第80話『だから私は生きる』
その夜。
ゆうこは眠れずにいた。宿の天井を無機質な視線で見上げる。部屋の中はひどく静まり返り、隣のベッドではクルスが大の字になって荒い寝息を立てていた。
少し離れた場所ではサクが灯りを頼りに本を読んでいた。しゅわ丸だけが、ゆうこの枕元で小さく丸まっている。
だが、頭の中ではずっと同じ言葉が反芻されていた。
「――思い出は生きるためにある。戻るためじゃない」
言葉にするのは簡単だ。しかし、実際はひどく難しい。ゆうこ自身にも、忘れられない人達がいた。
助けられなかった患者、救えなかった命。そして、あの夜に酒で死んだ自分自身。もし戻れるなら、やり直したいと思わないのか。そう自問自答し、ぽつりと呟いた。
「……思うよね」
ぷるっ、としゅわ丸が不意に起き上がる。何かを感じ取ったのか、震えながら窓の方角を凝視している。
まただ。ゆうこは心臓の鼓動が速まるのを感じながら、急いで身体を起こした。窓の外、追憶酒蔵の方角。そこから、怪しい薄紫色の光が夜空へ向かって静かに伸びていた。
◇
翌朝、王城での緊急招集。会議室へ飛び込んだゆうこ達を待っていたのは、青ざめた表情のキムだった。
「大変です」
その一言だけで、良い報告ではないと直感した。
「何があったの?」
キムは資料を机に置いた。震える手先が、事態の深刻さを物語っている。
「昨夜だけで二十三人。眠り葡萄病の新規発症者です」
会議室の空気が氷のように凍りついた。
「二十三人だって!?」
クルスが叫ぶ。
昨日までとは比にならない増え方だ。加速している。キムは苦しそうに喉を鳴らした。
「しかも、彼ら全員……追憶酒蔵を訪れていないのです」
全員が顔を見合わせた。今までの仮説が根底から崩れていく。
「どういうこと?」
ゆうこの問いかけに、キムは窓の外へ視線を向けた。
「分かりません。昨夜から、街中で声を聞いたという報告が相次いでいます。亡くなった家族の声です」
嫌な予感が、背筋を凍らせるように駆け抜けた。
「声……?」
「はい。父の声を聞いた者、亡き妻の声を聞いた者、子供の声を聞いた者……皆、その声に導かれるように眠りにつきました」
つまり、ネバーエイジはもう酒蔵の中だけの存在ではない。外へ出始めているのだ。サクが低く呟いた。
「熟成が終わったのね」
その残酷な指摘に、誰も反論できなかった。
その時、会議室の扉が勢いよく開かれた。ばんっ、と音を立てて飛び込んできたのは衛兵だ。顔面は恐怖で蒼白に染まっている。
「陛下!!」
「どうした」
「追憶酒蔵の地下四階への封鎖扉が、破壊されました!!」
息を切らしながら叫ぶ衛兵に、全員が椅子から立ち上がる。衛兵はさらに絶望的な事実を告げた。
「中にいた職員達が――全員、自分から地下五階へ向かったのです」
ぞくり、と背筋が冷える。連れて行かれたのではない。自分の意志で、望んで歩いて行ったのだ。
その時、しゅわ丸が大きく震え、ぷるるるるるるっ!! と激しく泡を弾かせた。
◇
今までで最も鮮明な光景が、脳裏に焼き付くように浮かび上がった。地下五階。巨大な空洞に積み上げられた無数の樽。天井まで届くワインの山。
その中央、葡萄色の霧の中に、一人の女性が立っていた。顔は判然としないが、どこかヴィオレッタに似ている。
彼女は優しく、そして寂しげに微笑んだ。まるで誰かを待ち続けていたかのように、甘く囁く。
「――帰っておいで」
映像が消えると同時に、しゅわ丸はぐったりと倒れ込んだ。部屋には重苦しい沈黙が満ちる。誰もが理解した。
ネバーエイジは怪物ではない。ただ、優しく手を差し伸べ、「会いたい人に会わせてあげる」「戻りたい時間へ戻してあげる」と囁く。だからこそ厄介なのだ。人は抗えない。
ヴィオレッタは青ざめた顔で立ち尽くしていた。唇は震え、目には涙が浮かんでいる。彼女はその女性の姿に、ある人物を重ねていたからだ。
「そんな……ありえません」
消え入りそうな声。キムが振り返る。
「陛下?」
ヴィオレッタはゆっくりと顔を上げた。誰にも言ったことのない事実を、絞り出すように口にする。
「今の人は……私の母です」
その場にいた全員が固まった。クルスが思わず聞き返す。
「いや待て。陛下のお母さんって……」
ヴィオレッタはゆっくりと頷いた。
「二十年前に亡くなっています」
その指先は、隠しきれないほど震えていた。
王家の記録によれば、先代女王アリアナは病で亡くなった。しかし、ヴィオレッタは窓の外の遠い葡萄畑を見つめながら、独白した。
「最後に会えなかったんです。私は当時、留学中で……帰国した時には、もう」
後悔、未練。ネバーエイジが最も好む栄養分だ。
その時、サクが腕を組んで前に出た。
「違うわね」
彼女の表情は異様なほど冷静だった。
「陛下のお母様じゃない。ネバーエイジは未練の集合体。一番効く姿を選んでいるだけよ」
確かにそうだ。もし本物なら、なぜ地下五階にいる? なぜ人を眠らせる? 辻褄が合わない。
「つまり、偽物ってことか?」
クルスの問いに、サクは静かに答える。
「ええ。未練が作った理想像よ」
ヴィオレッタは黙ったままだ。頭では分かっていても、心は揺れる。その時、ゆうこが力強く立ち上がった。
「確認しに行こう。地下五階へ」
ちくわが青ざめる中で、ゆうこは医療従事者の鋭い眼差しを向けた。
「今の時点で分かっていることは三つ。眠り葡萄病は思い出へ引き込まれる病気。紫の霧が関係している。そして、強い未練ほど狙われやすい」
その言葉を聞き、全員がサクを見た。サクはこの旅で、自分の過去を一度も語っていない。なぜ酒を飲み続けているのか。何を失ったのか。その未練こそ、ネバーエイジの好物であるはずだ。
しかし、サクはふっと綺麗に笑った。どこか寂しげな笑みだった。
「大丈夫よ。私が一番知っているから」
「何を?」
サクは遠い昔を見つめるように、小さく呟いた。
「戻れないことを」
その一言に、ゆうこは何も言えなかった。
翌日。
まだ夜明け前の空がどんよりと重い。
追憶酒蔵は完全に封鎖されていた。一般客の姿はなく、王城の衛兵達が物々しい雰囲気で周囲を固めている。重苦しい空気が漂う中、ゆうこが白衣の襟を正すと、隣で肩を回していたクルスが顔をしかめた。
「いよいよね」
「なんか嫌な予感しかしないですね」
「今さら?」
「今さらです」
サクは静かだった。表情はいつも通りだが、ゆうこには分かる。彼女の背中が、わずかに緊張で強張っていた。
地下へ降りる。地下一階、地下二階、地下三階。そして問題の地下四階へ足を踏み入れると、昨日よりもさらに空気が重く濁っていた。
壁も、床も、積み上げられた樽に至るまで、至る所から無数の囁き声が聞こえてくる。
「会いたい」「帰りたい」「ごめん」「ありがとう」「愛してる」
無数の感情と、無数の人生の断片。ゆうこの肩にしがみついていたしゅわ丸も「ぷるるる……」と震え、かなり怖がっている様子だ。
やがて、地下五階へ続く巨大な黒い鉄扉の前へ辿り着く。葡萄を模した紋章と、王家の封印が刻まれた扉。しかし、それはすでにゆっくりと、まるで招き入れるかのように開かれていた。
「歓迎されてますね」
クルスが露骨に嫌そうな顔をする。
「嫌な歓迎ね」
サクも短く同意した。
扉の向こう側は、地下というよりもはや別世界だった。天井は見えず、巨大な空洞が広がっている。
数え切れないほどの樽と、紫色の霧。そして、甘い香りの中に立ち尽くす無数の人影。
全員、眠り葡萄病の患者達だった。幸せそうな顔で立ち、夢を見ながら歩く人形のようである。
「うわ……」
ゆうこは息を呑んだ。百人どころではない。もっと多くの人々がそこにいた。
その時、霧を裂いて優しい声が響いた。母親のような、恋人のような、すべてを受け入れる温かな響き。
「ようこそ」
霧が揺れる。中央に鎮座する巨大な熟成樽の上に、一人の女性が立っていた。長い葡萄色の髪に、純白のドレス。美しい笑顔を浮かべるその存在は、見る者によって姿を変えるようだった。
ゆうこには看護師時代の先輩に、クルスには憧れの英雄に、ヴィオレッタには母に見える。
そして――サクの顔色が変わる。この旅で初めて、彼女が明確な動揺を見せた。
「久しぶりね」
女性はサクを見つめ、真っ直ぐに告げる。
「会いたかったわ」
静寂が場を支配する。クルスも、ゆうこも、ちくわさえも息を潜めた。サクは何も答えない。ただ、拳を白くなるほど強く握り締めていた。
女性は一歩前へ出た。
「あなたはずっと苦しかった。ずっと寂しかった。ずっと後悔していた」
それは否定しない声。だからこそ、サクにとって何よりも危険な毒だった。サクの瞳が大きく揺れる。
ネバーエイジはさらに畳み掛ける。
「もう頑張らなくていいの。ここへ来なさい。会わせてあげる」
霧が広がると、サクの前に一人の人影が浮かび上がった。銀髪の、優しい笑顔を浮かべた若い女性。誰だか分からない。けれど、サクには分かった。
「……姉さん」
小さく漏れた声に、全員が固まる。初めて明かされたサクの過去。女性は生きていた頃のまま、変わらない姿で手を伸ばした。
「サク、おいで」
サクの足が動き出す。一歩、また一歩。ゆうこは息を呑んだ。止めるべきだ。でも、その表情があまりにも切実で、声をかけられない。
ネバーエイジが勝利を確信したように笑った、その時だった。
サクの足が、ぴたりと止まる。女性の目前で。
「どうしたの?」
ネバーエイジが首を傾げる。サクは俯いたまま、泣きそうな声で小さく笑った。
「本当にずるいわね」
ぽたり、と涙が落ちる。
「会いたいに決まってるじゃない。毎日会いたかった。今でも会いたい。抱きしめてほしい。話したい。一緒に飲みたい」
誰よりも正直な言葉が、地下五階に響く。ネバーエイジが微笑んだ。
「だったら――」
しかし、サクは顔を上げた。涙で濡れた頬のまま、それでも彼女は笑ったのだ。
「でも」
銀色の瞳が真っ直ぐに前を向く。
「だから進むのよ」
サクの声は静かだが、揺るぎなかった。ネバーエイジの笑みが初めて消える。
「……どうして? 会いたいのでしょう? 戻りたいのでしょう? ここには苦しみなんてないのよ」
甘い誘惑。だが、首を振った。
「苦しいわよ」
サクは自分の心を曝け出す。
「会いたいのに会えないんだから。戻りたいのに戻れないんだから。苦しいに決まってる」
涙は止まらない。それでも、サクは酒瓶をぎゅっと強く握り締め、力強く笑い返した。
「でもね。……それでも、私は生きるの」




