにサクへ向かって殺到する。
「会いたい」
「帰りたい」
「やり直したい」
「忘れたくない」
「終わらせたくない」
それは言葉の嵐であり、感情の渦だった。かつて誰かが抱いた切実な願いが、形を持って襲いかかる。ネバーエイジという存在そのものが放つ、強烈な拒絶。
ゆうこが戦闘の構えを取り、クルスが地を蹴って叫ぶ。
「来るぞ!」
ちくわは慌てて硬化を発動し、両腕を漆黒の鎧へと変えた。だが、誰もが動揺を隠せない中、サクだけは静止したままだった。
サクは懐から酒瓶を取り出し、迷いなく栓を抜く。
――ぽん。
ワインボトルのコルクが抜ける音が、静寂の中に小さく響いた。そこに芳醇な香りが一気に広がる。かつてヴィノリアで飲み続けた、あの酒の匂い。姉との思い出に寄り添う、どこか懐かしく、そして切ない記憶の香りだった。
サクは静かに呟く。目の前の姉へ。いや、本物ではない、ただの幻影へ向かって。
「私ね」
彼女は小さく笑った。
「友達ができたの」
ゆうこが目を丸くし、クルスも驚きに振り返る。サクの視線は揺るがない。
「うるさい元看護師と、馬鹿みたいに騒がしい厨二病」
クルスが即座に食ってかかる。
「誰が厨二病だ!」
「あなたよ」
サクは酒を一口、喉へ流し込む。目を閉じて、そのすべてを感じ取った。香り、味、苦味、酸味。それは過去の残滓ではない。今、この場所に確かに存在する「生」の味だ。
「だから」
サクは前を見る。その瞳には、もはや迷いはない。
「もう一人じゃないの」
その瞬間、ネバーエイジの表情が初めて大きく歪んだ。
ゆうこは直感した。ネバーエイジは過去へ引き戻す力に長けている。だが、未来には弱い。今を生きようとする意思に対しては、極めて脆弱だ。サクの言葉が、確実に怪物の核心を突いている。
「なるほどね」
ゆうこが不敵に笑う。
「病気と同じか。患者本人が治ろうとしない限り、治療は始まらないってわけだ」
ネバーエイジは未練を餌にする。だが、本人が前へ進むと決めたなら、その力は砂の城のようにもろい。
その時、しゅわ丸が勢いよく飛び出した。
「みんなを、たしゅける!」
一直線にネバーエイジへ向かって突き進む。
「しゅわ丸!?」
次の瞬間、泡が次々と弾け飛ぶ。
ぽんっ、ぽんっ、と軽快な音とともに、地下五階を埋め尽くしていた樽から、無数の映像が溢れ出した。人々の人生だ。
だが、今まで見てきたものとは明らかに違う。失った瞬間だけを切り取るのではない。その「その後」が映し出されていた。
夫を亡くした女性が、泣き叫び、それでも再び笑う姿。
親を亡くした子供が、立ち止まり、それでも成長していく姿。
失恋した青年が、傷つき、絶望し、それでも別の誰かを愛する姿。
ネバーエイジが動揺し、初めて怒りの声を上げる。
「やめなさい! 見せるな!」
だが、しゅわ丸は止まらない。
「さいごまで、みよ?」
未練だけでは終わらない、人々が前へ進んだ記憶を、無慈悲なまでに突きつける。
ゆうこは確信を得て笑った。ネバーエイジは思い出の一番甘い部分を見せ、人を停滞させていた。
だが、しゅわ丸の「感情記録」は違う。人生の全て、悲しみも後悔も、そして乗り越えた未来さえも、ありのままに見せるのだ。
ネバーエイジの巨体が揺らぎ、葡萄色の霧が乱れる。その光景を見ながら、サクは静かに酒瓶を握り締め、瞳を細めた。
「なるほど」
全てのピースが繋がった。ちくわの硬化も、この怪物の性質も。
サクは、初めて自分から一歩前へ出た。
彼女は静かに右手を掲げる。指先から赤い酒気が溢れ出し、空中へ。それは瞬く間に凍てつき、結晶化していく。
――ぱきん。
乾いた音が響く。赤い硝子細工のような欠片が、空中で組み上がり、やがて一張りの長弓へと姿を変えた。月明かりを受けて妖しく輝く、深紅の結晶弓。
その両端を繋ぐのは、ガラスではない。
極限まで圧縮された一本の酒気。
赤い光の弦がぴんと張り詰め、空気そのものを震わせた。
続いて左手へ酒気が集まり、瞬時に矢が形成される。
クルスが息を呑む。
「綺麗ですね……」
ちくわも思わず見惚れた。
「宝石みたい……」
サクは何も答えない。ただ、弓を引き絞る。
――ぎりり。
弦が鳴く。ネバーエイジが嘲笑う。
「そんなものが通じると思うか?」
サクは答えない。ただ、迷いのない瞳で怪物を射抜く。
放たれた矢は、しゅっ、という鋭い風切り音とともに一直線に走った。
次の瞬間。
――どんっ!!
爆発に似た衝撃が地下空間を震撼させた。周囲のグラスが粉々に砕け散る。しかし、ネバーエイジは動かない。巨木のようにそこに立ち、胸に突き刺さった矢を冷ややかに見下ろしている。
――ぐしゃり。
霧が蠢き、矢を飲み込んでいく。跡形もなく消滅した。
「終わりか。その程度で私を止められると思ったか」
怪物の声は、圧倒的な威圧感を持って場を支配した。誰もが息を詰める中、サクだけは目を逸らさない。じっと、怪物の胸の一点を見つめている。
ネバーエイジは気付いていない。今の一撃によって、サクが霧の奥に潜む「何か」を見てしまったことに。ほんの一瞬だけ覗いた、小さな光。
それは深い熟成庫の奥で、誰にも見つからずに眠り続ける宝石のように見えた。
「……あった」
サクは小さく呟いた。
「何か見えたの?」
ゆうこが問うが、サクは答えない。怪物の核を見据えたまま、彼女は決意を新たにする。ネバーエイジの霧が荒れ狂い、大地が悲鳴を上げる。
だが、サクの意識は、すでにその先の真実へと向けられていた。
「なるほど」
静かな、けれど確かな勝利の予感が、彼女の呟きに込められていた。
ネバーエイジが嗜虐的に笑う。
「何を見た」
サクは無言で弓を下ろし、代わりに目を閉じた。
今の一撃の感触を脳内で反芻する。角度、威力、軌道、着弾の衝撃。すべてを精密に解析し、導き出された結論はあまりに無情だった。
「無理ね」
静かな宣告に、クルスが息を呑む。
「え?」
「今の私じゃ届かない。ネバーエイジの胸の奥にある核は、異常なほど硬い。人の未練と後悔が凝縮されたその深淵を、今の私の矢では傷一つ付けられないわ」
サクは毅然と言い切る。悔しさや焦りは微塵もない。ただ、己の限界を冷徹に受け入れているだけだ。その姿に、横で控えていたゆうこが呼びかける。
「サク」
「分かってる」
サクは短く答え、胸の前で強く拳を握りしめた。
「まだ、未完成だから」
その言葉に、ちくわが顔を上げ、驚愕に瞳を揺らす。
「未完成……?」
「そう。私、今まで全部を硬くしようとしてた。戦い方の根本が、間違ってたのよ」
サクの呟きに、ちくわは息を止める。気付いたのだ。戦場という死地において、己の在り方を定義し直そうとする仲間の覚悟に。
轟音とともにネバーエイジが腕を振るい、大地が悲鳴を上げて砕け散る。
だが、サクの意識は研ぎ澄まされ、別の次元へ潜り込んでいた。
「ちくわ」
弓を構えたまま、背後のちくわに問う。
「なんでしょう?」
「硬化のコツを教えて」
「今ですか?」
「今」
即答だった。
ネバーエイジが咆哮し、葡萄色の死の霧が荒れ狂う。その風圧に晒されながらも、サクの瞳は射抜くべき対象だけを見据えていた。
「私は何を間違えてる?」
ちくわはわずかに沈黙し、次の瞬間、ポンと掌を打った。
「力を広げすぎなんです。例えば、あの怪物を倒したいとして、肩を闇雲に押しますか?」
「……いいえ」
「足元を崩した方が早いですよね。硬化も同じです。全部を強くするのは、ただの分散に過ぎない」
ちくわはネバーエイジを指差し、断言する。
「硬化は量ではありません。質です。一点に集めるんです」
ネバーエイジが巨大な拳を振り下ろす。サクは跳躍してそれを回避しながら、空中で矢を生成した。結晶が組み上がる音。サクの中で、霧が晴れていく。
「今まで、私は全てを強くしようとしていた。でも、それは……」
「はい。分散です。矢なら矢じり、剣なら刃、槍なら穂先。貫くべき場所だけを、極限まで硬くするんです」
その時!
「圧縮玉!」
ドォォォン!!
ゆうこの放った圧縮玉が炸裂し、ネバーエイジの巨体がわずかによろめく。その刹那の隙を、サクは見逃さない。
手にした矢を見つめる。全体に均一に流していた硬化の力を、静かに、しかし確実に引き絞る。
「もっと先へ。もっと細く、鋭く、一点へ」
ちくわの助言を胸に、サクは己の限界をさらに押し広げようと意識を研ぎ澄ませる。
サクは静かに目を閉じ、ネバーエイジの胸奥にある、あの小さな光――核だけを思い浮かべた。
貫く。ただその一点のためだけに、今の自分を最適化する。
「硬化は、守るための力じゃない」
ちくわの穏やかな声が響く。
「本当は、届かせるための力です」
サクの瞳が大きく開かれる。
その瞬間、矢じりだけが白銀に輝いた。
今までとは比較にならないほどの密度で、ありったけの硬化が一点に集中する。
ネバーエイジがこちらを向き、嘲笑を浮かべようとして、直後にその動きを止めた。胸の奥の核が、不吉な予感に微かに光り出す。
サクは限界まで弓を引き絞る。弦の鳴る音が、まるで勝利の訪れを告げるように澄んだ音色を響かせた。
「貫月!!」




